女王の壁
愛華とシャルロッタのコンビは、残り四周でついにポイント圏内の15、16位にまで追い上げていた。
ピットからポジションは知らされていたが、二人にとっては現在のポジションなど大した意味のないことだ。
残りの周回で一台でも多くパスしたい、ただそれだけだ。
レース終盤になって、さすがにラップタイムは落ちてきていたが、二台は中堅クラスのライダーたちを、まるで周回遅れをパスするように抜いていった。
順位を上げるに従い、脱落したライダーでなく、チームとして組織的なブロックが可能な集団も増えてくる。しかしシャルロッタは、彼女たちが反応するより速く、隙間を掻い潜る。
異常に速い以外は、シンプルで当たり前のライディングから、突然トリックのようにラインを変えるシャルロッタに、愛華も同じように追随していけた。
エレーナが「真似をするな」と言ったシャルロッタのライディングだったが、真後ろから研ぎ澄まされた視覚で追えば、それがマジックでもトリックでもないのがわかる。
一見ノーモーションに見えるコーナーへのアプローチも、サスペンションの伸縮と荷重移動をシンクロさせた基本通りのものだった。それがあまりに一瞬で、しかも僅かな動きしかないので、まるで突然旋回し始めるように見えていただけである。
愛華の体も、自然にその動きを模倣していた。ほんの僅かな動きでも、タイミングさえ的確なら簡単にきっかけが作れた。それには、ほんの一瞬の間に、サスの動きと荷重移動を同調させる繊細な感覚と精確さが要求されるが、スピードが速ければ速いほど、小さな動きでマシンは簡単に向きを変えてくれる。
おそらく、エレーナが真似をするなと言ったのは、しっかりとした基本テクニックと研ぎ澄まされた感覚の意味も理解せず、安易に形だけを真似る事を戒める意味だったのだろう。愛華自身、異常に鋭くなった今の感覚になって、初めて理解出来るテクニックである。
一方のエレーナとスターシアのラストスパートは、残りの燃料と周回数を計算した上での賭けでもあった。元からレース終盤には、ガソリンが厳しくなるのは予想されていた。その場合、愛華がシャルロッタのサポートをする事になっている。
しかしレースとは、プラン通りにはいかないものだ。どんなにあらゆる場面を想定したつもりでも、想定外の事は起きる。コンタクトにゴミが入るとか想定したプランなど、誰が立てられようか。
想定外だったので仕方ない、ではタイトル争いに残れない。大切なのは、その状況下でどれだけの結果を残せるかだ。
エレーナとスターシアの“逃げ”は、ヤマダ勢の内輪揉めで一旦は想定以上に上手くいったように思われたが、脱け出したハンナとラニーニにじわじわと追い上げられつつあった。
燃費を考えた走りとはいっても、エレーナとスターシアのコンビは相当なペースを維持していたが、全力で追い上げるブルーストライプスの二人から逃げ切れるかどうかは微妙なところだ。かと言って、これ以上のペースアップすれば、ゴールまでたどり着けない。追いつかれれれば、本格的な競り合いをする余力はない。バレンティーナやフレデリカのように速くてもバラバラで単純な相手なら戦い方もあるが、ハンナに小細工は通じない。彼女はエレーナの戦い方を一番よく知っている。ラニーニは、ハンナの指示通りに動くであろうし、そのテクニックも持っている。エレーナにとって、一番やりづらい相手だ。
残り三周のストレートを通過するトップの四台。ぴったりと一列に並んで通り過ぎていく。メインスタンドの観客が旗を振り回し歓声をあげる。誰が勝者でもかまわない。白熱したレースを繰り広げるライダーすべてを応援している。
少し離れてケリーとフレデリカも猛然と追い上げている。更に次の興味はシャルロッタと愛華がどこまで順位を上げて通過するかに移る。メインスタンド以外でも、ホーンに爆竹まで加わってサーキット中が沸き立っていた。
トップグループが通過した後、一周回ってくるまで退屈する事の多いサーキットレースで、ずっとコースを注視し続けなければならない状況に、観客も嬉しい悲鳴にも似た歓声をあげ続けていた。
ハンナが追いつけたのは、決して実力で優っていたからでないのは自身でもわかっていた。それが逆に、ハンナにとって優位である事を示していた。エレーナたちが全力で走れば、自分もラニーニも、ついていくのがやっとだ。差を縮める事など出来なかったであろう。
