紗季の旅路
「眩しい……」
紗季が重い金属製のシャッターを開けると、カルフォルニアの朝の太陽が、溢れるように薄暗い中へと射し込んできた。
このシャッターは、紗季が暮らしているロサンゼルス郊外の一戸建ての敷地にあるガレージのものだ。紗季はこの家で、二人の学生と共同生活をしてる。
一人はここの大家であり、紗季と同じ学部のメアリー。もう一人は日本からの留学生莉奈。莉奈は大学で陸上をやっている。
元々は、メアリーが両親と暮らしていた家だが、父親の転勤で夫婦揃って東部の方へ行ってしまった。メアリーは大学で研究を続けるために残り、一人で住むには広すぎる家を売ってアパートを借りるより、そのままそこで暮らして莉奈に部屋を貸していた。
莉奈と紗季とは、父親同士が知り合いだった。紗季のアメリカでの一人暮らしに難色を示していた父親だったが、古くからの友人の娘のところならということでここに住むことを条件に留学を許してくれた。家主が紗季の学びたいと思っている分野の学生だったのは、まったくの偶然だ。もしかしたら父親がそこまで見越して道を作ってくれたかも知れないが、希望が叶えられたことに不服はない。いや、これ以上の好条件はないだろう。
紗季はカルフォルニアの眩しい太陽に目を細めながら、背の高いオフロードバイクをゆっくりガレージから押し出した。
ガレージの外で再びスタンドを立て、燃料コックを開くとステップに脚を乗せ跨がる。
馴れた足さばきでキックペダルを出すと、右足に体重を乗せて思い切り踏みつけた。
キック一発で、決して大きくはないがドッドッドッという腹に響く重低音の唸り声をあげる。
もう少しシートが低いと申し分ないんだけど……
スミホーイSX350。愛華たちの乗るMotoミニモマシンとは全然ちがうが、同じスミホーイのモーターサイクルだ。
紗季は高校を卒業するとすぐに、日本で普通車と一緒に自動二輪の免許も取った。すぐに親友に報告した。いろいろ相談したい。もちろん乗りたいバイクは決まっていた。親友と同じスミホーイだ。しかし愛華からは、「初めてのバイクなら、日本車がいいと思う。故障しないしメンテナンスにも気を使わなくていいから」と言われてしまった。
日本での輸入取り扱いをしてる由美からも、「正直、スミホーイは初心者にあまりおすすめできません。機械を触るのが好きな方なら良いでしょうけど」と否定的な言い方をされた。
「だったらフェリーニにしなさいよ!」
これはシャルロッタのおすすめ。しかし当時フェリーニは、ブランド復活など夢物語だった。旧車などよほどのマニアしか乗れるものではない。そもそも手に入らない。今後発売される新生フェリーニも、初心者が乗るには難しいバイクとなるに違いないだろう。
ほとんどの先輩ライダー(それも世界トップクラスのプロ)が揃って薦めたのは、やはり日本製、それも小型のオフロードバイクだった。愛華もスターシアもラニーニもナオミも、バイクの操縦を覚えたのはオフロードバイクだったそうだ。バイクの扱いに慣れるには一番いいらしい。街中の取り回しも楽という。
紗季が思い描いていたものと少し違ったが、そうそうたる一流ライダーからすすめられたら従うしかない。
結局紗季が選んだのは、ハヤマのDT125。ヤマダはスミホーイのライバルだから、なんだか抵抗があった。ハヤマは紗季の家にあるピアノと同じ音叉マークがついていて、親しみが持てた。音大にいってる美穂もよろこんでくれた。
あとで知ったのだが、楽器のハヤマとは元は同じ会社でも微妙にあの音叉マークと書体が違うらしい。まあそんな細かいところは気にならないぐらい、紗季はハヤマDT125が気に入った。
初めはもっとおしゃれなのが良かったと思いはしたが、女の子が乗るにはちょっとワイルドなスタイルも、大学の友だちから「カッコいい!」と羨望され、何より何処にでも行けるのが楽しかった。
自然散策が好きだった紗季は、これまで電車やバスで山や森に行っていた。駅やバス停から歩いて行ける範囲は限られる。自動車があったとしても、山道は幅の狭い道が多い。狭い道も舗装してない道も、DTはどんどん行けた。間違えてもUターンして引き返せばいい。車じゃ狭い道でUターンなんてなかなかできない。
オートバイは自由だった。行動範囲がとてつもなく広がった。夏休みには北海道ツーリングにも行った。
新年恒例となった、GPライダーと日本の女子高生女子大生の交流イベントで、スミホーイSX350に試乗して、その場で惚れ込んだ。無骨なスタイルは日本メーカーにないワイルドさがある。
日本でならDT125で十分だけど、大陸をこれで旅したいと思った。
スポーツ心理学を学ぶ事に加えて、アメリカで叶えたいもう一つの夢ができた。この子とアメリカを旅すること。そして来週、テキサスにGPがやってくる。紗季はカルフォルニアからテキサスまで、この子と旅するつもりだ。
「ハーイ、サキ。朝から調子いいね」
エンジンの音に叩き起こされたのか、眠そうな顔でエミリーが二階の窓から顔を出す。
カルフォルニア州の騒音基準に適応したマフラーは、音量は決して大きくないが、日曜朝の閑静な住宅街ではよく響く。
「おはよう、エミリー。ごめんね、やかましかった?」
紗季は暖気していたエンジンを一旦止めて、二階を見上げた。
「べつにうるさくはないけど、今日は日曜日よ。どこか行くの?」
「このバイクに似合うツーリング用バッグを探そうと思って」
紗季はいつも、ノートPCやテキスト、ノートに筆記用具などは背中に背負うタイプのバッグに入れている。しかし今回、テキサスまでツーリングとなると荷物も増える上に、名古屋から北海道までより遥かに遠いロングツーリングだ。長時間背中に背負うのはきつい。しっかりバイクに固定できるバッグが欲しかった。
「ねえ、もう一度考え直した方がいいと思うよ。アメリカGPが開催されるのテキサスでしょ?すごく遠いよ。リナも心配してたから」
(莉奈さん、お父様にも報告してるかな?)
