由加理のモチベーション
ワイルドカードとして日本GPに出場したことはあるが、事実上デビュー戦となった前回のアルゼンチンGPでシャルロッタに次ぐ2位でフィニッシュした由加理は、現在ランキングも2位。一戦終えただけのランキングであり、これをもって由加理の実力とするのは早計ではあるが、あのシャルロッタと優勝を争い、あと一歩というところまで迫ったのだ。日本のファンは愛華を超えるニューヒロイン誕生ともてはやし、ヤマダの社内にも次期エースと期待する声があがっているほどだ。
少しレースを見る目を持っている者なら、アルゼンチンGPでの由加理の2位入賞は、バレンティーナのペナルティをはじめとする様々なイレギュラーが重なり、たまたま由加理のポジションとタイミングが良かったものとわかっている。勿論、由加理自身それを一番承知しており、大きなプレッシャーにもなっていた。
もう少しモーターサイクルレースに夢や浪漫を抱いて見てきた者には、アルゼンチンGPで見せた由加理のポジションとタイミングこそ重要であり、その場面でその位置にいること、その瞬間に動けることが、テクニックを超えた一流ライダーとなる資質の証であると捉えていた。
なにしろシャルロッタ相手に優勝を争ったという事実、勝った者はおろか、そこまで持ち込んだ者すら片手の指に余るほどしかいないのだ。
第2戦アメリカGPの予選を前にして、由加理にのし掛かる重圧は聞こえてくる声だけではなかった。結果を期待する声には耳を塞げばいい。完全に塞ぎきれるものではないが、自分はあくまでアシストライダー、ラニーニのサポートに徹するだけと言い聞かせれば、なんとか自分を保ち続けられた。
だが、実際に予選が始まり、出走の順番が近づくにつれ、自分のいる場所の高さを嫌でも実感させられる。
前回は新人グループと呼ばれる一番最初の枠だった。どんな新人がデビューするか見定めようと向けられる視線に緊張もしたが、周りも新人ばかり、開始時間に合わせて準備して走り出すだけだった。
だが今回は、後ろから二人目。由加理の前にスターシアさんが、ナオミさん、ラニーニさんが、愛華先輩が走る。謂わば本日のメインイベントの真っ只中だ。そして由加理のあとにシャルロッタが登場する。クライマックスに向けて熱狂するサーキットを、一発勝負のアタックを決めなくてはならない。前回とは質も量も桁違いのプレッシャーだ。
先に走ってしまって他の人のタイムを待つのも苦しかったが、世界最高の人たちに混じって刻々と迫りくる出走順を待つのは、ワークスのシートも投げ棄てて、逃げ出したくなるほどだ。
中堅のライダーが激しく転倒し、片付けとコース整備に予選が一時中断した。すでにコースインしていた次のライダーは一旦ピットに戻り、後ろのグループから再アタックとなる。下位のライダーがランキング上位者の枠に割り振られることは滅多にないので、直接由加理の順番がずれることはないが、中断した分、出走時間は遅れていく。
遅れると言っても、30分も一時間も遅れるわけではなく、せいぜい5分10分の遅れだが、予想時刻に合わせて集中を高めていた由加理は、その都度修正しなければならず緊張に加え、苛立ちを募らせる。
ラニーニとナオミの様子を窺えば平然としており、それがまた自分の未熟さを思い知らされてしまう。
バレンティーナが暫定トップのタイムを記録し、観客席がどっと沸き上がる。集団で引っ張り合うのでなく単独でのタイムとしては、フリー走行を通じて全ライダーのベストタイムだ。ピットに戻ってきたバレンティーナは、ストロベリーナイツやブルーストライプスの前を通過する際、これ見よがしに高々と腕を振り上げ最速タイムをアピールして行く。
次に戻ってきたライダーは、メカニックにマシンを預けヘルメットを脱ぐなり大声で泣き出した。「12コーナーで路面にオイルが浮いてたの!再トライさせてよ!」
12コーナーは先ほど転倒アクシデントがあり、タイムトライアルが一時中断したコーナーだ。長いバックストレートの先にあるタイトコーナーで、最高速からフルブレーキングで入るところなので、オイルでも浮いていたら恐怖しかない。
「まともに聞く必要ないよ。彼女のあれはいつものことだから」
苛立ちから急速に不安に染まっていく由加理に、ブルーストライプス監督のケリーが声をかける。
「でも、もしオイルがまだ残っていたら……」
「もしそうならバレンティーナが黙っていないでしょう。だけど彼女は、このウィーク最速のタイムを叩き出してるわ」
確かに、もし本当にオイルが浮いていたなら、自分に不利益になることには声高に訴えるバレンティーナが黙ってるはずがない。ラインどりにちがいがある可能性もなくはないが、少なくともバレンティーナがベストタイムを出したライン上に問題ないのは確かだ。
「ウォームアップで慎重に下見する必要はあるでしょうけど、それは今回に限ったことじゃないわ。自分を信じて思い切り攻めていけばいいの。あなたはチャレンジャーよ」
チャレンジャーという言葉が、由加理は心の中で不安を押し戻すのを感じた。
「コース係が見落とすようなオイル染みに乗ったとしても、最悪転倒するぐらいよ。低速コーナーだし、後続に轢かれる心配もないから大丈夫。決勝は最後尾スタートになるけど、不安を抱えて走っても同じようなものよ」
なにが大丈夫なのか?ケリーの言い方は、穿った聞き方をすれば「あなたがいなくてもチームはなんとかなる」と受け取れなくもない。そんな配慮ない言い方がバレンティーナと上手くいかなかった理由の一つかも知れないが、由加理は、バレンティーナより素直にケリーの言葉を受け止めた。
そうだ、ランキング2位って言ったって、わたしはチャレンジャーなんだ。すべてのコーナーを全力で攻めてやっとここにいる人たちについて行けるぐらいなのに、安全に走ってたらたちまち振るい落とされてしまう。
現在Motoミニモのライダーのレベルは、タイム的にはワークスもプライベートもかつてないほど差が縮まっている。予選タイムならコンマ5秒遅いだけで軽く二列三列後ろになることも珍しくない。今回もハイペースが予想されるレースで、エースから三列も後ろからのスタートになってしまったら作戦としていないのと同じだ。
転んだら転んだまでだ。怖くてみっともない走りなんて晒したら、ヤマダワークスの恥になっちゃう!
由加理は、不安を力ずくで自信に塗り潰していく。開き直って見れば、わざわざ他のチームから見えるところで大声で泣き喚くのも、ピット前を好タイムをアピールしながら通過するのも、これから走る者への揺さぶりだと気づく。
前回、由加理は最初に好タイムを記録したが、そのあとはいつ破られるか、心臓が縮む思いで待つしかなかった。正直に言えば、速いライダーがミスしてくれることすら願った。由加理にはそれしかできることがなかった。彼女たちは願いをかなえるために、由加理より少しだけ足掻いているにすぎない。だったら怖がる必要なんてない。
彼女たちは足掻くしかできないけど、わたしはこれから走るんだ!
緊張の中にも強い意思を取り戻した由加理に、ケリーは安堵した。
ちょっとした言葉でモチベーションを跳ね上げられるのは、この子が純粋で素直だからだろう。それは由加理の最大の長所でもあり、弱点にもなり得た。
「変なの近づけさせないように気をつけないと……」