ハンナの訪問
彫りの深い端正な顔立ちに、灰色の瞳。鮮やかだったブロンドの髪は愛華の知っている頃より少し暗い色になった気がしたが、美人であるのは変わりない。
「お久しぶり、アイカさん。すっかり一人前のライダーになって、……でも背はあまり変わらないようだけど」
「うっ……」
この人は、やっぱり苦手だ。身長のことは冗談としても、いつも褒めるのと同じくらい欠点を指摘してくる。別に意地悪やイジメで難癖つけているのではないのはわかるけど。
その容赦ない指摘のおかげでライディングの基本は、エレーナさんに褒められるくらい上手になれた。
アカデミー時代に、厳しく指導していただいたことを、今では感謝している。
シャルロッタに鉄拳制裁を加えていたエレーナもハンナに気づき、シャルロッタを解放した。
「エレーナさんも相変わらずお元気そうで。でもあまり暴力ふるってると、マスコミに叩かれますよ」
「これはこのバカを思えば故の愛情ある躾だ。暴力ではない」
愛華の知る限り、リヒター先生も他人のことは言えないと思うのだが、サーキットでの過ちは痛いでは済まされない結果もあるのだから、仕方ないのかもしれない。
もっともシャルロッタの場合、いつもドつかれるのがわかっていての確信犯的暴走なので、本当にエレーナからの愛の鞭を欲しているのかもしれない。
「それより、まさかハンナまでカムバックするとは思わなかった。やはりレースの興奮が忘れられなかったか?」
握手を交わしながら、ちょっとからかうような口調で尋ねる。
「誰かと違って、私は一度も引退を口にした事など、ありませんが」
ハンナも挑発的な言葉で応じる。それでも刺々しさは感じないのは、スターシアの場合同様、この人たちの会話がこれで普通なのだろう。余程の信頼がなければ喧嘩になりそうだ。愛華は、すこしカッコいいと思った。
「本当のところ、私も再びGPを走るとは思ってませんでした。アレクセイ監督にしつこくて口説かれましてね。あの人、ロリコンだとばかり思ってましたけど、こんなおばさんを口説くなんて、ちょっと解らない人ですね」
「ハンナさんがおばさんでしたら、エレーナさんなんて、」
「スターシア!それ以上言ったら、コロすぞ」
スターシアは、ハンナに向かって『相変わらずでしょ?』という感じで肩をすくめた。
スターシアとは同じチームで走った事はないはずだが、よく知っているようだ。
「ところで、私が推薦したアイカさん、お役にたってるようですね。私の眼に狂いはなかったでしょ?」
急に自分が話題にされて、愛華は“びしっ!”と背筋を伸ばしてしまう。
「リヒター先生のおかげです!これからもよろしくお願いします」
ペコリとお辞儀した。
「『リヒター先生』はやめなさい。今は同じ立場なんだから。ライバル同士としてね。だからお願いされても、指導はしないわよ。あなたの弱点、すべて知ってるから、レースではガンガン責めていくわよ」
愛華は思わず後ずさってしまった。
蚊帳の外に置かれていたシャルロッタも、愛華がすごく緊張しているのに気づいていた。ハンナに関しては、昔エレーナと同じチームだった程度の知識しかなかったが、直感的に只者でないと感じる。
「アイカ、この女、何者?凄い魔力を感じるわ。それもあたしとは真逆の魔力よ。スターシアお姉様に近い種族ね。エネルギーそのものはスターシアお姉様が上みたいだけど、恐ろしく精度が高いわ。ピンポイントでイヤなとこ刺してくるタイプね。まあ、あたしなら軽くかわせるけど」
しばらく治まっていたシャルロッタの中二病が、久しぶりに発症した。暖かくなると活発になるのかもしれない。愛華にだけ聞こえる小声で訊ねたつもりだったが、他の三人にもしっかり聞こえていた。
アニメでは、視聴者に聞き取り易いようにナイショ話でも音量は普通の会話と同じぐらいなので、設定さえすれば、他の人間には聞こえないと思い込んでいるようだ。
その辺の残念な思考はさておき、シャルロッタの直感は、ハンナのタイプを割と正確に捉えていた。
アカデミー生だった愛華は、毎日のようにハンナ(リヒター先生)の走りを見たり、一緒に走ってもらったりしてきた。
