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京城遊行記  作者: 天水しあ
巻の三『暴夜』
13/48

「忍び寄る影」

 そこで気づく。上座かみざの手にある数珠が、いつもの黒檀ではなく、古ぼけた水晶であることに。

 もうすぐ母さんの命日じゃないか――思い至って、珂惟かいは自分に驚いた。この日を忘れたことなんて、今までなかったのに。

 なのに目の前の上座は、ちゃんと覚えているのだ。こんなのほほん面して。ロクに一緒にいなかったくせして。

 だいたい、上座と行者ぎょうじゃなんて、本来こんなふうに対面することは愚か、口を利くことすら適わぬほどに立場の違うもので、そう滅多に話ができるわけではない。なのにこの人は、その僅かな時間を見つけると、ここぞとばかりに親ヅラをしたがる。おかげで妙な噂が立ってるっていうのに、この人は気にしていない。いや、むしろ楽しげでさえある。

 この人の思うままに任せてたら、とんでもないことになる――頼りにならない親を持つと苦労する、まったく。  

「そ、それはともかく上座」

 珂惟は更に下がりつつ、しかし姿勢を改めると、

「あの本日、外出のご予定だったのでは? 確か、えーっと……」

 上座の予定を一行者が知るわけもない。当てずっぽうである。しかし、

「外出? お、そういえば……」

 言ってみるものだ。安堵する珂惟の眼前で上座は立ち上がり、

「まあとにかく、何があったかは知らぬが、年少者のやったことだ。罰も受けたことだし、許してやりなさい。仲良くすることだ」

「仲良くったって……それは相手がある話なんだから……」

 立ち上がりつつ口中で紡がれた反論は届いたのかどうか――。

 

 二人は共に部屋を出て、お互い反対方向へ歩き出す。上座はそのまま回廊を渡り、珂惟は部屋を出てすぐの階段を下りて院子にわへ。色濃い椿の葉群れが、朝日を浴びてつやつやと輝いている。

和上わじょう

 声は頭上、上座の去った方角から。

 思わず身を隠す。何をやっているんだ、珂惟は自らに呆れ怒りつつも、回廊を伺う。

 そこには上座と、やはり琅惺ろうせいが。

 声までは聞こえない。しかし俯きがちの琅惺の神妙な面持ち。恐らく今回のことについて謝罪しているんだろう。でも、何故俺に手を上げてしまったのかなんて、理由を話すことは、きっとない。そして上座も、きっともう問い質さない。

 上座が何事か言う。後悔滲む表情が、たちまち困惑――かすかな拒絶――に変わる。ほら見ろ、仲良くったって、俺一人の心がけでできるもんじゃないだろうが――それにしても、冷静沈着を誇る双璧の片割れの分際で、そこまであからさまに――なぜか心中がざわめきだす。

 やがて二人は歩き出した。

 少し先を行く上座は、時々振り返り、琅惺に言葉をかけている。それに琅惺は答え、頷き、そして――笑う。上座の笑みにつられるように、何度も。

「なんだよ、いっつもめんみたいな顔してるくせして」

 いや――そうじゃない。


 本当は、知っていた。


 琅惺が、上座の前でだけは、表情豊かであることは。

 俺が来る三年も前からここに住んでいた。聞けば、どこからか上座が連れてきたのだという。よほど見込まれたということだろう。まさか他にも女が……ということでは、あるまい(以前、「俺に血を分けた兄弟ってのは、いるの?」って訊いたら、珍しく怒られた。あれは嘘じゃない)。

 ヤツには見込まれ、期待に応えられるモノがある。でも自分には?

 回廊の角を曲がった剃髪姿の二人が、珂惟のはるか前方を横切っていく。前を行く上座の手に握られた水晶の数珠が、日に反射してキラリと光った。かつては自分のものだった、母の形見。

 血を分けている――ただ、それだけ。


 ――何それ。もしかしてヤキモチ?


 あれは、あの言葉は本当に琅惺に向けた言葉だったのか?

 空は、晴天。二人が去った回廊の高床部分を隠すように咲くのは、菜の花。透き通った青の下、日に輝く朱と黄――あまりにも明るくて、軽やかだ。

「戻るか」

 そう踵を返しかけ――珂惟はにわかに振り向く。

 そこにあるのは、先ほどとまったく変わらない風景。

「……気のせい、か」

 珂惟はそう口中に呟くと、再び踵を返し、歩き始めた。 




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