ムジェロ
愛華は伏せたカウルから、覗き込むようにしてコーナーまで100mの看板を視認する。上体を起こし、思い切りブレーキレバーを握りしめた。また早すぎた。1コーナーへのブレーキングポイントが手前過ぎるため、コーナーに入る前にもう一度スロットルを開けなければならなかった。何度トライしても、奥までブレーキを我慢出来ないでいた。
イタリアGPの行われるムジェロのコースは、前戦フランスGPのブガッティサーキットと違いGP屈指の長いストレートを有するハイスピードコースである。
全長1キロを超えるメインストレートは、Motoミニモであってもスリップストリームを使い合えば、時速230キロ以上に達する。
厄介なのは、長いメインストレートから一気に100キロ以下まで減速するタイトな第一コーナーへの進入である。
それだけでもハードなブレーキングを要求される難しい難所なのだが、Motoミニモの場合、集団と単独ではストレートのスピードがまるで違う。当然ブレーキングポイントも変わってくる訳で、愛華のように経験が浅く、初めてこのコースを走るライダーは、「サンドナート」と呼ばれるこの第一コーナーへの進入に戸惑う事になる。
スリップストリームを使えるかどうかだけでなく、風向きや風の強さによっても、サンドナートは表情を変える。
チームで走っている時は、バッチリのタイミングでブレーキングからインに寄せて行ける。それがたとえ地元イタリア出身で直感的なライン取りをするシャルロッタとでも合わせられるのだが、スーパーポール方式の予選に向けた練習で単独で走ってみると、たちまち自分の未熟さを思い知る結果となっていた。
風とブレーキングポイントの関係。これはすべてのサーキット、すべてのコーナーに言える事ではあるが、コーナー手前の速度が高く、ブレーキングがハードなほど影響は大きい。また、軽いバイク、軽いライダーほど風の影響を受けやすい。
それでも優れたライダーは、そう言った影響を瞬時に修正して、安定した走りをする。
長いシーズンを戦い抜くには、どんな条件でも安定して走れなくてはならない。
それがわかっているだけに、愛華は自分の経験の少なさを痛切に感じていた。
「前にエレーナさんから、誰とでも合わせた走りが出来るのがわたしのアイデンティーだって言われたけど、やっぱり難しいコースだと自分の走りが出来てないとダメなんですね」
朝の練習走行を終えた愛華は、チームメイトのシャルロッタと、ライバルだけど親友のラニーニとナオミの四人でお茶を飲みながらプチ女子会をしていた。
レースでは容赦ないバトルもするが、プライベートでは仲のいい友だちである。予選までまだ時間もあり、割りと和んだ雰囲気なのだが、愛華だけが少し落ち込んでいた。
予選前最後の練習走行でも、単独での第一コーナーへのブレーキングポイントが掴めなかったのだ。
「そんなの得意の『だぁーっ!』って突っ込んで行けばいいのよ。思い切りブレーキ掛ければ、多少オーバースピードでも何とか曲がれるわよ」
シャルロッタは、相変わらず適当なアドバイスをしてくれる。いや、彼女なら本当でそう思ってそうだ。
「もう少し奥まで、ってがんばってるんですけど、どうしても早くブレーキを握ってしまうんです……。わたし、ヘタレです」
「そんなことないよ、慣れてないだけだよ」
ラニーニが励ましたが、予選までもうフリー走行の時間もない。ウォームアップ走行のたった二周で慣れるとは思えなかった。具体的な自分のブレーキングポイントをアドバイスしようかと迷ったが、いくら親友でもそこまでは言えない。むしろ親友だからこそ、マシンも乗り方も違うのに、無責任なアドバイスは言えなかった。Motoミニモの予選は、一発勝負だ。
「ラニーニちゃんは凄いね。やっぱりわたしより経験も実力も上だよ」
「私はここがホームコースだから……。ジュリエッタのテストもよくここでするし、子どもの頃からいつもここにレースを観に来てたから……。アイカちゃんは初めてなのに、シャルロッタさんの変人的な走りに付いて行けるんだから、ずっと凄いよ」
「ちょっと、それ褒めてるの?」
変人扱いされたシャルロッタが噛みついた。文字どおり、ガブリとラニーニのTシャツの上から肩に歯をたてた。
「すいません!変人じゃなくて変態でした」
人に噛みつく者を変態という。
「ナオミさんはどうやっているんですか?あまり無理していないみたいなのに、けっこういいタイム出てましたよね」
すっかり打ち解けて、じゃれ合うシャルロッタとラニーニをほっといて、普段から口数の少ないナオミに尋ねてみた。
「別にタイトコーナーのブレーキングなんて、然程重要じゃない。大切なのは、コーナーを抜けるスピード」
スペイン人でも、陽気なラテン系とはちょっと違う、おとなしい性格のナオミが、淡々と答えた。
「相手と競り合うレース中ならともかく、必ずしも(ハードブレーキング)=(好タイム)とは限らない。むしろ早めにスピードコントロールして、安定した姿勢でコーナーを抜ける方が、速い場合もある。それに目測を誤ってオーバースピードで飛び込んだら、全部台無し」