(エレーナさんたちは、もうペースアップも出来ないほど残り少ないガソリンで走っているようですね。スターシアさんのアシストとしてのお手並み見せてもらいましょう)
ハンナは、絶えず前後を交代しながら燃費とスピードを稼ぐエレーナとスターシアの間に、何度もラニーニを割り込ませようとしたが、ぴったり息の合った二人をなかなか崩せない。
ラニーニも指示通りに動いてくれているが、やはり最高のコンビと言われるエレーナとスターシア相手には、経験が足りない。このまま続ければ、いずれガス欠に追い込める可能性もあるが、残り周回数を考えれば、“待ち”の作戦はあり得ない。それに背後にケリーとフレデリカも迫っている。ペースが落ちるようなバトルは出来るだけ早く終わらせたかった。相手が多いほど、若いラニーニの不利になる。
ハンナは、アカデミーで生徒たちをシゴくような手荒いアタックで、トップ二台を攻めたてた。
エレーナたちにとっても、ハンナとラニーニのアタックはハードなものであった。燃費を気にしていては、何度も凌げそうにない。
「エレーナさん、作戦Bに移ります」
「いや、作戦Cでいく」
作戦Bとか作戦Cとか打ち合わせていなかったが、それがどちらかがガス欠覚悟でブロックに徹して、もう一人の余裕を作るものであるのはエレーナにもすぐにわかった。それ以外選択肢がない。
作戦Bとはスターシアが足留め役であり、作戦Cはエレーナが足留めするものだろう、たぶん。
アニメ好きのスターシアがオタクっぽく、アルファベットを軍隊などで使うNATOフォネティクコードで発音するので、エレーナも合わせてしまっていたが、こだわるならロシアコード使って欲しかった。そもそも作戦自体が打ち合わせにないので、あまり意味はないが。
「エレーナさん、部屋替えの件では私が譲ったのです。ここは私のわがままを訊いてください」
「いや、部屋替えで譲ったのは私だろ?」
「エレーナさんは元々アタッカーです。ブロックは私の方が上です。それに私、アシストとしてハンナさんと勝負したいのです」
「スターシア……」
スターシアにも、現役のエレーナのパートナーとしての意地があるのだろう。
「ということで、エレーナさんはゴール直前でガス欠なんてしないように、しっかりエコな走りでチェッカーめざしてくださいね」
少し胸が熱くなりかけたが、なんだか引っかかる言い方をされて、素直に感動出来なくなった。それはそれでスターシアらしいといえたし、時間もガソリンもないので、そのまま作戦Bを実行する。
スターシアの走りが、明らかにブロックに徹してものに切り替わったのを見て、ハンナもすぐにその意図に気づいた。ワンツーフィニッシュは諦めても、一位だけは死守するつもりだ。しかしハンナの側も二位に満足するつもりはない。それに足留めされて、後続のケリーとフレデリカに追いつかれては二位も危うくなる。
ハンナは一刻も早くスターシアをかわしそうと、持てるテクニックのすべてをつぎ込んで攻めた。
スターシアも譲らない。エレーナを逃がすために、燃費の足枷を解き放った完璧なブロックで迎え撃つ。
ぶつけ合うような激しいバトルも、目を疑うトリッキーな見せ場もないが、完成された美しいライディングの競演。派手好きであっても、目の肥えたスペインの観客を唸らせる高度な技術の応酬に、スタンドにも緊張伝わる。
しかし残り二周を残した最終コーナー進入で、スターシアのエンジン音が乱れた。Gがかかるとタンクの中の残り少ないガソリンが偏り、安定してインジェクションに燃料を送れず瞬間的にガス欠状態になり始めた。止まるのは時間の問題だ。スターシアのレースの終わりを告げていた。
エレーナとの差は、ぎりぎり射程圏内。一方ケリーとフレデリカは、真後ろにまで迫っている。
スターシアはエレーナを守り切れたとは言えず、ハンナもスターシアとは崩したとは言えなかったが、互いの高い技術に敬意を抱いた。しかし、感傷に浸る暇はない。
「ラニーニさん、私は後続を抑えます。ここからはあなた一人でエレーナさんを捉え、勝負しなさい」
スターシアのマシンが力尽きてコースから外れると、ハンナはラニーニを前へやり、今度は自分がディフェンスに回った。
「ありがとうございます。必ずエレーナさんを捉えてみせます!」
ラニーニは、タイヤもエンジンの調子も十分に余裕のあるマシンで、エレーナを追った。
独りで女王エレーナに挑むのは不安だ。本当は怖い。でもここまでチームのみんなが、自分を勝たせるために道を切り開いてくれた。だから絶対負けない!
