『親子』
翌日。
ここはその大覚寺。
本堂の片隅に一際高くそびえる槐の根元に、竹箒が転がっている。
天に向かって張り出された、葉の生い茂るその枝に、長い髪を後ろで束ねた一人の少年が跨がり、幹にもたれかかって空を眺めていた。
ほどなく人声がした。
見れば本堂から黄色の衣を着た一人の中年僧と、周りを取り巻く暗色衣の僧の姿。
「やべ」
少年は体を起こすと、ひらり身を躍らせ、一丈ほどの高さから飛び降りた。箒を手にすると、神妙な様子でそれを動かし少しずつ移動して槐の幹を廻り、彼らから身を隠そうとする。だが――。
「珂惟!」
背後から鋭い声。
「バレたか」
口中に呟くと、少年はゆっくり振り返り、
「これは上座。何か」
涼しい笑みを浮かべ、厳しい面持ちで本堂の石壇に立つ中年僧を見上げた。
上座、と呼ばれた僧は、従う三人の若い僧たちに目を巡らすと、
「お前たちは先に行っていなさい。私は珂惟に話がある」
「かしこまりました」
彼らは厳粛な面持ちで合掌すると、一列になってその場を去って行った。
が、上座が背を向け、少年に近い階段目指して歩き出した気配を察すると、彼らは一斉に足を止めた。そして振り返り、嘲笑を浮かべて少年を見た。先頭に立つ年長僧の口が動く。「ザ・マ・ア・ミ・ロ」
思わず苦笑い。
「どうした」
「いえ」
上座は目の前で肩を竦める少年を見、肩越し振り返り、整然と本堂を後にする、少年と同じ年頃の若僧たちの後ろ姿を見やった。そして、
「少し歩くか」
再び珂惟に視線を戻すと、上座は本堂を離れ、歩き出した。珂惟も黙って後に従う。
本堂の北西にある鐘楼の更に奥、僅かに小高くなったところに、背丈より僅かに高い白梅や紅梅が交互に植えられている。梅香に誘われるように二人はそこを目指し、歩いた。
梅林に入ると足を止め、先に口を開いたのは上座である。
「さきほどは木の上で何を思案しておったのだ。珍しく考えこんでいたようだったが……」
その言葉に、珂惟は手にしていた箒の柄でこめかみを押さえながら、
「ちょっとね、今度の『度(僧になるための国家試験)』のこと」
「おお、お前もやっと真面目に考えるようになったか」
妙に砕けた口調を返す少年をとがめるどころか、上座は嬉しそうに声を上げた。
だが。
「今度はどうやってサボろうかなーと思って。風邪で喉をやられて声が出ないってのはこの前、その前は高熱で起き上がれないってのも使ったよな、だから今度はどうしようかなと。腹痛? 頭痛? いや、それとも……」
「珂惟!」
皆までは言わせてもらえなかった。
「何を考えているんだお前は! 寺に住む分際で、度をサボり続ける奴がどこにいる。いい加減あきらめて僧になれ」
「やだよ、そんなカッコ悪い坊主頭なんか。俺が髪下ろしたりなんかしたら、京城の女の子がどれくらい泣くか、分からないかなあ」
「それが仏門に身を置くものの言う言葉か」
「――よく言うよ。だいたい『嘘をつかない』ってのは仏教信者の基本だろ。それを最高僧自ら破っていいわけ?」
珂惟は責めるように、上目遣いで上座を見た。
仏教信者は在家と出家に大別される。
在家信者は誰でもなれる。
寺に行き日常生活において「五戒」と呼ばれる五つの決まりを守ることを約束すればいい。五戒とは、盗まない・殺さない・浮気をしない・嘘をつかない・酒を飲まないというもの。
対して出家信者は度に合格した者のみがなれる。
僧になると納税・兵役を免除されるので、身の安全を図り信仰心がないのに出家を目指す者も多かった。だがそんな者が合格しては仏教界の名折れとなるばかりか国家財政が圧迫されることにもなるので、年々難易度が上がり、今や倍率は数十倍である。
