哀しい約束
シャルロッタは夕食時も部屋に籠りきりで、必要最低限しかチームのメンバーと顔を合わせようとしなかった。もはやスターシアの悪い予感は確定的になっていた。具体的に何なのか解らなくても、それがチームにとって好ましくない事なのは、愛華にもわかる。
それでも愛華は、シャルロッタを信じたかった。明日のレースでは、二人でエレーナさんの盾となって、優勝に貢献したい。何よりシャルロッタさんと走るのは、楽しい。そして絶対無理だと思える状況でも、四人で力を合わせて乗り越えるのは、他では味わえない充実感なのだから。
食事に現れないシャルロッタのために、ルームサービスに頼んでサンドイッチとミルクを部屋に届けてもらう。
チームのメンバーと食事を終えて部屋に戻ると、サンドイッチもミルクも運ばれたままの状態で、テーブルの上に置かれていた。
エレーナから、そっとしておいてやれと言われていたが、愛華にはどうしてもほっとけなかった。
「朝もお昼もろくに食べてませんよね。せめてミルクだけでも飲んでください」
朝、牛乳だけは口にしたのを思い出して、拒否されるのを覚悟で勧めた。
シャルロッタは、じっと愛華を見つめ、意を決したように口を開いた。
「アイカ、あまりアタシに優しくしないでちょうだい……」
あまりに哀しいシャルロッタの言葉だった。愛華は泣きそうになりながらも、懸命に笑顔で答えた。
「だって、わたしはシャルロッタさんの前世からの下僕なんだから、どんな時も尽くします」
「あれは冗談に決まってるでしょ。まさか本気にしてた訳じゃないでしょ?」
先に涙を見せたのは、シャルロッタだった。
同じ頃、エレーナとスターシアの部屋にかつての同僚が訪れてきた。エレーナが『諜報部の犬』と意味嫌うスベトラーナである。入室を拒否するエレーナに、「シャルロッタについて大切な話がある。他人のいる所では話せないので、どうしても入れて欲しい」と頼まれた。あまりに真面目な態度に、仕方なく話だけは聴く事にした。何か要求されても一切きくつもりはない。スターシアは席を外そうとしたが、エレーナはその必要はないと留めた。スベトラーナも同意して、すぐに本題に入る。
「シャルロッタの兄は、絵画の収集に相当な金額を入れ込み、更に最近はギャンブルにまで手を出し、かなり負けがこんでいるようです。フェリーニ家の財産をすべて処分しても賄えないでしょう」
それは、概ねエレーナの想像した通りの内容だった。失なった金を取り戻そうと、益々深みに嵌まっていく。やがて非合法な金融組織を頼り、借金のかたに違法な要求をされる。お決まりのパターンだ。ただ最後が想像と違っていた。しかし、それはシャルロッタにとって敗ける事より過酷な選択だった。
「彼は明日のレースで、シャルロッタの優勝に大金をつぎ込んでいます」
明日のレースはエレーナか、バレンティーナのどちらかの優勝というのが大方の予想だ。シャルロッタに勝てる実力があっても、チーム対抗の色合いが強いこのクラスでは、彼女が優勝するには、エレーナがリタイヤするか、入賞が不可能になった場合に限られる。相当な倍率の配当が想像出来る。
「だが、掛け金はどうやって工面したんだ?たとえシャルロッタがチームオーダーを無視するにしても、私の優勝を阻止するだけならともかく、優勝まで狙うとなると容易く出来るものではない。誰かが貸さなくては賭け金もないだろう。それなりの金額を賭けなければ意味がないからな。回収の可能性のない人間に、わざわざ大金を貸す奴の目的は何だ?」
「さすがエレーナさんですね。彼はフェリーニMCの商標を売却したのです。その売却相手はイタリア最大の企業トエニグループでした。他の件で捜っていたエージェントが、偶然見つけました」
