イエローフラッグ
サーキットは、レーシングマシンの爆音をもかき消すほどの歓声とどよめきに包まれた。
最速シャルロッタを、遂に長年のパートナーであった愛華がかわしたと思ったら、その愛華の前へ新人の由加理が躍り出たのだ。現在MotoGPにおいて最も激戦クラスと言われるほど役者の揃ったこのクラスで、このレースが本格デビュー戦のルーキーが、チームとしてでなく単独でトップを奪った。たとえ一時的だとしても、新たなスターとして名乗り出たに等しい。
愛華は一瞬、状況が掴めなかった。
(どうして由加理ちゃんが?)
前にいるのはスターシアのはずだった。シャルロッタがバランスを崩すのを察知した時、愛華はスターシアと言葉を交わすことなく動いた。だが愛華とスターシアの間には、阿吽の呼吸がある。
「ごめんなさい、アイカちゃん。ユカリちゃんの方が私より速かったです」
スターシアは愛華の後ろにいた。彼女はしっかり愛華に合わせて動いていた。しかし、由加理も同時に動いたという。
スターシアは自分より「速く」と言っているが、インへの切り込みでスターシアを上回る者などシャルロッタぐらいしかいない。ポジション的に愛華の真後ろにいた由加理の方が、僅かに早くインに入ったというのが事実だろう。
それでも瞬時に愛華の動きに反応し、スターシアの機先を制したのだから驚きだ。中学の頃から先輩後輩の関係で、愛華を誰より尊敬し憧れていると言っても、実際のレースを間近で走るのは初めてである。愛華の走りの癖などは、何度も死闘を繰り広げた者でしかわからないものがある。
愛華は由加理の反応の早さに驚くと共に、思いきり褒めてあげたかった。勿論ブルーストライプスの戦力評価に修正しなければならなくなったことは、ライバルチームとして覚悟しなければならないが。
ここまでシャルロッタは、バレンティーナ、或いはフレデリカに前を走らせることはあったが、それは互いに利用する、いわば風避けとして先頭交代するようなものであった。だが愛華とスターシアが前に出たとなると状況は一変する。彼女たちは他チームの協力を必要としない。それどころか、その気になれば他のライダーを寄せ付けない連係がある。バレンティーナやフレデリカもめんどくさいが、一時的にトップを譲るのとは訳がちがう。ましてやレースは残り少ない。シャルロッタははじめからストロベリーナイツを警戒していた。
二人が挑んで来ることは想定内だった。むしろ古巣との対決を楽しみにしていたところもある。互いに手の内を知り尽くした者同士の力のぶつけ合い。この二人との純粋な実力勝負こそ、ずっと望んできたものだ。
シャルロッタの思い描いていた想定では、その前に邪魔なライダーをふるい落としておくはずだった。現実にはそこまでドラマチックな演出ができないまでも、まさか由加理が飛び出すとは思ってなかった。
由加理はただがむしゃらに走ってる。案外こうゆうのが優勝をさらっていく。かつてのチームメイトと共通する"なにか"を持っている。愛華たちとの勝負に夢中になってると逃げ切られてしまう予感がした。
(秘めた魔力を感じるわ。ユカリもアイカと同じ種族だと言うの?本当はあんたたちも、あたしと同じチェンタウロ族の血筋なんじゃない?)
シャルロッタとしては最大級の賛辞だが、言われてもあまりうれしくないだろう。そもそも二人とも意味がよくわからない。
ともかく由加理が何者であれ、シャルロッタはこのレースに負けるわけにはいかない。魔界より蘇りしフェリーニの記念すべき復活第一戦なのだ。
当の由加理は、愛華やシャルロッタ以上に驚いていた。愛華のあとを追っていたはずが、気づいたら誰も前にいない。
(えっ?わたしがトップ?)
由加理にとって、周りは雲の上の人たちだ。愛華をはじめ、皆オフには仲良くしてもらっていたが、バイクに跨がれば怪物クラス、GP史上に名を残すであろう偉大なライダーたちばかりだ。数瞬前には、この場にいられるだけで昂っていたのに、なんと先頭に躍り出てしまった。
(しまった!ラニーニさんたちに言ってなかった……)
愛華の動きに合わせることに必死で、事前にチームのエースに伝えるのを忘れていた。当然ラニーニたちはついて来てない。フレデリカに苦戦しているエースとの間には、愛華、スターシア、シャルロッタ、バレンティーナがいる。
(わたし一人で前に出ちゃってどうするの!?由加理のバカ!)
