始動
甲高い小型の2ストローク特有の排気音が、もう上の方に雪を被っている山々に囲まれた盆地状の荒野に響き渡っていた。おそらくその音が聞かれるのも、今年はあと僅かだろう。そろそろ麓も白く覆われる時期だった。
首都モスクワから遠く離れた辺境にあるツェツィーリア市。旧ソ連時代に軍需施設として極秘に造られた、東西に延びる何本もの広大な滑走路と巨大な格納庫と工場を中心とした特殊な工業都市である。その外れにある居住区は、学校、病院からスポーツ施設に市専用の発電所まで、その規模の町としては異例の充実した社会インフラが整っている。住民のほとんどがスミホーイ工業の労働者か軍人とその家族で、それ以外の者が転移して来ることは滅多にない。町の外半径100㎞以内にほとんど誰も住んでいない荒涼とした土地に浮かぶ孤島のような町である。
その広大な滑走路の片隅を占める二輪用のテストコースを、四台のレーシングバイクが疾走していた。テストコースとはいえ、その広さはスミホーイの誇る世界最大の大型輸送機が余裕をもって離発着出来る広い滑走路を二本利用し、全長もコース幅もエスケープゾーンまで含めて、MotoGPは勿論、四輪のF-1でも開催可能な規模のコースだ。高低差こそないが、ラインを引きなおすだけで、コースレイアウトは無限に変えられる。
北側の峰から吹き下ろす冷たい風が、四人の美しい奏者の奏でる苺騎士団のミュージックを居住区の方まで響き渡らせていた。甲高い小型2ストロークのエンジン音は、人によっては不快に感じる事もあるが、苺騎士団の四重奏を不快に思う人は、この町にはいないだろう。
労働者でもバイロットでもなかったが、彼女たちは、この町の誇りだった。
四人のライダーたちは、実戦に即した走行距離をレースペースで走り切り、揃って整備工場である格納庫に戻ってきた。
マシンをそれぞれの担当メカニックに預け、フィーリングやセッティングの要望を伝えていく。
「切り返しで一瞬接地感がなくなる。フロントの伸び側を弛めてくれ」
チームの司令塔であるエレーナの指示は、いつも具体的で的確だ。四半世紀に渡りGPの女王として君臨し、十四才の頃からこのコースをスミホーイのマシンで走ってきた。
「私のマシンは特に変更する必要は感じませんでしたが、少しだけエレーナさんのセッティングも試してみましょうか」
スターシアの流れるようにスムーズなライディングスタイルでは、特に不満は感じなかったが、可能性としてより多くのデータをとる為にセッティングの変更を指示した。
「なんか足が怠いわ。もっとパッとして、カキーンとしてちょうだい」
バイクと一心同体の天才シャルロッタの言語能力は、セルゲイ以外のメカニックでは理解出来ない。語学力に問題があるのではなく、彼女にとって、ライディングに論理的な裏づけなど、なにも知ったことじゃない。地面が傾いていても段差があっても、人が自然に真っ直ぐ立って歩くように、シャルロッタにとってライディングは遺伝子に組み込まれた自然な動作なのだから深く考えた事がない。それでもその感性は、エレーナ以上に鋭くマシンの不具合を感じとるのだが、具体的な説明が出来ず、且つそのままでも平気で走ってしまえるのだから、面倒くさいセッティング作業はあまり好きではなかった。これでも最近は真面目に取り組んでいるつもりだ。
「えっと……、ミーシャさんはどう思います?」
愛華は相変わらずセッティングについてわかっていなかった。昨シーズンは、シャルロッタ用のマシンを与えられて、夢中で走っていただけだし、今季からは、愛華専用に組み立てられたマシンを用意されていたが、乗り易くなった程度にしか違いがわからない。
GPアカデミーでセットアップの基本は教わっていたし、ミーシャくんやセルゲイおじさんに訊いたり、自分で調べたりして愛華なりに知識としてのセッティングは知っていても、具体的に不満があるわけでもなく、況してやどうすればもっとよくなるかなんて、まったくわからない。
しかし、逆に問われて困ってしまったのは愛華担当メカニックのミーシャの方だ。ライダーとして二流止まりの才能に見切りをつけてメカニックに転向した彼の能力では、あまりにレベルの高すぎる質問だ。
「アイカちゃんは何か気になった事ある?」
「いえ別に、不満とかないんですけど……、変えた方がいいとこあるかな?って教えてもらえたら助かるんですけど……」
「……」
ミーシャは自分の担当するライダーに向かってため息をついた。
