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宝石が溢れてに今にも落ちてきそうだと錯覚するほどの満点の星空。
いつからかそれを眺める事が習慣になっていた少女はこの日もまた、深い溜め息を溢した。
彼女自身、その根本的な理由はよくわかっていない。
少なくとも、この夜空が美し過ぎて感嘆の溜め息を漏らすのではないのは解っていた。
毎日のように眺めているこの景色をいつまでも新鮮に感じれるほど自分は純粋な心を持っているとは思っていなかったから。
そして、その夜空から星が流れる度に彼女の心の何処かが欠落していくように感じていた。
喪失。
そう言うのが正しいのかもしれない。
だけど、彼女はそれを感じていなが
らも、何の感慨も湧かないのだ。
何故なら、彼女は嘘つきだから。
自分は全てを持っているのだと偽っているから。
そうやって自分も偽ってきて、いつの間にか身に付いてしまった能力。
……本当は、空っぽなのに。
だから、彼女はいつも呟く。
「…この世界は、つまらない」
***
肌が引き締まる様な冷たい空気。
もうすぐ春が訪れようとしているが、やはり早朝は清々しい程に空気が冷えている。
そんな中、その空気を打ち壊すかのように悲鳴が上がった。
「冷っっったーい!!」
大きな桶に水を浸して、洗濯板をてに持ちながらその少女ー香 深音は声を荒げた。
その艶やかな黒髪を高い位置に結い上げ、襷掛けをして服の袖が水に浸らないようにしている。
その隣には、光に反射してキラキラと光る銀色の髪を持つ青年が同じく洗濯をしていた。
「お嬢様、あとは私がやりますから。家の中であったまってきたらどうです?」
柔らかな声でそう諭すように言う。その甘い声で優しくされたらそこら辺の女の子たちが真っ赤になって殺到してしまいそうな程に整っていて綺麗な顔立ちをしている青年だが、この少女は全くそんな素振りは見せない。
「いいえ蓮羽。最後までやるわ。これは私の仕事ですもの。」
そうにっこり微笑んで、また冷え切った水と洗濯板と格闘し始めた。
その姿を見て、蓮羽は微かに微笑んだ。彼にはこの少女がそう答えるのが解っていたからだ。
自分も手を動かしながら、口を開いた。
「それにしても、今日は大切なお客様が来られると仰っていましたが、お嬢様は何方かご存知なんです?」
「それが、私も知らないのよ。父様は何も教えてくれなくって。…ずっとあの調子だから」
「ああ……」
蓮羽は苦笑した。深音の父である翔音はおっとりとした性格で、読書好きなこの家の主人だった。
「とにかく、どんな方であれ失礼のないようにしなきゃね。」
深音はそういって手際よく手を動かしていった。
その様子を見て、蓮羽は思う。
この目の前にいる少女はこの国ではいくつかある大名家の一つ、香家の姫であるにもかかわらず全く飾らない。
「偉そうに踏ん反り和えって、自分だけ何もやらないなんてこと、私にはできないわ」
そう言って名家の姫ならできる筈のない家事や雑ごとは難なくこなす。
その上器量も良いとくれば縁談の話も少なくは無いのだが、本人は尽く断っている。
普通なら名家からの縁談を断るような失礼なことが出来るずは無いのだが……
彼女が縁談を尽く断れる理由があるのだ。
「ああ、もう!父様がもうちょっとしっかりしていたら、蓮羽も自分の好きなことが出来るのに。…ごめんね、家事につきあわせて」
「いいえ」
笑顔で蓮羽は答えるのだが。
「本当にごめんね…父様が仕官している部署、本当はもっと多い禄がもらえる筈なのに、経費削減とか言ってどんどん少なくなってるし…。今はこんな時代でしょ?…後七日、どうやって節約していくか、悩みどころだわ」
深音は俯く。
彼女がこんなに悩んでいるのは、実際彼女の父親の所為だけではない。
紫国。
何十年も続いてきたこの国が傾き始めたのはもう10年前になる。
