ライディング禁止とランキング
カタロニアGPのあと、同じコースでGP出場全チーム参加の合同テストが行われたが、愛華は次のオランダ、ダッチTT開幕までバイクに乗ることを禁止された。骨に異常があると言っても、骨折自体それほど大した事ではなかったが、手首の関節はたいへんデリケートで治りにくい部位である。五指に繋がる神経をはじめ、繊細な腱や神経がいくつも細い手首に集中している。適切な治療をしないと、いつまでも痛みが残ったり、下手をすると動かせなくなる。麻痺までいかなくても、再び痛めやすくなったり、感覚に違和感が残ることがよくある。
「手首はテーピングで固定していれば大丈夫です。痛みもほとんどありません。軽く乗るだけでもダメですか?」
愛華としては、忘れないうちにレース中に感じたライディング感覚をもう一度確かめたくて、なんとかエレーナにお願いしてみたが、当然エレーナは許可してくれなかった。
「その状態で走って余計に酷くなったんだぞ。場合によっては次のオランダの出場も諦めてもらう」
「そんなぁ、体操選手だって手首怪我してても大会出場する人、けっこういますよね。跳馬や段違い平行棒に比べたら、ライディングの負担なんて全然じゃないですか」
「そういう選手たちが、慢性的に怪我に苦しめられているのも、知っているだろう。次の大会で引退する覚悟があり、その後の人生も痛みとつきあうつもりがあるのか」
「あります!エレーナさんだってかつて大怪我してるのに走ったことがあるじゃないですか!」
「あの時はシーズン最終戦で、タイトルの懸かったレースだった。そして私は引退を覚悟していた。運よく復帰出来たが、大きな代償を支払った。私は今でも左腕を真上に挙げられない。寒い日や疲れが溜まった時など、どうしようもない痛みに悩まされる。簡単に脱臼してしまうのも、知っているだろう」
「わたしだって、それくらいの覚悟はありますっ!」
「まあエレーナさんの肩が上がらないのは四十肩もありますが、アイカちゃんはまだまだこんなところで身体を壊しちゃダメですよ」
尚も食い下がる愛華に、スターシアが何気に毒のあることを言いながら落ち着かせようとした。エレーナは一瞬スターシアを睨みつけるが、愛華がそれで引き下がってくれればと何もいわなかった。
「こんなところじゃありません。シャルロッタさんが逆転するには、ここで頑張らないと手遅れになります!」
しかし愛華は引き下がらない。気持ちはわかるが、ここで愛華を潰したくない。
「ちょっとあんた!あんたなんていなくても、なんとかしてやるわよ!たぶん……。それよりいつまでも痛そうにされる方が迷惑だわ!大人しく早く治すこと考えなさい!って言うの」
名前を出されたシャルロッタも、愛華の怪我に直接原因があるわけではないが、無理をさせた責任を少しは感じている。
「シャルロッタさん……、でもわたしがいないとシャルロッタさんは……わたし、シャルロッタさんが心配です」
「はあぁ?なに言ってるの?下僕の分際で」
「確かにアイカのおかげで、シャルロッタはまともにゴールできたな」
「エレーナ様っ!」
「シャルロッタさんも、アイカちゃんがいなくても頑張れるようになって欲しいですね」
「スターシアお姉様まで!まるであたしはアイカがいないとダメな子みたいじゃないですか!」
「ダメな子だろ?」
「ダメっ子ですね」
エレーナとスターシアからはっきり言われ、少々傷つくが、否定はできない。
「いいわ、アイカ!あんたその手、早いとこ治しなさい。治ったらまた下僕としてこき使ってやるから」
愛華がいなくても平気、とは言わない。それはシャルロッタ流の思いやりなんだ、といいように解釈した愛華は「ありがとうございます」と言う。
「なんで礼言ってんのよ!やっぱりどれい根性が染みついているわね!早く治してまたあたしに仕えなさい」
思いやりでなく、本当に愛華がいないと困るようだ。やっぱりダメな子だ。
「いずれにしろ、オランダまで二週間もない。アイカがいくら走りたくても、レースドクターが許可しない限り出走は認められない。レースに出場したかったら、治療に専念することだ」
今は主催者もライダーの安全に責任を負う時代だ。それを言われれば、愛華も早く治すことが先決だと納得するしかなかった。
