トップ転落
ブルーストライプスの監督アレクセイは、何か不味い展開になる予感に囚われていた。
単独で飛び出したものの、シャルロッタのペースが落ち始めてきたのは、予定通りだった。
しかし、愛華が最後列スタートから追い上げて来ているのに、どうしようもない不気味さを感じていた。
バレンティーナは、彼女を疫病神と呼んだ。無理もない。ほぼ手中にしていた勝利を、何度も阻止されてきた。そしてタイトルまでもアイカによって、と言っていい形で奪われた。バレンティーナはアイカを甘く視ていた。
勝負の世界では、ゲームの流れを変えてしまうプレイヤーが稀にいる。アイカがそのタイプだと、気づくのが遅すぎた。
それがどうだ?そのバレンティーナが、このレースでは自分がリタイアするのもいとわず、アイカに協力した。
そこまでしてアイカを我々に押しつけたいのか?
だが、アイカをよく知るハンナなら、それなりの対策をしてくれるだろう。
アレクセイは、サインボードで愛華が追い上げている事をハンナに伝えると、もう一つの懸念に思考を巡らせた。
ヤマダのマシンが恐ろしく速い。
合同テストの時は、まともに走る事さえ出来なかったYC213を、開幕までになんとか間に合わせ、更には予選で不良だった部分を、一晩でここまで仕上げてしまうヤマダワークスの底力に震えずにいられない。
我々に勝つには、まだまだ達していないが、あの連中なら数戦もしないうちに強敵になるかも知れない。
ただ、日本人はとび抜けた才能の扱い方に馴れていない。その落とし穴に気づくまでは、迷走するだろう。
シャルロッタは、一旦ぶっちぎったはずのラニーニたちとの差が、再び詰まってきているのをピットからのサインボードで知らされた。
「ホントしつこいわね。あたしには逆立ちしたって敵わないってこと、まだわからないの?身の程知らずは、アイカ並みね。いいわ、アイカの友だちだから特別サービスで、ずっと封印していた必殺技『鷹帝蛇殺心眼』を魅せてあげるわ」
永く封印していたので、読み方もよく解らなくなった必殺技を持ち出してきた。
おそらく、鷹の帝王のように急降下して、一撃で蛇の息の根を奪う技なのだろ。イヤそれだと前方にいる獲物を仕止める技のような気がする。いったい『鷹帝蛇殺心眼』とは、如何なる技か?
シャルロッタは、裏ストレート終りの低速12コーナーを抜けると、小さな体を更に小さく折り畳んで一気に加速した。その先にあるのは、奥に行くほど曲率のきつくなる複合の13、14コーナー。
それは、まるで獲物を見つけた鷹が、上空から急降下して襲い掛かるようであった。
コーナーに入ると、翼を拡げるように膝を突きだし、上体を起こす。
細身のスミホーイSu-33のサイドカウルが路面に接触するまで深くバンクさせ、進入までの速度を維持したまま13コーナーに吸い込まれて行く。転倒と紙一重のぎりぎりのコーナーリング。
コーナーは更に深くきつくなっていくが、減速はしない。
動いている物体がまっすぐに進み続けようとする力、つまり慣性力は基本的な物理の法則だ。
二輪のコーナーリングを物理的に説明するなら、直進し続けようとする物体に、重心移動という力を加え、ベクトル方向を変えるという事になる。難しい話をすれば、いろいろ複雑な理論もあるが、曲がるとはベクトルの向きを変える事だ。
そしてそれには物理的に越えられない絶対限界がある。向きを変える力を受け止める路面とタイヤの摩擦抵抗に限界があるからだ。
物体のエネルギーは、その物体の質量と速度によって決まる。ベクトル方向を大きく変えるには、大きな力を加えればいいが、その応力がタイヤと路面の摩擦力を越えて曲がる事は出来ない。
如何に天才であっても、これは絶対の摂理である。
そしてシャルロッタとバイクの質量と速度が生み出すエネルギーは、タイヤとアスファルトとの摩擦力を超えた。
宇宙の法則は、『鷹帝蛇殺心眼』といえども超越する事は出来なかった。
微妙なバランスを保っていた前後のタイヤは、更に小さく曲がろうと加えられた力によって、限界を超えてしまった。
シャルロッタは、爪を食い込ませるようにタイヤで路面にしがみつこうとするが、タイヤは消しゴムを削るように滑り出し、それをなんとか踏み留めようと膝を路面に押しつける。
しかしそれは、荷重をタイヤコンパウンドより摩擦抵抗の小さいニースライダーに移すだけでしかない。
膝で支えた事で、スリップダウンという最悪の事態は逃れたが、曲率のきつくなるコーナーとは逆に、シャルロッタのラインは大きく膨らんでいく。
そしてコースからはみ出した。
やはり『鷹帝蛇殺心眼』は、封印しておくべき技であったのだろうか?
