ウォッカとスイーツ
メカニックたちがレース後のマシン整備と次のレースへの移動の準備にひと区切りついた頃合いに、エレーナが皆を集めた。スターシアと愛華は苺タルトを小皿に分け、紅茶を用意した。
苺騎士団の名の由来となった儀式が始まる。愛華にとって夢にまで見た憧れの宴である。
しかし、それは愛華が想像していたような神聖で格調高いものではなかった。
ピットで使っていた折り畳み式のテーブルや椅子を並べ、先に手の空いた者から勝手に座っていく。席に溢れた者は、工具箱や作業台を並べて皿が配られるのを待っていた。
エレーナが今日のレースについての感想とメカニックたち裏方の仕事ぶりに感謝を述べている時も、その度、口笛や冷やかしで囃し立てられる。愛華の頑張りを褒められた時には、大男たちから一斉に拍手され、すこし恥ずかしかった。
イメージしていたものとは違ったが、こちらの方が本当のエレーナの人柄に近い雰囲気がした。
氷の女王なんて言われているエレーナさんだけど、実はすごく情熱的で、ちょっと残念なところもあったりする、人間味のある人なんだ。それを知っているのは、ここにいる人たちだけ。
愛華はがっかりするどころか、ここにいることを誇りに思った。
そのエレーナから、デビューレースで堂々とバレンティーナと渡り合い、チームの勝利の最大の功労者である愛華に、食事前の祈りを委された。
ここはかっこよく決めたいところだが、愛華はロシア正教の祈り方を知らない。それにGPアカデミーにいた頃、まわりにはカトリック信者が多く、彼女たちの胸の前で十字をきる姿に憧れて自分もやってみたが、どうにも様にならなかった経験がある。同室のコから信仰もないのに形だけ真似ても意味がないと注意された。
それ以来、何処であっても日本流の「いただきます」で通してきた。
愛華は皆が見守る中、立ち上がった。
「今日はみなさんの支援のおかげで、最後まで頑張れました。ありがとうございます!女王様からの苺スイーツを戴けるなんて、感動でいっぱいです。えっ……と」
「スピーチはそれくらいでいいから、早く食べさせてくれ」
エレーナが促した。
「あ、はい、では」
愛華は日本式に両手を合わせて、
「いただきます」
と丁寧に言った。
皆の視線が離れない。
なにか不味いことをしたんだろうか?
おそるおそる顔をあげた。
テントの中には、“萌え〜”とした空気が漂っていた。
エレーナは愛華が無骨な男たちの野暮ったい空気を、一瞬で変えるのを感心して見ていた。
愛華には人を惹きつける力がある。それは小さくてかわいらしい容姿だけではない。彼女には人を捲き込む強い意志がある。今日のレースでそれを確信した。
彼女はまだライダーとしては未熟だ。才能とガッツは大いに評価しているが、技術的にはまだまだ未熟である。
あるのは才能と根性だけ。今はそれだけで充分だ。テクニックなど才能とガッツ、それに環境が揃えばすぐ身につく。環境は私が用意する。彼女に期待しているのは、速く走る以上のものだ。自分の後継者に求めていたものを彼女は持っている。
うちのメカニックたちは頑固者揃いだ。たとえ私の指示であっても、自分が納得しない相手には本気で仕事を取り組まない。その彼らが、ツェツィーリアにいた時からアイカのために惜しむ事なく働いていた。そして今日、アイカは彼らの心を完全に捉えた。
エレーナは若い頃の自分を思い出していた。
ソ連時代、エレーナは軍に在籍していた。GPでの活躍によって、不相応な階級を与えられ、軍の看板として各地の基地を廻り、兵士たちの士気を高める役目を担っていた。
アフガニスタンとの国境近くにある基地を訪れた時、親睦会での軽い冗談から、ソ連軍でも最強を誇っていた第105空挺部隊の基礎訓練に体験参加する事になった。
三日間、重装備を背負い、険しい山岳地帯を不眠不休で行軍する、空挺部隊に志願する猛者たちですら半数が脱落するという過酷な訓練だ。
兵士たちの魂胆は見え透いていた。戦場を知らない、まだ小娘の可愛い顔した士官の泣き面を笑ってやろう。最前線で戦う彼らのちょっとした娯楽だ。
基地の指令官は止めたが、エレーナはすべて承知の上で承諾した。国家の命令で、命をかけて戦っている彼らにそれくらいの娯楽を提供してやれないなら、クレムリンでふんぞり返っている赤い貴族どもと同じだ。基地近くの酒場で身体を提供している娼婦たちの方が、余程国家に貢献している。