トエニグループは、ブルーストライプスのジュリエッタ社の親会社でもある。フェリーニMCは事実上解体しているが、商標はフェリーニ家が持っていた。エレーナの頭の中で、パズルのピースが填まっていく。
最近のジュリエッタの売れ行きの頭打ちから、トエニグループは名門ブランドの復活を画策していると噂されていた。導き出される答えは、奴らが今シーズンのバレンティーナのタイトルと、名門フェリーニMCのブランド両方を手に入れようとしている。要するに、シャルロッタの兄は始めから嵌められていたのだ。
「それで馬鹿兄は、シャルロッタに、優勝すれば大金が入り、フェリーニの商標を買い戻せるとでも言ったのか?」
「その通りです。そしてフェリーニのレース活動を再開し、シャルロッタのチームを創ると約束したようです。シャルロッタにとっては、そんな夢物語より、フェリーニMCがトエニグループに渡るのが耐えられないのでしょうが」
シャルロッタの気持ちを考えれば、彼女を責める事はエレーナに出来なかった。かといって、シャルロッタの裏切りを見過ごす訳にはいかない。それは自分のタイトルのためでも、チームのためでもない。チームオーダーを無視したライダーは、どのチームも受け入れないという不文律の取り決めがある。
仮にフェリーニのチームを復活させたとしても、到底まともなチームが出来る筈もない。彼女の才能をそんな馬鹿兄のチームで潰す訳にはいかない。
そもそも最初からそれが目的のトエニグループが、一度手に入れたフェリーニブランドを簡単に手離す訳がないだろう。
「レース終了後、彼の身柄の確保する準備は整っています」
「いくらKGBでも、この国で外国人の逮捕権はない筈だ」
「逮捕などしません。シャルロッタさんにとっては、どんなに馬鹿でも一応血の繋がった兄です。自殺などされては、彼女に救いがないでしょう?」
「彼女は敗けると?」
「エレーナさんは敗けるつもりですか?」
「ひとつ訊きたい?」
「なんですか?」
「何故私に教えた?」
「祖国のためです」
大真面目に答えるスベトラーナを見て、その言葉の本当の意味を、エレーナは初めて理解した気がした。否、わかっていても認めたくなかっただけかも知れない。
エレーナは、スベトラーナに向けて20年ぶりの笑顔を見せた。
シャルロッタは涙を気づかれまいと愛華に背を向けて、立場にそぐわない頼み事をした。
「アタシ、夢中になると前しか見えなくなるから、もしアタシが一人で勝手に飛び出したら、アンタが絶対にエレーナ様をアタシの前まで連れて来てよね」
「……」
愛華は何も言えなかった。沈黙の抗議に、シャルロッタの感情はついに抑えきれなくなった。
「約束して!アタシが暴走したら、アンタがエレーナ様をお護りしてアタシを抜くと。そしてエレーナ様を必ず優勝させると約束しなさいっ!」
シャルロッタにはわかっていた。愛華一人では、バレンティーナたちの包囲を突破出来ないと。そうなるとスターシアお姉様も、セーブした走りではいられない。スタートで多くの燃料を消費したスターシアお姉様のマシンは、終盤まで持たなくなる。エレーナ様を最後までお護り出来るのは、愛華だけだ。
(不思議ね。エレーナ様を裏切ってまで優勝しようとしてるのに、この子に敗ける事を望んでいる)
シャルロッタは声に出さず、自分に語りかけた。
愛華にも、シャルロッタの胸の内が伝わっていた。それでもそんなのは信じたくない。まるでシャルロッタさんがいなくなるみたいじゃない?きっとわたしをからかっているんだ。わたしは信じない。
「嫌ですっ!そんな約束出来ません。みんなで力を合わせて、エレーナさんをチャンピオンにしたいです!」
今度は愛華が大きな声で抗議した。シャルロッタは振り向いた。そのブルネットの瞳からこぼれる滴が、冗談でも嘘でもない事を表していた。
「アイカ……、エレーナ様のこと、頼むからね」
それだけを言ってベッドに潜り込んだ。