「忍び寄る影」
そこで気づく。上座の手にある数珠が、いつもの黒檀ではなく、古ぼけた水晶であることに。
もうすぐ母さんの命日じゃないか――思い至って、珂惟は自分に驚いた。この日を忘れたことなんて、今までなかったのに。
なのに目の前の上座は、ちゃんと覚えているのだ。こんなのほほん面して。ロクに一緒にいなかったくせして。
だいたい、上座と行者なんて、本来こんなふうに対面することは愚か、口を利くことすら適わぬほどに立場の違うもので、そう滅多に話ができるわけではない。なのにこの人は、その僅かな時間を見つけると、ここぞとばかりに親ヅラをしたがる。おかげで妙な噂が立ってるっていうのに、この人は気にしていない。いや、むしろ楽しげでさえある。
この人の思うままに任せてたら、とんでもないことになる――頼りにならない親を持つと苦労する、まったく。
「そ、それはともかく上座」
珂惟は更に下がりつつ、しかし姿勢を改めると、
「あの本日、外出のご予定だったのでは? 確か、えーっと……」
上座の予定を一行者が知るわけもない。当てずっぽうである。しかし、
「外出? お、そういえば……」
言ってみるものだ。安堵する珂惟の眼前で上座は立ち上がり、
「まあとにかく、何があったかは知らぬが、年少者のやったことだ。罰も受けたことだし、許してやりなさい。仲良くすることだ」
「仲良くったって……それは相手がある話なんだから……」
立ち上がりつつ口中で紡がれた反論は届いたのかどうか――。
二人は共に部屋を出て、お互い反対方向へ歩き出す。上座はそのまま回廊を渡り、珂惟は部屋を出てすぐの階段を下りて院子へ。色濃い椿の葉群れが、朝日を浴びてつやつやと輝いている。
「和上」
声は頭上、上座の去った方角から。
思わず身を隠す。何をやっているんだ、珂惟は自らに呆れ怒りつつも、回廊を伺う。
そこには上座と、やはり琅惺が。
声までは聞こえない。しかし俯きがちの琅惺の神妙な面持ち。恐らく今回のことについて謝罪しているんだろう。でも、何故俺に手を上げてしまったのかなんて、理由を話すことは、きっとない。そして上座も、きっともう問い質さない。
上座が何事か言う。後悔滲む表情が、たちまち困惑――かすかな拒絶――に変わる。ほら見ろ、仲良くったって、俺一人の心がけでできるもんじゃないだろうが――それにしても、冷静沈着を誇る双璧の片割れの分際で、そこまであからさまに――なぜか心中がざわめきだす。
やがて二人は歩き出した。
少し先を行く上座は、時々振り返り、琅惺に言葉をかけている。それに琅惺は答え、頷き、そして――笑う。上座の笑みにつられるように、何度も。
「なんだよ、いっつも面みたいな顔してるくせして」
いや――そうじゃない。
本当は、知っていた。
琅惺が、上座の前でだけは、表情豊かであることは。
俺が来る三年も前からここに住んでいた。聞けば、どこからか上座が連れてきたのだという。よほど見込まれたということだろう。まさか他にも女が……ということでは、あるまい(以前、「俺に血を分けた兄弟ってのは、いるの?」って訊いたら、珍しく怒られた。あれは嘘じゃない)。
ヤツには見込まれ、期待に応えられるモノがある。でも自分には?
回廊の角を曲がった剃髪姿の二人が、珂惟のはるか前方を横切っていく。前を行く上座の手に握られた水晶の数珠が、日に反射してキラリと光った。かつては自分のものだった、母の形見。
血を分けている――ただ、それだけ。
――何それ。もしかしてヤキモチ?
あれは、あの言葉は本当に琅惺に向けた言葉だったのか?
空は、晴天。二人が去った回廊の高床部分を隠すように咲くのは、菜の花。透き通った青の下、日に輝く朱と黄――あまりにも明るくて、軽やかだ。
「戻るか」
そう踵を返しかけ――珂惟はにわかに振り向く。
そこにあるのは、先ほどとまったく変わらない風景。
「……気のせい、か」
珂惟はそう口中に呟くと、再び踵を返し、歩き始めた。