ハンナのライディングスタイルは、シャルロッタの読み通り、生粋のアタッカーである彼女とは正反対のタイプだった。それは『アシストのお手本』と言われていることからもある程度想像できる。意外だったのは、スターシアとの違いを的確に見抜いた事だ。
ハンナの走りの特長は、その正確さだ。一見地味だが、愛華に徹底的に教えた基本に忠実なライディングを、高い次元で完璧にしてみせる。
どこのコース、どんなコンディションであっても、最適な走りを組み立て、正確にトレースする。
タイヤがすり減ってきても、瞬時にそれを補正し、どこまでも安定したラップを刻み続ける。
スターシアの走りが、『芸術的な美しさ』と呼ばれるなら、ハンナの走りは、『正確な精密機械』と喩えられる。
そしてもう一つの武器が、洞察力にある。愛華の可能性を見抜いたその眼は、正確に事実を捉え、即座に情報を分析し、最良の判断をくだす。それはレース中でも発揮される。味方であれば、これほど信頼出来る者はいないが、敵にすれば、これほど戦いづらい相手もいないだろう。
エレーナとスターシア、最近はちょっとだけ愛華も加えて貰えたが、それ以外のライダーを認めないシャルロッタである。バレンティーナすら「要領のいいだけのヘタくそ」と切り捨てる彼女が、過去のライダーを研究している訳もない。実際に走った相手しか認めないシャルロッタに、そこまで言わせるのだから、ハンナには天才にしか感じられない何らかのオーラでも発せられているのかもしれない。
それを直感だけで見抜いたシャルロッタも凄いが、精度にムラがありすぎて使えない。占い師とでも呼んであげれば、本人も喜ぶだろう。天才と紙一重のその先を跨いでいる子なのだ。
ハンナは、その場にいた一人ひとりに挨拶をして、それまでの簡単な経緯をエレーナに説明した。
「積もる話もまだたくさんあるけど、此処はマスコミがウロウロしていて落ち着きませんわね。今夜、お食事でもご一緒しません?」
まだ話したい事や訊きたい事があるらしく、エレーナを今夜の夕食に誘った。エレーナも快諾する。
「よければアイカさんもご一緒にどう?都合がよければだけど」
愛華がエレーナの顔を伺うと、了承するように頷いた。
「だあ、よろこんで!」
「だあ?」
「ちょっとアンタ!あたしとラニーニの三人で食事にいく約束でしょ!自分から誘っておいて、なに勝手に抜けてんのよ」
シャルロッタが待ったをかけた。愛華を誘惑させる訳にはいかない。
「あっ!そうでした。……?でも、食事に行きましょうとは言いましたけど、いつ、どこでって決めてませんでしたよね。ラニーニちゃんの都合も訊いてないですし」
「あたしは今夜しか空いていないわ。明日も明後日も、友だちいっぱいで予定がつまっているのよ!すぐにラニーニに伝えてきなさい」
間違いなく明日も明後日も、予定はない。
「それでしたら、私がラニーニさんに伝えましょう。一緒に連れていくので、シャルロッタさんとスターシアさんもご一緒に来てください。よろしいですか、エレーナさん?」
エレーナもスターシアも異存はない。レースではライバルでも、同じGPを走る仲間でもある。
「あたしは遠慮しとくわ。急に必殺技のアイデアが浮かんだの。一人で研究したいから」
シャルロッタが研究とは?明らかな嘘である。
しかしエレーナは簡単に鵜呑みにした。
「そうか、それなら仕方ない。シャルロッタは一人で留守番していてくれ」
「エっ!」
「残念ですね、でも自分から研究したいなんて、シャルロッタさんもエースとしての自覚が芽生えたんですね。偉いわ」
「おねぇ……さままで」
「シャルロッタさん、必殺技の完成楽しみです。もう無敵ですね!」
「……アイカの嘘つき!三人でって言ったくせにぃ!」
シャルロッタは、泣きながら飛び出していった。でも嘘泣きだった。
「私、悪いことしてしまいました?」
ハンナは申し訳なさそうに訊ねた。
「心配ない、夕方まで覚えていないだろう。覚えていてもなかった事になっている。四人とも行くから予約しておいてくれ」
エレーナが答えると、スターシアと愛華もコクコクと頷いた。