エレーナは、背後に迫る単独のジュリエッタのエンジン音に気づいた。それがラニーニである事はわかっていたが、裏のストレートで振り返って確認する。
(ほおぉ、エースの重みを知った顔だな)
ラニーニのライディングセンスに関しては、以前から高く評価していたエレーナではあったが、彼女の「優しさ」を「弱さ」と捉えていた。もっともっと経験を積まなければ、チャンピオンにはなれない。いくらハンナやアレクセイの采配が優れていても、最終的には本人の強い意思がなければタイトルはその手に出来ない。
勝利とは、他者の夢を打ち砕く行為に他ならないのだ。
時に、傲慢さは、勝者の特権でなく、必須条件とも思えてくる。
ラニーニの瞳からは、傲慢さの欠片も感じない。しかしもっと厄介なものが輝いている。仲間の思いを背負った者の眼だ。こいつらはエゴイストよりしつこい。
(アイカと気が合う訳だ。ならば私も本気で立ち塞がってやらないと失礼にあたるな)
エレーナは楽しかった。親子ほど歳の離れた若い娘からのアタックは、スターシアでなくとも嬉しいものだ。燃料計は、抑えて走ってもぎりぎりの状態を示していたが勝算はある。思いだけではどうにもならないレースの厳しさを教えてやるのも、年配者の務めだと嬉々とラニーニを誘い込んだ。
これまで何度もストロベリーナイツのエレーナと競り合ってきたラニーニであったが、一対一で挑むのは初めてだ。
条件は圧倒的にラニーニが有利であったのに、攻めあぐねた。
シャルロッタさんの方がスピード感はある。正確さではハンナさんやスターシアさんの方が上な気がする。バレンティーナさんのように小狡い真似もしない。なのに近づくのが恐い。走りの迫力が別格だ。単なるアシストとしてでなく、ライバルとして本気で跳ね返そうとしている。
インを奪おうとすれば、剃刀のような斬れ味で切れ込んでくる。全開に出来ないパワー差を生かして、立ち上がりで並ぼうとしても、巧みに出鼻を挫かれる。強引に突き抜けようと決意しても、瞬間的に剥き出しの刄を喉元に突きつけられたような恐怖に、体が竦む。
『もしかしたら、エレーナさんはゴール手前でガス欠になるかも?』と消極的な思考がよぎる。
そんなのダメ!そんな弱気じゃ、絶対女王には勝てない!それどころか本気で相手してくれるエレーナさんに失礼だよ。たとえ本当にガス欠になっても、胸張って勝ったなんて言えない。アイカちゃんに恥ずかしい。そうだよ、アイカちゃんならそんな戦い方絶対しない。ハンナさんも、リンダさんとナオミさんも、わたしのために必死に戦ってくれたんだ。わたしだけ逃げたりしない。もしアイカちゃんが自分の立場だったら、怖いより、チームの仲間に応えることしか考えないはず。わたしだって、アイカちゃんに負けない!
ラニーニの経験では、駆け引きも小細工も通じる相手でないのはわかっている。若さと勢いでぶつかっていくしかない。絶対に退かないと自分に言い聞かせて、最後のコーナーに飛び込んでいった。