ストロベリーナイツの名にかけて
愛華とシャルロッタがピットロードを走り始めた時、トップグループは既に最終コーナーを回り、メインストレートに差し掛かろうとしていた。
周回遅れにされる前にピットアウトしよううと急ぐ。周回遅れのライダーは、極端に遅い場合を除いてトップと同一周回のライダーを優先しなければならない。つまり追い上げは事実上不可能になる。
ピットロードの制限速度が恨めしい。
エレーナとスターシアを先頭にした集団が近づいてくる。
速度制限区間が終わった瞬間、二人は弾かれたように本コースへ飛び出した。
エレーナとスターシアが、トップ集団をスローペースでコントロールしていなければ、おそらく周回遅れになっていただろう。
エレーナは、ピットロードからとび出してきた二人が、勢いよく1コーナーへと吸い込まれていく姿に呆れた。
まったく、イカれたやつらだ。
アイカなら本気で挽回できると信じているかもしれない。残念だがそれは無理だ。
エレーナは現実主義者だ。残り15周をきって、シャルロッタが再びトップまで挽回出来るとは思っていない。その差は約1分40秒。エレーナがぎりぎりまでスローペースでトップ集団を抑え、シャルロッタがミスせずスーパーラップを刻んだとしても、1周につき5秒詰めるのもキツいだろう。100秒という差は、奇跡でも起こらない限りひっくり返せる距離ではなかった。
逆転優勝は無理としても、あの二人の勢いならポイント圏内にくい込むことは可能だろう。少しでも報われて欲しい。
シリーズタイトルを争う上での1ポイントの重みを知っている。昨シーズンのタイトルを、バレンティーナから1ポイント差で奪ったのもエレーナ自身である。
このレースでのシャルロッタの獲得するポイントが、最終的にタイトルの行方を左右するかも知れない。
突然のシャルロッタ脱落により、空白状態のようにになっていたトップ争いも、ケリーにブルーストライプスまで加わって、ますますヒートアップしてきた。バレンティーナとフレデリカは、再び牙を剥き出している。ケリーとハンナも、虎視眈々と狙っている。
シャルロッタがトップまで追いつく見込みがなくなった以上、スローペースを維持する必要もなくなった。スターシアと二人でワンツーフィニッシュを目指せばいいだけである。この連中相手にワンツーも大概大変だが、エレーナは出来る限りスローなレース運びを心掛けた。
トップグループのペースが遅ければ後続も詰まる。密集すればそれだけ走り難くなり、競り合いも激化して全体のペースも落ちていく。脱落するライダーも増えてくるだろう。
それだけシャルロッタがポイント圏内まで追いつく可能性も高くなる。当然シャルロッタも抜くのが難しくなるが、そこはアイカと二人でなんとかしてもらう。それくらいの苦労はさせないと割りが合わない。
「アイカとバカシャルロッタが頑張っている。私たちも出来る限りの後方、いや前方支援してやろう」
「アイカちゃんの思いは、後ろ姿からも伝わってきました。シャルロッタさんにつきあって苦労してるのに健気でした。アイカちゃんのために全力で協力しますわ」
シャルロッタが聞いたら、また拗ねるようなことを言いながらも、難儀な仕事に嬉々とするスターシアであった。愛華のためだけでないことはわかってる。そう信じたい。
再スタート前には、あれほど愛華の怪我を気づかっていたシャルロッタであったが、走り出してしまえば、とても誰かを気づかっているとは思えない激走をはじめた。愛華自身、手首の痛みのことなど、すぐに忘れてしまっていたので不満もない。
シャルロッタの『本気の本気の本当の本気のスーパーウルトラハードバーニングライド』というのは、その長ったらしいネーミングとは裏腹に実にシンプルであった。
ただ速く走るだけ
最小限の減速、速やかに曲がり、より早くエンジンパワーを路面に圧しつけて加速する。
単純で基本そのものの走りだった。
ただそれだけのことを、彼女以外、誰にも到達出来ない領域でこなす。
否、もう一人その領域に踏み入る者がいた。
愛華は、スローモーションの世界に入ってしまったような気分にいた。
肘が路面を擦るほど深くバンクさせてコーナーリングするシャルロッタが、すごくスローに見える。
前をいくシャルロッタだけでない。自分のバイクも、タイヤの転がる感触が解るほど、ゆっくりに感じていた。
ブレーキを握ると、じわりとフロントフォークが沈み、フロントタイヤに荷重が架かっていくのが解る。タイヤのグリップを感じつつ荷重を適切にかける。
前を行くシャルロッタと同じように、深くマシンをバンクさせていく。じっくりと、前後のタイヤに架かる圧力を感じながら……。
