「思わぬ激情」
「――は?」
わずかな沈黙の後、珂惟の口を突いて出たのは妙に間抜けな声。構わず琅惺は続ける。
「上座と君のことを、口さがない連中が噂してる。君が夜、時々居ないのは上座のもとにいるからだと。だがそれは嘘だ。君が居ないとされた晩、上座に呼ばれたことが何度もあるから、私には分かる。だけどそんなことを言ったところで、皆がつまらぬ話をしなくなるとは到底思えない。君が姿をくらます理由が、はっきりしない限りは」
「それは……」口を開きかけた珂惟が目に入らぬように、琅惺はさらに、
「君が妓楼に通うのは勝手だし、それで身を持ち崩そうと、子を成そうと、仏門を捨てようとも私は別に構わない。だがそのことで上座に迷惑がかかることが私には耐えられない。あの方は素晴らしい方なんだ――君なんかに、汚されたくない」
一息に言い切った琅惺の言葉に、今度は珂惟が唇を噛む番だった。
何だそれ。何だよそれ。何でそこまで言われなきゃならないんだよ。おまえなんかに!
次の瞬間、思わぬ言葉を口にしていた。
「何それ。もしかしてヤキモチ?」
パンッ――乾いた音が響いた。
左頬に微かに感じる熱さが何なのか、すぐには分からなかった。
だが、それが目の前の琅惺に叩かれたせいだということが分かった瞬間、にわかに体中を駆け巡る衝動を、珂惟はおさえることができなかった。
「てめ……」
とっさに上がった手を、しかし珂惟は振り下ろすことができなかった。。
目の前の琅惺は震えていた。信じられないというふうに自分の右手を見、震えていた。
まるで自分を見ていない、尋常ならぬ琅惺の様子に、頭が急激に冷えていく。
「おいどうした」
「う……わああっ」
琅惺は何やら訳の分からないことを喚きながら珂惟に背を向け、ダッと走り出した。
「おい!」
思わず珂惟が声を張り上げた途端、
「誰だ!」
宿坊の向こうから鋭い声が飛んだ。複数の足音が、どんどんこちらに近づいて来る。
「やばっ、見張り」
珂惟は舌打ちすると、跳躍して槐の枝にぶらさがり、勢いをつけてそれによじ登ると、上へ上へと上がっていく。近づく足音が、揺れる枝が鳴る音を消した。
根元にバラバラっとなだれ込む人影。小さな炎も揺れている。
「どうだいたか?」
「いや、こっちには」
「でもなんか声がしたよな」
口々に言う声には聞き覚えがあった。ああ、あいつらか。思い浮かんだ顔に珂惟は大いに安堵する。そうして声が止んだのを見計らい、
「ニャーオー」
などと間延びした声を上げてみる。
「何だ猫か。珂惟かと思ったぜ」
「あれ? あいつ今日もいねえの?」
「どうだろうな。俺同じ部屋だから、戻ったら確認するわ」
彼らは口々に言いながら辺りを回るようなこともせず、すぐさま踵を返し去っていった。足音が宿坊の向こうに消えたのを見計らい、珂惟は再び地面におりたつ。
「危ねえ危ねえ。しっかし、あいつら意外と鋭いんだな」
上座とデキてるよりはずっと信憑性がないと思われてるんだろうが、あの琅惺が言い出すくらいだからな。俺が妓楼通いしてるって話は意外と知れ渡っているのかも。
「マズいな。これはしばらくおとなしくしてないと」
――に、しても……。
珂惟は振り返って、琅惺の姿呑み込んだ闇に目を遣る。その中に、もはや人の気配を感じ取ることはできなかった。左頬に触れた指先が、少しだけ冷たかった。
「何なんだよ、一体」
珂惟は口を尖らせ呟く。だが諦めたように踵を返し、僧房へと足を向けた。