帝が誤った重臣を重用したおかげで経済が傾き、格差は広がり、おまけに王宮では派閥争いが起こり、中央としての機能が失われた。
その間の政は当然ままならなくなり、貴族も保身に走るあまり王宮の官吏たちとつながり、一方で首都であるこの紫泉でさえ飢えた人々で溢れ返る程悪化していた。
そんな王宮を弾圧しようと各地で反乱が起き、やっと王宮の官吏たちは政に力を入れようとしたが、時すでに遅く、この首都は反乱軍によって抑えらた。
一方その反乱軍を鎮圧させようとした官吏や将軍達は手を組み、無事首都を奪い返しはしたのだが。
当然荒れた王宮が元のような中央の機能を働かせることは出来ず、皇帝もその皇族も失踪。
只一人逃げ遅れた幼い皇子だけが鎮圧軍によって助けられたのだが、鎮圧軍の長であった臣下、中英が皇子を利用し、皇帝を補佐する、臣下の中で最高位である丞相の位を賜った。
そのような彼を善としない武将や各地を納めている臣下たちは別の派閥を作り、対立している。
そのような状態なのだ。
名家であるこの香家の翔音と深音は、そのような時代に左右される人々を助けようと食べ物を提供したり、飢えで病気になった人々を看病をしたりと働いていたが、そんな状態も長く続くと、当然お金は底をつく。
そのために名家で位は相当高いが、貧乏貴族。だが、民からの信頼は厚い。
それが香家の彼らだった。
「気にしないでください、お嬢様。私も今月、もう少ししたら禄が増えますからもう少し楽になると思いますよ」
蓮羽は香家の家人であるとともに、王宮の武官の一人であるのだ。
「禄が上がるって…蓮羽、あなたもしかして位が上がるの?」
首を傾げてそう尋ねてくる深音に、彼は苦笑して答える。
「…そうみたいです。昨日、その旨を伝える書簡が届いてきて」
「凄いわね!それならそうと早く言ってくれればよかったのに!そしたらうんとご馳走を作ったわ」
「気持ちだけで充分ですよ」
「いいえ!今日はうんと腕を振るうわ!
こうなったら早いうちに洗濯をおわらせて、買い出しにいきましょ!」
それを聞いた蓮羽は再び苦笑したが、素直に自分の昇進を喜んでくれているのを見て、素直に嬉しかった。
お昼ごろに来客がある為に、それまでに買い出しを済まそうと街に出たのもつかの間、深音は早速呼び帰される。
予定よりも相当早く来客者が邸に来たのだという。
それも、本当の用事は父ではなく、自分にあったのだと聞かされて、深音は理由を察する。
(…きっとまた縁談ね)
溜息をつきながら彼女は邸に戻ると、その来客の相手に驚くことになる。
「私は紫国丞相、中英様の家臣文鳥と申します。単刀直入に申しますが、中英様は貴方様を娶りたい、とおっしゃっています」
態度には出さなかったが、深音は内心叫びそうになった。
あの丞相が、貧乏貴族である私を娶る?
冗談じゃないとしたら何の気の迷いなのかしら。
「……お言葉ですが、私はそのように丞相にめを掛けられるほど秀でた才も容姿も持ち合わせておりませんが」
「何を仰っておられる。香家という家柄だけで丞相に目を掛けられることはあなたも解っておいででしょう?」
確かに申し分ないだろう。だけどその言葉は深音の頭に血を登らせた。
「……つまり、丞相は私を気に入ったのではなく、私の家柄を気に入った。そういうことですのね?」
そう深音が言った瞬間、文鳥はしまった、というふうに顔を青ざめた。
この国を今、良いように動かして帝を操って。
その上他にも女を侍らせていると噂は聞き及んでいたが、そこまで偉そうにされると流石に癪に障る。
(何でも自分の想いどりに行くと思って…!)
「そんなに香家がお気に入りなのなら、もう少し父の部署に目をかけてくれてもよろしくなくって?
うちはこの通り、貧乏貴族ですのに、普段なら頂けるはずの禄も十分に頂けず、困っておりますの」
深音殿、そ、それは丞相も懸念しておりまして、これから考えようとしていたことで…」
「これから、考える?