確かに関節の怪我は、きちんと治さないとあとあとまで苦しむ。愛華は足の怪我で、体操選手の夢を諦めざる得なかったが、現役の選手にも怪我に苦しんでいる者が多いのも知っている。最高の技術をもった選手たちですら、大事な舞台で妥協しなくてはならない。そしてエレーナすらそれで苦労しているのだから、まだ未熟な愛華がそのハンデを背負うのは、口で言うほど安易ではないだろう。
ランキング二位のシャルロッタとのポイント差を拡げ、首位独走のラニーニ擁するブルーストライプスも、この先を楽観視していられない立場にあった。アレクセイ監督とレース中の指令塔であるハンナも、このポイント差が実力差でないのはわかっている。シーズンはまだ半分も消化していないのだ。安泰していられる状況にない。こちらでも、次のレースへの対策が話し合われていた。
「ラニーニの躍進は予想以上だったが、ストロベリーナイツが本来の戦い方が出来ていないのに助けられた面は大きい」
アレクセイは、厳しい状況にある事を、チーム全員に伝えた。彼としては、これから激しく追い上げられると予想していた。
「わかっています。でも相手の調子に合わせる必要はありません。彼女たちが波に乗る前にポイントを稼いだのは、決して懸念すべき材料でもありません」
ハンナも基本的には同じ考えであるが、若いライダーたちにも期待していた。
「ただ問題はこれから私たちの優位がいつまで続くか、彼女たちが本来の調子を取り戻した時、どうやって食い下がるかだと思います」
ジュリエッタとスミホーイのパワーも、ほぼ互角と思われた。ただしエレーナたちのスミホーイは、燃費の問題を抱えている。体重の軽い愛華とシャルロッタにはあまり影響ないようだが、エレーナとスターシアは、コースによって最後まで全力で走りきれないのは確かだ。
「おそらくエレーナたちの考えている最善のレース展開は、序盤からエレーナとスターシアがハイペースで引っ張り、ライバルチームをリード、あとはアイカが余裕でシャルロッタをアシストするという形だろう。これまでそういう展開にはなっていないが、それを成功されれば、我々に対抗する手はない」
ストロベリーナイツに逃げ切りのスタイルを確立されれば、自分たちのスピードでは追うのも困難だ。
ハンナも頷くと、ラニーニとリンダとナオミも真剣な顔で頷いた。
「アイカは怪我をしていたそうだが、どの程度だ?」
「手首の骨にクラックが入っていたそうです」
「それであの走りか?」
「私は直接見ていませんが、シャルロッタさんと同レベルの走りをしていたそうですね」
「絶好調のシャルロッタにも負けない走りだ。まるで何かにとり憑かれたようだった」
ハンナは子供の頃憧れた、一人のライダーの姿が思い浮かんだ。
幼い頃、両親と地元のサーキットに観に行った時、不注意でコースにとび出した自分を避けようとしたライダーを大怪我させてしまった。当時はコースと観客席に今ほど厳重なフェンスがなかった。彼は、ハンナを責めないどころか、彼女を復帰レースに招待してくれた。まだ万全でない身体にも拘わらず、激走する姿は、まだ幼くレースについて何もわからなかった頃であったが、鮮明に記憶している。
スタート前に、彼とアイカの姿が被って見えたのを思い出した。
「どうした?」
ハンナのまるで遠くを見ているような顔に、アレクセイが怪訝そうに尋ねた。
「なんでもありません」
ハンナは頭から回想を払い、意識をミーティングに戻した。
「まあ、ライバルの怪我に乗じるのは不本意だが、アイカの回復が遅れてほしいと願わずにいられない」
アレクセイの言葉に、ラニーニが嫌悪の表情を浮かべたが、代わりに口をひらいたはハンナだった。
「アイカに対する誉め言葉と理解しておきます」
アレクセイは、決して人間味のある人物ではないが、相手の不運に期待するような男ではない。その点に関してはハンナも一目置いてはいたが、それに構っていられないほど愛華が脅威になりつつあるのを物語っていた。
「失礼した。アイカはきみの教え子だったな。いや、個人的な関係を抜きにしても、優れたライダーは、レース界の宝だ。老いぼれの妬みと聞き流してくれ」
「まだ老いぼれられては困ります。とりあえず、次のレースではアイカさんが体調を整えて出場してくる前提で話を進めてください」
ハンナは一応監督をフォローしておいた。ラニーニの表情からも緊張が消える。