それに晴れて合格し、剃髪して「沙弥」(見習い僧)となったものは十戒を、二十歳を過ぎ「比丘」(正式な僧)になることを認められた者は二百五十戒を守らねばならない。
「上座」とは、寺を管轄する最高責任者であり、何百万といる比丘の中でも更に優れた一握りの者が周囲に認められ、また国の承認を受け就くことができる、仏門の最高位である。
話は戻る。
珂惟に自らの非を冷たく指摘された上座は、口元に浮かべていた笑みをにわかに収め、
「『嘘』ではない、『方便』(訳ありの嘘)だ。それに――私は、本当は隠したりしたくない」
重々しく言うと、真っすぐに珂惟を見下ろした。
その様子に気圧されたように、珂惟は慌てて目を逸らした。
「またワケの分からないことを……」
「いや、私は本気だ。なりたくて上座になったわけでなし、もう嘘をつくことに疲れた。お前だって本当はこんな所にいたくないんだろう? だから度も受けたくないんだよな? もうこれ以上お前に負担をかけるのは忍びない。そうだ。今から言おう、今こそみんなに聞かせてやろう、お前が私の息子……」
「わーっ、やめろやめろ。もういい分かったから!」
珂惟はそう、わめきながら手にした箒を放り出すと、上座の口を押さえ、慌てて周囲を見回す。木の間から覗く本堂にも周辺の建物にも、人影はない。
俗世のしがらみから解かれ、様々な優遇を受ける出家者が戒を破った場合、様々な処罰があった。
殊に仏教徒四大禁忌を破った者は、バレれば還俗(一般人に戻ること)の上、「破戒僧」として俗法で裁かれ厳罰に処される。そして二度と僧には戻れない。
ちなみに「姦淫」は、仏教四大禁忌の一つである。
さて誰にも気づかれていないことにほっとした珂惟は、はっと我に返り、慌てて上座の口から手を放すと三歩後ろに後ずさった。
そんな珂惟を面白そうに見ていた上座だったが、少々困惑気味に、
「じゃあ何で度を受けないんだ? この生活が不満で、その原因を作った私に対する、ささやかな抵抗かと思ってたんだが……」
その言葉に、珂惟はおもむろに箒を拾い上げ、
「あんた、鏡見たことある?」
そういう口調は心底呆れている。
「は?」
惚けた声を出す上座に、珂惟はビシッと右手を突き出し、
「その切れ長な奥二重! 通った鼻筋! きりりと閉まった口元! 道行く女は老若問わず皆振り返るこの美男子ぶり――ってそっくりじゃん!」
「ん?」
「まだ分かんないかよ、この上俺が髪なんか下ろしてみろ。『上座と珂惟って似てない? 』『だよなー、俺もそう思った』ってことが重なって、いつかバレる、きっとバレる」
「そうかねぇ」
上座はイマイチ納得しかねる様子。珂惟はそんな上座を一瞥すると、足元に目を落とし、拾い上げた箒で辺りを掃き始めた。地を擦る音が規則正しく繰り返される。
「俺はまあ、それなりに平和なこの生活が気に入ってるんだ。バレたら俺はこの寺を追われちまう。ま、あんたがもっと年寄りくさくなって、俺が髪を下ろしても間違いようもなくなったら考えるさ。――だいたいさ、あんたはやたら軽々しく『上座に未練はない』なんて言うけど、寺の生活しか知らないからだって。世の中ってのは、そんなに甘いもんじゃ……」
いきなり頭上から笑い声。
見ると上座が目に涙まで浮かべ笑っている。珂惟は箒を動かす手を止めたとたん
「何だよいきなり――って触んなよ!」
「そうか、私の心配をしてのことだったとは――なんてかわいいんだお前というヤツは。嗚呼、やはり子供は持つもんだ。父は嬉しい」
珂惟は感激する上座に首根っこを左腕で押さえ付けられ、その上右手で頭をくしゃくしゃにされた。再び転がった箒が、積もった枝葉の山を崩す。
「だからそういう発言は――やめろ触んなっ、あーっ、髪が乱れる!」