そのように悠長に政を行っていたからこそ、紫国は傾き、民は苦しんだのですよ?」
深音の言葉は、文鳥を追い詰める。
「で、ですが、それを納めようと立ち上がり、実際にいま立ち直らせているのは丞相です!」
「そのようですね。少しづつ民は豊かになってきておりますわ。中英様がたが反乱を治め、中央の機能を働かせてくださったからこそです。」
「そうでしょう…!」
文鳥が論破できたと安心したのもつかの間。
「ですが、そのようなことが出来るような位についた方法に不信を持ち、丞相を打倒そうと挙兵している方々も少なくないのも事実。そうしてそれを治めようと戦を起こしていらっしゃいます。
このような状態で民は安心して暮らせていると言えるのですか」
「……つ!」
文鳥が何も言えなくなったと確信した深音は、もう話すことはない、と踵を返す。
「深音殿!」
呼び止める文鳥の声にちらりと振り返り、告げる。
「私を娶りたいと仰るのなら、香家に益をもたらす取引でも持ち出すべきでしたね。
……残念ながら、私が中英様と婚姻して、香家の益になるとは思えませんから」
「……すみません。私の娘は少々気が強くて」
深音の父、翔音は一部始終を黙って見守り、彼女が去ったのち、そう文鳥に告げた。
「少々……?あれが少々と言えるのか?
丞相を卑下するような言葉をつらつらと…!この縁談を断って、家がどうなってもいいのか!?」
文鳥は憤慨したようで、自分よりも年下の少女に言い負けた苛立ちを翔音にぶつけてきた。
「お前だって、この話が丞相に知れたら処分されるはずだ!それなのに…」
「お言葉ですが」
それまで穏やかな微笑みを携えていた翔音はその笑みをさらに深くし。
「私たちは貧乏貴族でも、香家は名家。
私は当主ではありませんし、本家からは独立しているのでこのような生活をしておりますが、本家は違いますし、深音は香家の姫に変わり無いのです。
娘はそれを理解していて、中英様との縁談は益のないものだと判断した。
深音の意思は香家の意思。
彼女に何かあれば、香家にもそれなりの考えはあります」
その言葉を聞いて、文鳥は再び青ざめた。
丞相が強引に深音を手に入れようとしても、それに対抗できる。
それほどまでに香家本家には力がある。
いくつかの名家は香家と同じように、政を行う中央とは別に権力を持っているのだ。
実際、丞相が手に入れたかったのはその力だったのだろう。
各地が不安定になっている今、少しでも後ろ盾が欲しかったと見える。
だが。
そう簡単に深音を利用させない。
それは父親である翔音の意思でもあった。
「今回のことで私に何かあっても、本家は対抗してくると思いますよ」
そう告げた。
すっかり意気消沈した様子で去って行った文鳥を、窓から眺めていた深音は、感情の読み取れない顔をしていた。
「お嬢様」
「あら、蓮羽。どうしたの?」
「お茶を入れてきました」
「ありがとう」
へらり、と笑う深音に蓮羽は少し不安を感じる。
このように笑うときは、何か考えているときで、それが何かを周囲の人に悟らせない。
十年もともに家人として過ごしてはいるが、何を考えているかわからないのだ。
「…ねぇ、蓮羽」
湯呑を手に持ちながら、深音は口を開いた。
「貴方は何があっても武官、やめないでちょうだいね。私、貴方の武官の姿好きなの」
急に何を言い出すんだこの姫は。
「……やめるつもりはありませんよ。私は旦那様とお嬢様の為に、武官として働きます」
動揺を抑えながら蓮羽はそう答える。
その答えに満足したのか、深音は先ほどとは違い、ふわりとほほ笑んだ。
その様子に安心した蓮羽は、胸をなでおろす。
「さて、じゃ、蓮羽の昇進のお祝い、しましょうか!」
そう言って張り切って準備を始めた深音の様子を見て、先ほどの不安は気のせいだ、と自分に言い聞かせた。
それから日が沈み、夜の食卓には深音の言った通りご馳走が広がっていた。
翔音も蓮羽の昇進に喜び、盛大に祝ってくれていた。
晩酌をして、深音も得意の琴を奏で、それに合わせて蓮羽が剣舞を披露し。
本当に楽しい食事だった。
さらに武官として頑張ろう。そう蓮羽は思居ながら床に就いた。
それなのに。
空が明るくなって人々が起きだす前。
深音の姿は香家から、忽然と消え失せた。
初投稿です。
軽い感じで書いているのでつじつまが合わなかったりなどあると思います。ご了承ください。
気が向いたらコメント等お願いします。