滑り出しても、動きが緩やかなのですぐに対処出来る。全身でバランスをとり、アクセルをコントロールする。サスペンションの動きが、手に取るようにわかった。
世界がスローになったのではない。愛華の脳の活動が異常な速度になっているのだ。
愛華の意識の中ではゆっくりと感じる世界も、端からは極限のスピードの中、一瞬の間に操作していく愛華の方が神がかって見えた。
別に超能力とか異能の力を身につけた訳ではない。ドーパミンによって、能の活動レベルが変化するのは科学的に証明されている。
人の脳は通常壊れないようリミッターが設定されている。しかし今日の愛華の脳は、緊張と痛みと興奮を生命の危機的状況と判断し、最後の一滴まで能力を引き出そうとすべてのリミッターを外した状態になっていた。
当然リスクはある。緊急に今この瞬間の生き残りを優先する、太古から受け継いだ生存のための仕組みなのだ。
(わたし、シャルロッタさんの本気の走りに着いていってる。まだまだ行けるよ)
天才と言われるシャルロッタと愛華に、実は才能の差などほとんどない。
違うのは、二本の足で歩くように無意識にバイクを乗りこなすシャルロッタと、頭で考えて乗る愛華の差である。
歩きはじめる前にバイクに乗りはじめたシャルロッタは、五感からの情報に、オートマチックで筋肉が反応するシステムが出来上がっている。
中学を卒業して初めてバイクに乗った愛華は、情報を分析し、最適な行動を選択して筋肉に伝えるという行程を踏まなければならない。
ミクロ単位のタイムラグであったが、絶対に覆せない差と思っていた。
その差が、脳の処理能力の異常なまでの高速化によって、ナノ単位まで縮められた。反射神経、バランス感覚に大差ない。体力は愛華が上回っている。
「シャルロッタさん!わたしは大丈夫ですから、どんどんペースあげてください!」
シャルロッタはたまげた。
愛華のことを忘れるほど集中して走っていた。
全能力を投じたフルアタックのはずだった。
それなのに、愛華は平然と後ろに着いていて、更にペースをあげろと言っている。
初めて会った時、スターシアお姉様が『アイカちゃんは女王すら把握出来ないほどの魔力を秘めています。魔力を覚醒させる事になるかも知れませんよ』と言ったのを思い出す。
本当に覚醒させてちゃったの?
「こんなの『ただの本気』の走りよ。これから『本気の本気』の走りをするから、覚悟しなさいよね!」
とっくに『本気の本気の本当の本気(長いので以下略)』になっていたが、悔しいのでつい言ってしまった。
「あっ!ちょっと待ってください」
「なによ?無理について来なくていいのよ」
愛華の呼びかけに、内心安堵する。
「そうじゃなくって、シャルロッタさんはまだ温存していてください。スーパーウルトラナントカは、最後の切り札です!」
「スーパーウルトラハードバーニングライドよ!ちゃんと覚えなさいよ、バカ」
実は最後の切り札、もう使っちゃってた。
覚醒しても性格はアイカのままだったので、ちょっと安心した。最近のアイカは、エレーナ様と似たようなことを言う時がある。ついさっきもそう思った。覚醒したアイカが、エレーナ様のように恐くなってたら、怖い。
シャルロッタのよくわからない心配をよそに、愛華は異常な感覚のまま前に出て、思いきり加速した。シャルロッタも後に続く。
それは愛華だけでなく、シャルロッタにとっても未体験領域だった。
極限だと思っていた本気の本気の本当の本気のその先へ、アイカに連れていかれるとはちょっと悔しい。
アイカから「本気の本気の本当の本気の本気」なんて自慢されるのを想像すると腹が立つ。(絶対にしないと思うけど。あと最初から本気を連呼しすぎたと後悔している。めんどくさい)
シャルロッタはいろいろ妄想の中で愛華を警戒していたが、実際にはパートナーとして完璧に信頼できた。息もぴったり合い、シャルロッタの限界を愛華が越えさせ、愛華の限界をシャルロッタが引き上げた。
二人は前後を交代しながら疾走した。メインストレートを通過する度、ファーステストラップを更新する。やがてレースから脱落し始めたライダーたちを捉え、抜いていく。
二人にもわかっている。残りの周回数で、一周近くあった差を挽回するのはどんなに頑張っても不可能だという事ぐらい。
それでもエレーナさんとスターシアさんは、自分たちのために頑張ってくれている。ニコライさんがタイム差をサインボードで教えてくれてる。メカニックの人たちは、昨夜徹夜で作業していた。
トップには追いつけなくても、一人でも多くのライダーを抜き、1ポイントでも多く獲得したい。
二人のペースは衰える事なく、次々と下位のライダーを抜いていった。
愛華も、シャルロッタも、自分のためでなく、お互いのために、そして苺騎士団の全員、応援してくれるすべての人たちに応えようと走った。