自分なら愛華先輩について行けると言い聞かせていても、本当に行けるかは半信半疑だった。ましてやトップに出るなど思ってもない。その後のことなど考えてるはずなかった。
「ラニーニさん、勝手に出ちゃってすみません」
叱責覚悟で、とりあえずラニーニに訊くしかない。
「驚いたよ、ユカリちゃん!すごいよ」
怒ってる様子はないようで、少しほっとする。
「えっと、やっぱり戻った方がいいですよね?」
ここにいてもラニーニたちを引っ張ることはできない。今は愛華もスターシアも、猛然と攻めてくるシャルロッタの対応に追われてるが、由加理がトップを奪われるのは時間の問題だろう。しかしラニーニの指示は、やさしく無理難題を押しつけるものだった。
「下がるのはいつでもできるから、そこで頑張って。いい?後ろのことは気にしないで思いきり走るの。ユカリちゃんならできる。がんばれ!」
無責任に思えるが、ラニーニも正直どうしたらいいものかわからない。状況から考えて、由加理が下がったところで残りの周回でトップを奪える可能性は低い。安定感が持ち味のブルーストライプスが、正攻法でこのメンバーを突破するのは難しいだろう。
由加理、愛華、スターシアが前に出たことで、シャルロッタはかなり慌ててる様子だ。バレンティーナもここが勝負処とみて攻めに入った。愛華とスターシアは逃げに入りたいところだが、由加理がいるおかげで抜け出せない。
(みんな最終的には怒涛のトップ奪い合いになるのは覚悟してたんだろうけど、ユカリちゃんが先頭になったことで進行が早まった。それならこのままの方がイレギュラーは起こりやすいかも)
ラニーニは、由加理の度胸と強運に賭けた。彼女はこの激戦区のMotoミニモに、更なる旋風となる"何か"を持っている気がした。
由加理は、夢中で走った。ラニーニに言われた通り、後ろを振り返らず自分の技術と気力を尽くして、速く走ることだけに集中した。おそらく最終的には抜かれるだろう。どこまで逃げられるかが由加理の課題だ。
残り3周を切っても、トップは由加理が固持していた。後ろでは愛華とスターシア、シャルロッタ、バレンティーナ、フレデリカにラニーニとナオミが激しくポジション争いをしている。
由加理だけが前に誰もいないコースを、速く走ることに集中して走り続けている。それなのに引き離すことができない。誰か抜け出せば、あっという間に抜き去られるだろう。
そんなのは自分が一番よくわかっている。フル参戦初レースでここまでできれば、誰も批判などしない。それでも由加理自身に納得できない。
(わたしが先頭に出たことで混乱したかもしれないけど、まだチームになにも貢献しできてない。なにができるかわからないけど、走り続けるしかない)
後ろから、怪物たちは必ず襲い掛かってくるだろう。気にしないよう努力しても、背後から迫り来る逃れようもない重圧と何も目標のないコースを実力限界のハイペースで走り続ける孤独。経験したことないプレッシャーに気力を振り絞って耐えた。
長いストレートからヘアピン状の5コーナーを一番最初に抜けた由加理は、その先に黄色い旗が振られてるのが見えた。
モータースポーツにおけるイエローフラッグは、コース上の一部、又はコース脇に障害物があると注意を促すものである。その区間は追い越しも禁止される。更に危険なコースを塞ぐ形で障害がある場合は2本の旗が振られるが、今回は1本の振動だ。
(イエローフラッグ!これで少し休める)
緊張が限界近くなっていた由加理は、コース上の危険より安堵の方が大きく、ほっとするようにスロットルを弛めた。これが新人の甘さかも知れない。
愛華とスターシアも気づいてすぐに由加理の速度に合わせられたが、スターシアの真後ろぴったりにいたシャルロッタは旗に気づくのが遅れ、危うくスターシアに接触しそうになる。更に後ろにいたバレンティーナは、5コーナー立ち上がりで3台まとめてパスしようと狙い、思いきりよく開けはじめてたところで、突然減速した前車を避けるのが精一杯だった。減速が間に合わないと判断するとそのままラインをずらして抜き去る。ようやくイエローフラッグに気づいた時には、由加理まで抜いて一番先頭にいた。
イエローフラッグの原因は、最下位辺りライダーの単独転倒によるもので、コース脇では片付け作業が行われていたが、コース上を通過する際に大きな障害はなかった。
ここでバレンティーナが速やかに元のポジションまで戻ればフェアな選手と称えられただろう。しかしフェアな選手イコール勝つ選手とはならない。
バレンティーナの側にしてみれば、5コーナー立ち上がりの時点でイエローフラッグは見えてなかった。見えたとしても、振られていたのはその先の6コーナーポストであり、5コーナー立ち上がりが追い越し禁止区間にあたるかは微妙だ。急に速度を落とした由加理にも問題がないとは言えない。実際、シャルロッタとスターシアは接触しそうになっている。
そして5コーナー立ち上がりでのパスは、バレンティーナが用意周到狙っていたもので、由加理の急減速がなくても、トップまで届かないにしても、三人はパスできていた確信がある。元の順位に戻るのはどうにも納得いかない。やり直すにしてもあのパッシングポイントはあと2回しか通らない。しかも一度手の内を晒してしまった以上、成功の見込みは薄い。
バレンティーナは判断を競技長に委ねた。自らポジションを戻しても、ペナルティを課せられても結果は同じ、優勝はない。迷わずそのままラストスパートに入った。