データ的には問題ないようだし、走りを見た感じもタイムも他の三人と比べて劣っている部分はない。むしろ今日の愛華は、一番乗れている印象だった。
本人に不満がないのなら、下手に弄らない方が賢明だろう。
ミーシャが呆れた本当の理由は、愛華が自分のマシンのセッティングが正しいのかすらわからないまま、あれだけの走りをしていた事だ。自分などとは走りのセンスが違う。ひょっとしたらシャルロッタと同じレベルの才能かも知れない。
彼は自分がライダーとしての才能に、早めに見切りをつけたのは正しかったと確信した。
「アンタ、自分のバイクのこと他人に訊いてどうすんのよ?アンタがフィーリングをちゃんと伝えなかったら、メカニックだってどうしたらいいかわかる訳ないじゃない」
愛華とミーシャのぎこちない会話を隣で聴いていたシャルロッタが口を挟んだ。シャルロッタの常識的な発言に、まわりにいた者たちは思わず驚いてしまった。
「おまえが言えるんかい!?」
エレーナが代表して突っ込みを入れた。ついでにどついた。
「痛い!なんであたしが叩かれるの!?あたしはちゃんと伝えてますよ、エレーナ様。
アンタのせいで叩かれたじゃない!デキの悪い下僕に苦労させられるわ、本当に。
アンタだって何かあるでしょ?タイヤがこそばゆいとか、バネが凝ってるとか、シャキッ!としたいとか、びゅーんといきたいとか、感じたことや、して欲しいこと言えばいいのよ!わかった?」
解らなかった。シャルロッタ語が……。
「シャルロッタの理解不能な表現は頭の悪さからだから仕方ないが、言わんとする事はそれほど間違っていない。何をどうすればいいのかは解らなくても、走行中のマシンの状態を把握する事は重要だ。バイクはライダーが感覚でコントロールするものであり、走行中の感触はおまえにしか解らない。それをメカニックのわかる言葉で伝えて、共同で仕上げていくのがセッティングだからな」
シャルロッタにそれが実践出来ているかどうかは別として、本気で愛華にアドバイスしてくれようとしているのは間違いないようだった。
「エレーナさんの言うことはわかるですけど、わたし……わからないと言うか、不満とかないんです。すごく乗り易くしてもらって、ちょっと上手く乗れないところとかあっても、それはたぶんわたしが下手だからであって、わたしが上手くなれば、ぜんぜんマシンが悪いわけじゃないと思うと申し訳なくて……」
「ライディングは、スタイルもレベルも人それぞれだ。今の自分とコースに合わせてマシンを仕上げるのがセッティングというものなのだから、気にする必要はない。愛馬が自分の意思に忠実に動くよう調教していると思え」
「ちょっと待ってください、エレーナさん。アイカちゃんのバイクに向き合う姿勢は、エレーナさんのように力づくでマシンをねじ伏せるようなものではありません」
例によってスターシアが割り込んできた。
「私は別に力づくでねじ伏せてなどいない」
「いえ、エレーナさんはバイクを機械としかみていません」
「いや、スターシアもマシンと言ってるし」
「心の優しいアイカちゃんに、エレーナさんのような冷酷な真似はさせられません。
いい?アイカちゃん、バイクの声を聴くのよ。アイカちゃんのバイクは、速く走りたがっているの。あなたはバイクが思いっきり走れるよう導いてあげればいいのよ。優しさを持って走らせれば、バイクの訴えかけている声が聴こえてくるはずよ。乗り手はそれに合わせてあげればいいのよ。エレーナさんのように鞭で従わせるような真似は、絶対しちゃダメよ」
昨シーズン、何度も繰り返された愛華へのアドバイスに関するチーム内バトルである。それでいてどちらのアドバイスも他では聞けない貴重なものであった。
エレーナさんの力強い走りを支えるマシンの鍛え方と、GP全クラスを通じて“最も美しいライディング”と称えられるスターシアさんの走りの秘訣を垣間見た気がした。
しかし、最近のチーム内バトルは少し様子が違っていた。
「エレーナ様もスターシアお姉様も、二人して難しいこと言ったって、アイカには絶対わかんないわ!あたしでもわかんないんだから。
いいわ、アンタにもわかるようにあたしが教えてあげるわ。アンタ、自分の膝が痛いとか、靴がきついとか、難しいこと考えなくてもすぐにわかるでしょ?それとおんなじよ。バイクは体の一部なんだから、乗ってみて“あっ”て思ったこと言えばいいのよ。簡単でしょ?」
シャルロッタまでもが愛華アドバイスを巡るチーム内バトルに加わっていた。しかもシャルロッタのアドバイスは、一番難しそうだった。