莉奈は今日、州の陸上記録会があるので朝早くに出かけてるが、彼女は紗季の父親からアメリカでの生活の面倒をみてくれるよう頼まれている。紗季が語学力に不自由することはないし、住居も大学も日本人には好意的な地域なので、特に困ることはないのだが、要はお目付け役だ。
紗季だって父親が心配するのもわからなくはない。今でこそ目標に向かって突き進んでいるが、高校までは成績優秀で、親の望み通りに生きてきた優等生だった。悪く言えば親にとっていい子でも、世間知らずのお嬢様。海外へは、安全な観光旅行か短期留学の経験しかない。
父親にしてみたら、束縛するつもりはなくても、心配で堪らないのだろう。オートバイの免許を取る時も、安全に気をつけなさいとしつこく言われたが、ダメとは言わなかった。これには父親自身、大型のバイクを所有してるのであまり強く言えないところではあったが、遠い異国での冒険となると、きっと許可しないだろう。
それでも行くつもりだったが、できることならあまり心配はかけたくない。
栄養士の資格を持つ紗季が、いつも莉奈のために栄養バランスを考えたアスリート食を作ってあげてるのにと、ちょっと恨めしく思った。
「リナじゃなくても心配するよ。オートバイでテキサスまで行くなんて。それも女の子一人で」
紗季の心情を察したらしく、エミリーも真剣な顔でやめるよう説得してくる。
「でもアメリカをオートバイでツーリングするのは夢だったから」
上の空で答えながら、父親にどう説明するかを考えていた。
「それはわかるけど、アメリカって本当に広いから。南部の方じゃ今でも白人至上主義の連中いるから。テキサスも保守的な人多いよ。アフリカ系やメキシカンにも、犯罪なんて気にしない人たちいるからね。これは差別じゃなくて現実だよ。サキみたいに可愛い日本人が荒野に一人でいたら、レイプされて殺されちゃうよ」
上の空で聞いていた紗季に、どぎつい言葉が耳を傾けさせた。
レイプされるのも殺されるのもいやだ。大学にはアフリカ系もヒスパニックもいるが、皆気さくな人たちだ。しかし街中には怖い人たちもいる。もしそんな人たちに、他に誰もいないところで襲われたら……、知識として知っていても、暴力とは無縁なところに生きてきた紗季は、急に怖くなる。
でも、簡単に諦めたくない。愛華たちのように、世界一には挑めないけど、紗季にとっては壮大な挑戦だ。
アメリカは法治国家のはず。地方だからって無法地帯じゃない。危険な場所を注意すれば大丈夫。実際にアメリカや世界中を旅した女性ライダーのツーリング手記も、たくさん読んだ。
そうメアリーに言うと、呆れるように肩をすくめられた。
「確かに必ず殺されるとは限らないけどね。運が良ければ無事に行けるかも知れないけど、もし本当にそうなったらどうする?サキは自分で望んだんだからいいかも知れないけど、レースに出る友だちはどんな思いすると思う?レースどころじゃなくなるよ。そんなの心理学勉強してなくてもわかるよね。サキは友だちのサポートをしたくて行くんでしょ?」
まったくの正論に、紗季は愕然とした。紗季の一番の目標は、ライダーの心と体をケアすることだ。それなのに自分がライダーを心配させてたらしゃれにならない。
「ちょっと大袈裟に言ったけど、本当に女の子が一人旅するなんて危険すぎるから。サキは世界のトップレーサーのカウンセリングに行く、それだけでも凄いことだから、今回はそれに集中しよ。どうしてもバイク旅したいなら、じっくり計画立てて、しっかりと準備してから行こうよ」
紗季の落ち込みように、少し脅かしすぎたと思ったのか、エミリーはやさしくフォローしてくれた。さすが心理学を学ぶ先輩だ。
みんな自分のことを本気で心配してくれてる。それにくらべ自分は、なんて考えが浅いんだ。一瞬でも莉奈を恨んだことも、エミリーを口うるさいと思ったことも、反省するしかなかった。
旅はまだ先だ。いや、やるべきことを一つ一つ積み重ねていくことで、もう旅は始まっている。もっともっと学ばなくちゃ。
本当の行きたい処に辿り着く為に。