アレクセイは深く息を吸い込んで頭を切り替えた。数字上はリードしていても、現実には追い込まれているのを感じる。シーズンを戦い抜くには、メンタルの強さが要求される。『監督である自分が弱気でどうするんだ』と自分に語りかけた。
「我々にとって、もう一つの脅威は、ヤマダ勢だ。幸いライダー同士のゴタゴタで、シーズン前に予想されたほどの強さは見せていないが、マシンの完成度はレース毎に高くなっている。そしてそれは、我々の脅威であると同時に、ストロベリーナイツにとっても脅威だと言える。シャルロッタの調子が乱れている原因の一つは、フレデリカやバレンティーナの存在がある。それに伴いケリーも本来の力を発揮しつつある。それはハンナも感じているだろう」
「確かにフレデリカやバレンティーナがレースをかき回し、シャルロッタさんがペースを乱す展開が何度かありましたが、私たちにとっても走り難いレースでした。幸い彼女たちにチームとしての連係がまったくなかったので、手強い相手ではありませんでしたが」
「おかげでうちが隙を突けた」
要はヤマダの連中を利用して、ストロベリーナイツのペースを乱すのを狙うつもりだろう。それはハンナも考えていた。しかしヤマダ勢は、自分たちにとってもやりづらい存在だ。下手をすればブルーストライプスだけが置き去りにされる可能性もある。
「しかしエレーナさんは対策を考えているでしょう。シャルロッタさんも今回は相当反省しているようですし、しばらくはエレーナさんに頭が上がらないと思います」
「勿論それは想定している。フレデリカとバレンティーナでは、せいぜい暴れるのが精一杯だ。一番手強いのは、ケリーだろう」
「わざわざ意図しなくてもそういう展開になるでしょうね。そしてケリーは今後、私たちにとっても、厄介な相手になると思います」
ケリーとヤマダYC214の組合せは、おそらく現時点での個人レベルでは、最もバランスの取れた組合せと思われる。彼女にそれなりのサポートがいれば、シャルロッタを追い込めるかもしれない。
「彼女を手伝ってやる」
「共闘を持ちかけるのですか?」
「協定など結ばない。集団の後ろに入るのを黙認するだけだ」
単独のライダーが、他チーム集団にへばりつくのは、よくある事だ。へばりつかれたチームは、締め出すか、とるに足らない相手なら無視する。或いは実力者であれば、集団を引っ張るのを協力させ、勝負どころに差し掛かったら振り払う場合もある。しかしアレクセイの魂胆は、シャルロッタと潰し合わせるために、ケリーをストロベリーナイツまで届けるという事だ。
「賢明な作戦とは思えません。上手く潰し合ってくれるより、そのまま双方に逃げられるリスクがあります」
ハンナは、自分も一度は考えた作戦を否定した。
「そこはきみたちに頑張ってもらう」
「監督にしては、無責任な作戦ですね」
「何もラニーニの優勝だけが勝利ではない。ポイントを分散させればリードは保てる。無論チャンスがあれば優勝を狙ってもらってかまわんよ」
アレクセイのとっても、好む作戦ではない。しかし現状、タイトル争いに生き残るには、波乱のレース展開を作りあげるほかない。
「正直に言おう、きみたちがエレーナたちとまともに勝負して、勝てる可能性は窮めて小さい。それどころかこの先表彰台を独占され、現在のリードもあっという間にひっくり返される可能性すらある。これまで毎レース優勝者の替わる今シーズンで、最もスピードの劣るラニーニがポイントで大きくリードしているのは、彼女がすべてのレースで二位以内フィニッシュを果たしているからだ。ラニーニだけでなく、チームとしての安定した力が、我々が唯一他を上回っているところだ。ストロベリーナイツが安定し、彼女たちの勝ちパターンを確立されれば、運よくエレーナとスターシアがガス欠になってもラニーニは三位に入るのがやっとになる」
「しかしラニーニが安定して二番手以上をキープできたのは、あくまで全員で彼女を勝たせようとまとまった結果です。おっしゃる通り、シャルロッタとアイカにまともに走られたら、私たちがいくら頑張っても三位がやっとでしょう。その上ケリーまで手助けしていては、表彰台すら危うくなりかねません。チームの士気も下がります。下手な策は、却って墓穴を掘る結果になりませんか?」
