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京城遊行記  作者: 天水しあ
巻の三『暴夜』
16/48

「存在意義」

「あ……、あの寺主がお呼びに。崇玄署(寺院を管轄する役所)からの使者が……」

 茫然とした様子。ただ唇だけが動いている。本人の意志とは、まるで関係ないかのように。

「そうか。分かった」

 静かに上座が頷いた。

 そして何事もなかったかのように、強ばった表情の珂惟かいの脇を、茫然とする琅惺ろうせいの横をすり抜けて行く。


 残された二人に、落ちる沈黙。


「……」


 いつもなら、すぐにでも上座の後を追いかけていくのに、俯いたまま微動だにしない琅惺の横顔を、珂惟は気ぜわしげに窺っている。

 どれだけ時間が経っても身じろぎ一つしない彼の目には、何も映っていないのは明らかだった。

 少しずつ、歩を進めた。手が届きそうな距離にまで近づいたとき、珂惟は思い切って声をかけてみる。

「琅惺?」

 無反応。

「琅惺」

 少し声を大きくしてみる。すると伏せていた琅惺の目が、ゆっくりと上がった。

 その目に珂惟が映る。虚ろだった目に少しずつ宿っていく光、それは――。


「信じられない」


 声は震えていた。

 珂惟は向けられた視線を、唇を噛み締めたまま、黙って受け止める。

「信じられない。まさか……まさか清廉潔白であるはずの上座がそんな、まさか姦淫をなさってたなんて――」

 姦淫は、本来であれば即僧団追放ものの最重罪だが、人間の本能に逆らえなかった者は少なくない。外に密かに家庭を持っている者、その状況を周囲に黙認されている者でさえ、実はそう珍しい存在でもなかった。対外的には伏せられていても、寺内では密かに盛り上がる話題ですらあった――のだが。


「あり得るわけない、そんな莫迦な話……」


 大勢が暗黙に了解しているからといって、許されることではないのだ、決して。

 ああまったく、莫迦な話だ。

 

「嘘だそんな、ありえない……」


 向けられる憎悪ともいえる視線を逸らす事なく、動揺を露にする琅惺の様子を、珂惟はただ見つめていた。

 絶え間なく紡がれていく言葉にはもう、納得するしかない。

 ――そうだな。言う通りだ。本当にそうだ。間違ってない。それは分かる。分かるよ。


 だけど――。


 止まない声を聞くうち、噛み締めていた唇が、徐々に震え出した。

「――そんな程度かよ」

「え?」

 初めて、琅惺の表情が動く。

「お前が上座を尊敬してた気持ちってのは、そんな程度なのかよ。俺一人の存在くらいで揺らぐような、そんなもんだったのかよ!」

 その言葉に、琅惺の顔にさっと赤みがさした。

「そんなこと、君なんかに言われる筋合いじゃない!」

 だが、珂惟も負けていない。

「何だよ清廉潔白って。一体、この世に間違いのない人間が何人いるんだ。そうやって生きてける人間が、どれだけいるっていうんだよ! そうなれなくて、そうなろうとして皆苦しんでんじゃねえのかよ」

「そんなの、言われなくても分かってる!」

「お前にとって『ありうる』のは、一切破戒することない坊主だけなのかよ」

「誰も――そんなことは言っていない」

 琅惺の声が、僅かに低くなった。だが、

「お前はそう言ってるし、何も分かってない。分かってるヤツが、傷ついたから当然って顔して人傷つけんのかよ。お前は俺に、存在自体が間違ってるって言ってんだぞ。ありえない、嘘だ、大罪の証しだって、お前は俺にそう言ってる。平気で俺を傷つけてる。そんなヤツが――」


「珂惟!」


 突如飛んで来た鋭い声。

 見れば開け放した本堂の扉から境内に続く階段を、険しい表情の上座が駆け上がってきた。近づいて来た。そのまま小走りに階段をあがってくる。

「何て声を出しているんだ、おまえは! 辺りに響いてるぞ」

「え?」

 慌てて辺りを扉の向こうに目を投げる。

 見えるのは遠巻きにこちらを窺っている沙弥や比丘の姿。敷き詰められた白砂、灰色の石段――そしてそれと同じ色をして俯く琅惺。


「あっ……」


 一気に血の気が引いた。

 

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