愛華は、忘れてしまいたかった第一戦のアメリカでの予選失敗を思い出した。あの時も、無理なアタックを試して、大失態を演じた。上手くいけば、大幅なタイム短縮に繋がったかも知れないが、このコースでは、別のアプローチでもそれほど差がつかないかも知れない。何よりナオミがそれを証明している。
冷静に考えてみれば、ハードなブレーキングでフロントフォークをフルボトムさせ、不安定な状態でコーナーに進入するより、じわりと減速して、安定したコーナーリング体勢に入り、立ち上がり加速を重視した方が、今の愛華には合っていると思えた。
相手の前に入りたいレース中のバトルではなく、単独でのタイムアタックでは、トータルで速く走る事が重要だ。
確かに自信もないのに、ブレーキングでがんばる必要なんて、ないのかも知れないなぁ。逆にリスクを侵すより、確実にタイムを短縮する道を選択した方がいいかも。
「ありがとうございます!なんか少しわかった気がします」
高速からのフルブレーキングは、付け焼き刃でどうこう出来る問題でない。予選は一発勝負、ミスが許されないのは、もう学んでいる。自分が確実に出来る最良のやり方で挑むしかない。
「アイカちゃんは、ちゃんとした技術を持っているから、きっと自信持っていけば大丈夫だよ」
ラニーニも背中を押してくれた。
「あんた、なに言ってるの?敵を惑わすのがコイツらの作戦よ。『だぁーっ!』って行きなさいよ!」
惑わそうとしているのは、シャルロッタのような気がする。
「私がヒント教えたのだから、私より速いタイムを出してはダメ」
それぞれが勝手な事を言い出すが、笑って受け流せる関係が心地よかった。シャルロッタなんて、ツンツンしているけど、心の中ではデレ~としているのが見えそうだった。
相手を蹴落とすのでなく、お互いに力を出し合い、全力でぶつかり合うのが、楽しみで仕方ない。
昼近くになると、予選だというのに観客席は、贔屓のライダーやチームカラーのシャツを着込み、旗を振り回す熱狂的ファンに埋め尽くされた。
特にMotoミニモ予選目当てのファンが目立つのは、他のクラスと違うスーパーポールと呼ばれる予選方式にある。
多くのモータースポーツで採用されている通常の予選は、予選時間内で記録されたすべてのラップタイムからよい順にスターティンググリットが決められる。それはそれで、ライバルのタイム次第で、何度もタイムアタック合戦にトライするなど、見所もあるのだが、誰がいつアタックするか判り難く、モニターでなく、フィールドで観ている観客には、今一つ盛り上がれないケースが多い。
それに対し、スーパーポール方式では、一人一人が順番に一発勝負のタイムアタックに挑んでいくので、集中して観られるし、応援もしやすいので、予選では、MotoGPクラス以上の盛り上がりをみせる。特にイタリアやスペインなどでは、昔から小排気量クラスの人気が高い事もあり、予選での客席は、Motoミニモクラスの応援団に染め上げられていた。
昨年までのムジェロなら、バレンティーナカラーであるイエローが圧倒的に多かったが、今年はラニーニのヘルメットのベース色である青が半分近くを占めていた。やはりバレンティーナが、ジュリエッタからヤマダに移籍した事が、イタリアのファンには「裏切り」とまでいかないまでも、自国メーカーに残ったラニーニの方を応援したくなったようだ。
それでも残りの半分をバレンティーナのイエローとシャルロッタのオレンジが同じくらい、残りは特別に応援をアピールしていない観客といった感じだ。
愛華の単独でのフリー走行での不振を観て、心配していたチーフメカニックのニコライと愛華担当メカニックのミーシャは、予選開始前の彼女の表情にホッとした。
愛華の表情が暗い理由はわかっていたし、適切なアドバイスをしてあげたかった。
しかし、それをエレーナから止められていた。教えられるより、自分で悩み、解決していく大切さは、二人とも理解している。だが今回は時間が無さ過ぎる。愛華の悩みは、たった二周のウォームアップ走行ではどうにもならない。もしそのまま予選に挑んで、また無理をしてミスでもすれば、深刻な自信喪失にならないかと心配していた。
予選を目前にして、愛華の表情は生き生きと甦り、これから自分の可能性に挑もうとする者の、輝いた眼をしていた。
きっとエレーナさんには、必ずアイカちゃんが答えを見つけるという確信があったのだろう、とミーシャは納得した。
愛華が自分だけで答えを見つけたのではないであろうともわかっていたが、良い友人とライバルの存在は、選手の成長には必須の条件だ。愛華にはそれらを惹き付ける何かがある。
正解か誤りかは、実際に走ってみなければ判らないが、結果がどうあろうときっとまた成長してくれると確信した。
一方ニコライは、エレーナの意図を、若いミーシャとは少し違う解釈していた。
愛華の予選結果が、たとえ落ち込むような事となっても、彼女なら必ず立ち直るとエレーナは疑っていないのだろう。むしろ、追いつめられれば、られる程、愛華は強く成長する、と信じているに違いない。
きっとエレーナは、もっとお気楽に(?)、「ダメならダメでいいんじゃないか?」とか考えていそうな気がする。
いずれにしろ、エレーナの期待以上のものを、愛華は既に掴んでいると感じた。