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最速の女神たち   作者: YASSI
フルシーズン出場
89/398

痛みと使命と興奮と

 決勝当日の早朝、愛華はいつものようにサーキットのインフィールドをランニングで廻っていた。

 早朝とは言え、六月のスペインの太陽に、すぐに汗が噴き出しはじめる。

 時々立ち止まっては、ストレッチをしながら、誰もいないスタンド席を見上げた。


(あそこから走っているわたしたちって、どんなふうに見えるのかな?)


 愛華は、パイプ足場で組み上げられた即席のスタンド席の一番高いところまで上がってみた。


(意外とちっちゃくしか見えないかも?でもその分遠くまで見渡せるんだ)


 愛華はそこから応援してくれる観客の事を思い浮かべた。


(イタリアのファンも熱狂的だったけど、やっぱりスペインの人たちはなんかちがうなぁ。

 そうか!イタリアは贔屓の選手ごとにきっちりエリアも色分けされてたけど、ここはごちゃ混ぜなんだ。ラニーニちゃんのファンの横で、平気でシャルロッタさんやスターシアさんの旗振ってる人がいたりした。みんな隣の人とか関係なく、自分の好きなところで好きな選手応援してるんだ)


(あの辺りにはバレンティーファンナクラブみたいな人たちがいたなぁ。たぶんイタリアから遠征してきた熱心な人たちだね。

 そう言えば日の丸振ってる人もいた。わたしのこと応援してくれてるのかな?)


 誰のファンだろうと、みんな安くないチケット買って、遠くから応援しに来てくれてる。最高のパフォーマンスを披露しなくてはならないと気合いを入れた。


 ちょうどエレーナがスタンド席の下をランニングしていくのが見えた。

「あっ、エレーナさぁーん!」

 愛華は声をあげて、パイプ足場の階段を駆け下った。

 少しでも早くエレーナに追いつこうと、最後の五段をひとっ跳びで飛び下り、足場とフェンスの間立ち入り禁止のテープも跳び越えた時、左脚が何かに引っ掛かった。

 体の前で地面を踏みしめる筈の左脚を引き留めらる形で、前のめりで固いコンクリートの上に倒れ込んでしまう。

「アタタタッ」

 咄嗟に全体重を支えた左手首を擦りながら後ろを見ると、立ち入り禁止テープの内側に、足場固定のワイヤーが張られていた。

「もうっ!なんでこんなとこに罠仕掛けてあるのよっ!」

 シャルロッタばりの理不尽な怒りを、あまり意味のなさそうなワイヤーにぶつけた。ちゃんと立ち入り禁止としてあるのに。


 エレーナは気づかず行ってしまったが、恥ずかしいところを見られなくて『ほっ』とした。





 スターティンググリッドに並んだ美しく彩られたバイクの一団が、ゆっくりとフォーメンションラップへと動き始めた。

 スズメ蜂の群れのようなカン高い羽音を響かせて、小さな車体を威嚇するように振るわせながら通りすぎると、観客席のテンションも盛り上っていく。観客たちは次に美しいスズメ蜂たちが現れる時には、獰猛な闘争本能を剥き出しにした、熾烈なバトルを繰り広げているのを知っている。

 これから約一時間に及ぶ死闘の前奏曲にも聴こえた。

 そして最後にゆっくりと通りすぎる時には、おそらくかなり減っているだろう。その多くは、疲れ、悔しさにうちひしがれた姿を晒す事となる。甘い蜜にありつけるのは、ほんの一握りにすぎない。



 レースファンは、ストロベリーナイツとヤマダ勢の対決に期待していた。前回イタリアでの事件以来、バレンティーナへの批判は大きかったが、ここ数年のストロベリーナイツ対ブルーストライプスの図式に、新たな勢力が加わったのは歓迎していた。正直、シャルロッタとバレンティーナの確執にまみれたバトルにも楽しみにしていた。


 対して、今回のブルーストライプスは厳しいだろうと言われている。

 バレンティーナが抜けて、チームのスタイルは一変した。ハンナを中心とする徹底したチーム戦術で、ライバルチームのエースに見劣りするラニーニを、ランキング首位に導いていた。

 だが今回の予選タイムを見れば、戦術だけでは補えない実力の差が浮き彫りになったと多くのファンは思った。


 しかし、ハンナにはそんなファンたちをがっかりさせられる勝算を持っていた。


 まわりのライダーから、ピリピリした緊迫感が漂っている。特にシャルロッタとバレンティーナは、ゴングの鳴る前に飛び掛かりそうな闘志を、陽炎のように立ち昇らせている。


(そう、ガンガンやり合いなさい。フレデリカとケリーも加われば、如何にエレーナさんとスターシアでも簡単に抜け出せないでしょ?)