「ラニーニの活躍は、私も評価している。エレーナにあそこまで迫ったライダーは多くはいない。だが万全のストロベリーナイツに勝てるのか。自分たちに自信を持つ事はいい事だが、実力を見誤れば勝機はない。いつまでも彼女たちが勝手にミスを犯してくれると期待する方が、消極的と言えるのではないかね。シャルロッタとケリーにはポイントを分け合ってもらい、あわよくば潰し合ってもらう。ラニーニに必要な事は、確実にポイントを稼いでいく事だ。わかっているだろう?」
「それは確かに戦略として間違ってはいないでしょう。私たちのスピードでは追いすがるだけで精一杯ですから。ケリーさんも、私たちを利用しようとするでしょう。その状況で彼女を追い払う余裕などありません。なのでケリーさんのスピードはこちらも利用させてもらいます」
アレクセイは、ハンナも理解してくれたと安堵した。しかしハンナは、更に付け加えた。
「そして最後は、ラニーニが勝ちます」
「あまり欲張り過ぎると、すべて水の泡となるぞ。今のリードも、今後ストロベリーナイツの独断場となれば、逆転される程度のものだ。やつらにぎりぎりのレースをさせろ。ラニーニがリスクを背負う時期ではない。いずれチャンスは訪れる」
ハンナにも、現在リードしている自分たちが、敢えてリスクを冒さないのが得策なのはわかっていた。GP史上、波乱なシーズンほど最終的には安定したライダーが浮上している。一度も優勝していないライダーがチャンピオンになった前例すらある。一人のライダーが勝ちすぎないようにする方が、自分たちには有利だ。しかしそんな心構えで、到底エレーナのチームに勝てるとは思えなかった。
「エレーナさん相手に、安全圏はありません。どんなにリードしていても、逆転の可能性がある限り、彼女たちは諦めないでしょう。そして厳しくなるほどあのチームは信じられない力を発揮するのです。つまりどんな策を講じようと、負ける時は負けるのです」
他の三人も、ハンナに頷く。彼女たちにとっても、これまで勝つために最大の努力をしてきたからこそ、得られた現在の結果だ。
「私たちのチームは今、非常によい雰囲気にあります。多くの人たちも応援してくれてます。それは弱小チームに転落したと言われたブルーストライプスが、生まれながらの天才やスターライダー相手に頑張っているからです。頑張ることが美徳などとは言いません。でも正々堂々と戦うからこそ、ファンも応援してくれて、宣伝にもなるのです。そして十分な結果も出してます」
ハンナの推しに、アレクセイは少したじろいだ。煙草をくわえてもう一度考えを見直す。
一般に、彼は他者の意見など聞き入れないイメージがあるが、実際には現場の意見によく耳を傾け、それぞれの専門家に意見を求める。自身モータースポーツの経験がなかった故に、専門家の意見に素直に耳を傾けられた。すでに若手ライダーたちの生まれる前からこの世界に関わっているが、その姿勢は今も崩していない。そしてエレーナとも共通する事だが、社会主義で育ったからこそ、資本主義の象徴であるスポンサーの意味をよく理解していた。
何ら生産性のないスポーツのイベントに、莫大な資金を提供するのは企業のイメージアップのためである。そのためにはクリーンでなくてはならない。目先の利益を優先して、世の中のモラルに反した行いは、必ず自分に降りかかる。プロスポーツ選手こそ、社会の手本となる生き方をしなければならない。そしてファンに夢を見させるレースをしなければならない。
思えば社会主義の終焉も、民衆の支持を失ったからだったな。
いいだろう、この娘たちの夢を見させてもらおう。どの道リスクは避けられない。負ける時は負ける。セコいポイント計算より、彼女たちの純粋な意欲に賭けてみるのも悪くないか。
この作戦も、彼とて迷った末のものだ。アレクセイは、アスリートという人種が、どういう状態で最大の能力を発揮するかを知っている。
ハンナの言う通り、現在のブルーストライプスのライダーたちからは、かつてない一体感を感じる。『一つの目標をめざしてまとまったチームは強い』。陳腐な言い方だが事実だ。実際彼女たちは結果を出していた。
「わかった。きみの思うようにやってみろ。たとえ負けたところできみを責める者はいない」
「ありがとうございます」
ハンナが礼を言うと、リンダとナオミも頷き合ってラニーニの肩を叩いた。ラニーニは、今度こそ負けないと誓った。