いや、複合コーナーでなく、単一のコーナーであったなら、本当に無敵のコーナーリングだったかも知れない。
超絶テクニックであっても、使う場所を考えられないシャルロッタは、やはり残念な天才であった。
異世界ファンタジーでも、いろいろ設定があるのだ。すべての場面で無敵というのでは、面白味もないのに、シャルロッタは現実世界で無敵になろうとした。
『おバカ』という十字架を背負った、哀しき天才であった……。
幸い、四輪F1開催のために作られたこのサーキットのコースサイドは、ほとんどがサンドトラップでなく舗装されてたエスケープゾーンのため、愛華が予選でコースアウトした時同様、すぐにコースに復帰出来た。がラニーニたちに追い越され集団の最後尾になってしまった。
そしてそこには、エレーナが鬼の形相で待ち構えていた。
「何をやっている!このバカが。普通に走れば、十分にフィニッシュまで逃げ切れるアドバンテージがあっただろう!」
「わっ、ごめんなさい!イタっ、ちょっと待って!やめて、レース中に頭叩かないでください。痛いっ!蹴りもやめて、危ないです、ごめんなさいです、エレーナ様!」
エレーナは走りながらボコスカとシャルロッタに殴る蹴るを加えた。よい子がまねしないか心配である。
「体罰はレース後に、誰も観てない所でしましょう。それより今は、もう一度トップを取り戻すことに集中すべきです」
然り気無く怖い事言いながら、ハンナの前にいたスターシアも、シャルロッタのサポートするために下がってきた。
「まったくこのバカのせいで最初からやり直しだ。いや、最初より厳しい状況だ。とにかく時間がない。さっさともう一度トップを奪い返せ」
「そんなの簡単ですよ。独走じゃあ観てる人が退屈するから、ちょっと遊んでみただけですから」
「いいから、さっさと行くぞ。優勝したら、お仕置きも少しは手加減してやる」
どのみちお仕置きは逃れられないらしい。しかし優勝出来なかった場合を考えると、なんとしても勝たねばならなかった。
その頃、愛華はもう一人のイカれた天才と、トップグループをあと少しで視界に捉える位置まで迫っていた。
フレデリカのライディングは、ロードレースの常識とはかけ離れたものであった。
減速も加速も、マシンが寝てる常態であっても平気で行う。特にブレーキングは驚きだ。
フルブレーキングしたままコーナーに進入していき、そのままマシンを横に振るようにして寝かし込む。まるでドリフトによって速度を調整しているような減速の仕方。減速と同時に向き換え、向き換えしながら加速と、二つ以上の操作を同時進行でこなしているような印象だ。
ダートトラックではよく使われるテクニックだが、そのままロードレースで使う者はいない。同じダートトラック出身のケリーのライディングすら、フレデリカに比べればスライドに対処している程度にしか思えないほどだ。
愛華は初めて見るライディングスタイルに驚きながらも、冷静に対応していた。おそらくGPを走るほとんどのライダーが初めて目にする走りだろう。むしろ愛華はバイク経験の足りなさのおかげで、冷静に観察出来たかも知れない。
見た目の危なかっしさとは反対に、意外と安定してるんだ。そうか、グリップぎりぎりで突っ込むより、最初から滑らせて、ちょうどいいところを調整しているんだ。
愛華の推察は、それほど的をはずしていないだろう。フレデリカのライディングも慣れてしまえば、何をするかわからないシャルロッタより安心して着いていけた。
フレデリカも愛華の走りに上機嫌になった。
「あはっ、やっぱり世界って凄いんだね。あたいのステップについてこれる女なんて、ケリーとバレンティーナだけだと思ってたけど、まだまだいるんだ!わくわくするよ。あんた日本人なんでしょ?びっくりだよ、日本人もバイク乗れるんだ」
『……』
フレデリカは愛華に話し掛けたが、チームが違うので会話は出来ない。しかしmotoミニモ独特の通信システムに慣れていないフレデリカは、愛華がシカトしていると勘違いした。聴こえていたとしても、日本人を馬鹿にされて無視したかも知れないが。
「日本人って、あたいのメカニックもすっごく真面目で一生懸命やってくれるけど、もう少し余裕持った方がいいよ。あまり難しい顔して力入ってると、もっとアップテンポな曲だとついて来れなくなるから」
ただの大口ではなかった。フレデリカは、信じられないことにもうワンテンポ、ペースをあげた。しかもタイヤが消耗しているにも拘わらず、その安定感は失われていない。最初からグリップに頼っていないから、あまり影響しないのかも知れない。
愛華も必死で食いさがった。ここで後れたら、何のために頑張ってきたのかわからない。この怪物みたいな人だけを先頭集団に合流させたら、自分は本当に「いらん事しい」になってしまう。
それにしても豪快な走りだ。速さも尋常じゃない。しかも安定しているとくれば、まさに無敵の怪物と呼べる。愛華はまだ、シャルロッタの無敵の必殺技が不発に終わった事を知らなかった。
これからこんな怪物と、どうやって戦うの?
愛華を支えているのは、レース前にエレーナが言ってくれた魔法の言葉だった。
『アイカはどんな走りをする相手でも食らいつき、相手が根負けするまで追いつめてきただろう』
女王の魔法に不可能はない。