エレーナは自分の体重の半分以上にも達する装備を背負い、屈強な空挺隊員たちと山中を歩き続けた。高地の薄い酸素と眠気に朦朧としながらも、遅れる事なくついていった。二日目には、履き慣れない野戦靴に足のまめが潰れ、靴下が血まみれになっていた。手当てをする隊員がもう止めるように奨めたが、彼女は断固途中脱落を拒否した。
隊員たちは意外とやるもんだと感心した。中には、せめてか細い少女の負担を減らしてやろうとエレーナの荷物を担ごうとする者もいたが、彼女はその兵士から背嚢を奪い返し、歩き続けた。
苦痛に顔を歪める彼女を笑う者などもういなかった。
訓練を終えた時、空挺部隊の誰もがエレーナに敬意を抱いていた。襟章にではなく、若く美しく、且つ不屈の士官に惚れていた。
共産政権下の自分の若い頃と平和な日本で育ったアイカを比べるべくもないが、いつの時代も人を動かすのは地位でも金でもない。組織に属していれば、上からの命令には従わざる負えないし、フリーランスであっても望まぬ仕事も受けなくてはならない事もある。だが、人が本気で従うのは、従うに相応しいと認めた相手だけだ。男も女もなく、人間として惚れた相手にだけ、すべてをかけられる。
しかし、愛華の夢も苺タルトを食べ終わる頃には、打ちのめされる事になる。
愛華は日本の体育会系的感覚で、新入りとして紅茶のお代わりを注いでまわろうとしたが、既にテーブルをウォッカの瓶が回っていた。
シャンパンとは比べ物にならない強烈なアルコールの匂いを吸い込まないようにと、口を覆うものを探しにトレーラーに慌てて避難する。
工具やパーツの山の中からメカニックが劇薬を扱う時に使用するマスクを見つけて、装着してみた。
これならあの強烈なウォッカの匂いも大丈夫そうだ。
それをつけたまま戻ると、女王と騎士たちは、女頭目と海賊どもに変わっていた。
エレーナは上機嫌で、手下からの杯をぐいぐいやっている。スターシアまでも涼しい顔して、スポーツ飲料のようにウォッカを飲み干していた。コサックダンスを踊りだす者までいる。ロシア人が本当にコサックダンスをするのを、生で初めて見た。
甘いケーキを食べてすぐ、あんな強いお酒を飲んで平気なの?
見てるだけで胃がムカムカしてきそうだ。
愛華は初めてこのチームでやっていけるのか心配になった。
愛華が隅っこで不安になっていると、手洗いから戻ったメカニックの一人が、
「エレーナの姉御、青縞のバレンティーナとラニーニってちっこいのが来てますぜ。姉御とアイカちゃんに話あるそうです」
と大声で伝えた。ラニーニとは、レース中、愛華を苦しめたバレンティーナのアシストだ。
「入れてやれ、入れてやれ。やつらにも、我が故郷の生んだ最高の発明品を飲ましてやろう!」
エレーナの返答を聴いた愛華はますます不安が大きくなった。
(ロシアのこと、好きになっていたけど、あんな匂いだけで火が着きそうな飲み物が最高の発明品だったんだ。なにしてたの?ロシアンテクノロジー)
愛華は知らなかったが、極低温下で発酵させる技術は、人類史上でも最も偉大な発明の一つである。鎮痛作用もあるし、寒い時、燃料にもなる。(個人の意見です)
中に招き入れられたバレンティーナとラニーニは、海賊の巣窟のような雰囲気にびびった。マスクを着けた愛華に気づいて更にびびりまくった。
「なにそれ、何かの罰ゲームなの?」
「に゛ぇーと゛(いいえ) すぅ、はぁ、すぅ、はぁ……(呼吸音)」
只でも怪しい愛華のロシア語が、マスクの装着でますます怪しくなっていた。
「ちがいます。美少女戦士に変身しました」
スターシアがデタラメの通訳してくれた。ふつう美少女戦士のマスクは顔の上半分を隠すものだ。愛華のつけたマスクは顔の下半分を隠していた。
それでもバレンティーナは「そうなんだ」と納得してくれた。
「で、何の用だ? バレもウォッカ飲むか? アイカ、カップを二つ持ってきてやれ」
エレーナに言われて、美少女戦士アイカがプラスチック製のコップを持ってきた。二人は断ったが、エレーナは問答無用にウォッカを注ぐ。
「まあ飲め。お互い腹を割って話そうじゃないか」
上機嫌ではあったが、氷のような蒼い瞳は、拒む事を許さない。二人は偉大なる液体を飲むしかなかった。
「「「Ура!(乾杯)」」」
三人が一気にウォッカをあおった。
「ふぁぁぁぁっ」
二人揃って火を吹いた。
「さてと、要件を伺おう」
エレーナが二杯目を注ぎながらバレンティーナに尋ねた。