 彼女たちが激しくやり合えばやり合うほど、ペースは上がらず、消耗だけが加速されていく。それだけラニーニにも勝てるチャンスが膨らむ。


 問題なのは、シャルロッタが単独で抜け出し、ヤマダ勢がエレーナたちに抑えられた場合だ。

 その場合、ハンナに打つ手はなくなる。エレーナたちとヤマダ勢のバトルの隙間を抜け、前に誰もいないコースを走るシャルロッタに追いつくスピードは、ハンナにもラニーニにもない。シャルロッタがミスを犯してくれるのを願うしかなくなる。


(そうなったら、そうなるだけね。ラニーニを少しでも上位でゴールさせる事を考えましょう。イタリアでノーポイントだったシャルロッタとのポイント差は、まだまだ余裕あるから、こちらは確実に稼いでいきましょう)


 シャルロッタが自滅してくれる可能性は十分高かったが、ハンナはその希望的可能性を、作戦の前提にしなかった。それは作戦ではなく、単なる棚ぼただ。出来る事にベストを尽くすだけだ。棚ぼた勝利を否定しないが、シャルロッタの自滅が自分たちにマイナスに働く事はないのだから、考慮する必要はない。


 ハンナは、同じチームのリンダとナオミの様子を伺おうと振り返ると、斜め後ろにいる愛華の姿に一瞬戸惑った。


 いつもと変わらないように見えて、どこか雰囲気がちがう。どこが違うのか説明しづらいが、いつもレース前には不安を覆い隠すほどのガッツを溢れさせている愛華から、まるで不安が消えているように感じられた。代わりに自信と虚勢のない闘志が垣間見える。


 幼い頃、初めて出逢った日本人、ライダーになるきっかけになったGPライダーにそっくりの雰囲気を醸し出していた。


 ハンナはもう一度振り向いて愛華をじっくり見た。しかしやはりいつもの愛華でしかなかった。


「落ち着きなさい、ハンナ。少し仕草が似てただけよ。でもアイカには警戒しとかないとね。想像を越えた事するコだから」

 ハンナは、自分自身に言い聞かせ、幼い頃の記憶を追い払った。




 圧し寄せる緊張と興奮の中、愛華は奇妙な感覚を味わっていた。

 これから激しいレースが始まるというのに、まるでテレビ画面を観ているように、客観的に前を走るケリーとフレデリカの背中を眺めていた。


 グローブをはめるにも激痛に襲われた左手首の痛みが、意識を朦朧とさせる。


 ランニング中に転倒して痛めた左手首は、時間がたつにつれ、次第に腫れ上がり痛みが増していった。

 体操をやっていた頃は、手首を痛めるのは割りと日常茶飯事だったので、多少の痛みならテーピングで誤魔化し、あまり気にしないようになった。

 今日も恥ずかしさと心配かけたくない思いから、誰にも言わず、自分でテーピングしてそのままにしていたのが不味かったのかも知れない。

 しかしスタート直前に腫れ上がった手首をエレーナさんやスターシアさんに見せる訳には、尚更いかない。きっと出場を止められに決まっている。特にスターシアさんは絶対許してくれないだろう。


(大丈夫、左手はクラッチ操作だけだから)


 シフトチェンジは、ほとんど回転を合わせてクラッチ握らず行えるので、クラッチ操作が必要なのは、スタート時だけだ。それくらいなら我慢して出来そうだった。ライダーの中には、低速域のトルクの細さをクラッチ操作で補う者もいるが、愛華にはそんな高度な裏技ははじめから使えない。


「わたしはシャルロッタさんのサーバント!

 わたしはストロベリーナイト、エレーナさんの騎士!」


 これまでどんな厳しい状況も、乗り越える力をくれた魔法の呪文を唱えると、抱えていたスタートの不安が消え、痛みはあるが気にならなくなった。

 それどころか、いつも以上に神経は研ぎ澄まされ、路面の状況やタイヤとサスペンションの感触なども、正確に脳に伝えられてくる。更には、前のライダーの僅かなヘルメットの傾けや肩肘の動きから、心の動きまで読めるような気がしてきた。

 いつも見ているエレーナやスターシア、シャルロッタだけでなく、じっくり観察した事のないフレデリカやケリーの動きまで読める気がした。


(ケリーさんは、まずは様子見のでいくみたい。でもフレデリカさんは、最初からアクセル全開ね)


 本当に心が読めたのか、チームミーティングでエレーナが言っていたのを思い出したのかよくわからなかったが、愛華は『ここまで来たらやるしかない、スタートしたらすぐにフレデリカの後ろに潜り込もう』と決めた。


 これまでも、レース直前の興奮状態の中で感覚が鋭くなるのを意識した事はある。今回はより鮮明で強烈だ。そして不思議なのは、その興奮の中にも、レース前ミーティングの時の話だけでなくもっと過去の出来事まで、妙に冷静に振り返っている。


 ハンナから教わった基礎。これまでの激戦の数々。エレーナからの教訓……。


  愛華の脳内では、大量のアドレナリンに溢れ、五感から入るあらゆる情報を瞬時に分析、過去の記憶の中からも勝ち残るのに必要なデータを探していた。

 あふれるアドレナリンは、脳の処理速度を極限まで加速させ、時間の流れまでスローに感じさせる。


 万全でないはずなのに、モチベーションは沸騰しそうなくらい高くなっている。

 愛華は最近スポーツ界でよく言われる、ゾーンという状態に入っていたのかも知れない。が、彼女にそんな知識はなく、また呼び方などどうでもよかった。今、彼女はこれまでの経験と全能力、そして命さえもチームに捧げられるなら、それでよかった。




 各車がメインストレートに戻ってきた。

 自分のスタートグリッドラインぴったりにマシンを停める。


 愛華の意識は、無になった。


 カン高いエンジン音が、一際大きくなって、襲撃されたハチの巣から一斉に飛び立つように全車が動きだした。


 フロントローの四台が、きれいにスタートを決めた。

 シャルロッタとバレンティーナは、直後から1コーナーへのラインの奪い合いでガツガツやり始める。

 その二人に、極端なピークパワーを乗りこなすフレデリカが並んでいく。

 フレデリカの真後ろに、三列目から飛び出した愛華がびったりとつけていた。


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[一言] 一番ヤバイヤツ‼︎オリャ知らんぞー。
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