初心、あの頃わたしは
MotoGP第2戦、Motoミニモ開幕戦アルゼンチンGP決勝当日。
Moto2クラスの決勝表彰式が終わり、一旦レーススケジュールは昼休みとなった。
しかし、午後から決勝を控えたMotoミニモのチームは休んでる暇はない。メカニックはマシンの最終調整と暖気、ライダーは身体のウォームアップと決勝に向けた精神集中をはかる。
愛華は革つなぎに着替える前に、軽くランニングと体操をして筋肉を暖めていた。準備運動は走り出す直前にもするが、プロテクター入りの革つなぎを着てしまうと動きが制約されてしまう。制約されるからプロテクターとして効果があるのだが、"可動範囲いっぱいまで動かすことで細部まで血液を送り込む"という体操時代からの習慣に従って身体を目一杯動かす。
愛華のフィジカル、特に柔軟性は、GPライダーの中でも一番だった。体操時代に負った怪我で左足首関節の動きに制限があるものの、一般の常識で見れば十分柔らかい。アスリートとしても柔軟性を大きく求められる競技者を除いたらトップクラスだろう。ライディングに柔軟性は直接関係ないが、ないよりあった方がいい。転倒時、怪我の予防にもなる。というよりこれは大事だ。「無事是名馬」は、ライダーにも言える。
ミーシャがタチアナの担当から外され事は、昨夜のチームミーティングで知らされた。人的ミスによるマシントラブルは誰にでも起こりうるが最近のミーシャは、愛華の担当だった頃とは明らかに違っていた。タチアナとの関係は、多くのスタッフも気づいていただろう。いくらエースといっても、愛華にはどうすることもできない事だった。
エースとして不甲斐ないかも知れない。だけどそこまで気をまわしていたら、自分まで調子を狂わされてしまう。幸い予選アタック直前に、セルゲイおじさんのおかげでなんとか二列目のグリッドを獲得できた。スターシアさんは一列目、でもスタートは不利だからシャルロッタさんやバレンティーナさんたちに先行されるのは避けられない。タチアナさんは……彼女はあてにしないでおこう。
タチアナは四列目スタートだ。間には琴音やアンジェラなどの他にノエルマッキのアシストもいるので、愛華たちと合流するのは容易ではない。仮に追いついたとしても、ちゃんと連係できるかどうか……暗澹たる気分になる。
愛華は不毛な考えを振り払うようにウォームアップに意識を持っていこうとした。
脚を大きく前に振り上げて頭の真上で止める。振り降ろしてそのまま背中側に振り上げ、背を反らせるようにして両手でキャッチ。次に真横に振り上げ再びキャッチ。それを数回ずつ前後左右繰り返す。
体操やフィギュアスケートなどの選手なら当たり前のウォームアップだが、一般には身体がまっすぐ一本になるまで伸ばすのは難易度の高い運動だ。パドックパスを手に入れて観に来た一般の観客は思わず脚を止めて見入る者もいるが、レース関係者やGPを追いかけているカメラマンにとっては見慣れた光景だった。のはずなのだが、なぜか今日はいつもより多くカメラを向けられてる気がする。しかも同じ方向から。
デビュー当時はカメラを向けられるだけで戸惑った愛華だが、今ではすっかりカメラマンに慣れた。こういう場合、背景に興味を引くものがあるものだ。愛華は斜め後ろを振り返った。
「あっ、由加理ちゃん!」
愛華と同じポーズで準備運動する後輩の姿だった。
愛華は体を動かすのを止めて由加理の方に歩みよった。
「すみません。迷惑でしたか?」
愛華が近づくと、由加理は慌てて謝った。もちろん愛華には、文句を言うつもりはない。
「迷惑だなんてぜんぜんないよ。前はよく一緒に準備運動したね」
「そうなんです。ランニングしてたら愛華先輩が体動かしてるの見えて、思い出したら勝手にわたしの体も動いてました。でもカメラマンさんたちいっぱい寄って来て迷惑ですよね。邪魔するつもりなかったんですけど……」
「カメラマンは大丈夫。わたしも最初は戸惑ったけど、慣れれば平気だよ。それよりわたしの後輩ってことで変に注目されちゃってごめんね」
「それは大丈夫です。むしろ注目させてやります。ライバルとして」
「うん、その意気なら大丈夫だ」
「でも、ライバルがレース前に仲良くしてたら変ですよね?わたし、よくわからなくて、すみません」
由加理の初々しさが微笑ましく思えた。それでも臆する事なく堂々としてる。自分の時は……まあアカデミー生だったのにシーズン途中でいきなりトップチームに入って、度胸あるというより空気読まない天然だっただけだ。今思い出しても恥ずかしくなる。それに比べたら由加理は全日本で実績を重ね、ヤマダの生え抜きとしてここにいる。プレッシャーも相当なものにちがいない。
「ライバルとか、レース以外でも意識する人もいるから、相手によるかな?でもわたしとかラニーニちゃんはあまり気にしない方。気にしたら余計に緊張しちゃう。もちろんレースじゃお互い遠慮なくバシバシやるけどね。体操やってた時だって、由加理ちゃんとライバル同士だったけど、ウォームアップは一緒にやってたじゃない?」
「そうですけど、あの頃は同じ学校だったし、わたしは先輩に全然届かないレベルだったしで、ライバルだなんて……」
「わたしは由加理ちゃんのこと、すごく意識してたよ。実績はまだあまりなかったけど、一番の強敵になるって」
「そのわりに、いろいろ教えてくれたり世話やいてくれましたよね」
由加理はリップサービスと思ってか、明るく突っ込みを入れてきた。
だが愛華は、決してリップサービスで言っているのではない。当時の心境を懐かしく思い出す。
「わたしの方がちょっとだけ先にいただけ。目標はもっと先なのに足の引っ張り合いなんてしてられないじゃない。由加理ちゃんが強くなれば学校のレベルも上がる。身近に強い選手いた方が、わたしも強くなれる。由加理ちゃんのためだけじゃなくて、わたしのためでもあったわけ」
打算がなかったと言ったら嘘になる。体操は個人競技だが、団体もあるからチームとしてのレベルアップは欠かせない。チームが強くなれば、学校からの支援も受けやすくなる。しかしそれ以上に、自分を慕う後輩と一緒に代表に選抜されたら、一人よりもっとうれしいと思ってた。
それは今も同じだ。
愛華は、自分を追いかけてGPまで来た後輩を可愛いと思う。自分も努力したが、由加理も同じくらい、或いはそれ以上に努力してきたはずだ。
愛華は由加理の活躍を心から願っている。
現在、ライダーとしての能力は、シャルロッタが抜きん出ている。彼女の速さに対抗するには、愛華はもっともっと速くならなくてはならない。それには自分やストロベリーナイツだけでなく、ブルーストライプスやバレンティーナさんのチームも含めて、全体のレベルアップが不可欠だ。
レースが白熱すれば、取り巻く環境も熱くなる。由加理が活躍すれば、日本でのMotoミニモ人気はもっと高まるだろう。エレーナさんも言っていた。
激しい競争は、マシンだけでなくライダーも進化させる。
そこまで考えて、愛華は気づいた。今日のレースにおいて、一番の強敵はどこかを。
決してブルーストライプスを見下していた訳ではない。ラニーニはいつでも優勝を狙えるライダーだと思っている。ただ昨日の予選では、シャルロッタの速さが際立ち過ぎていた。フロントローに並ぶフレデリカ、バレンティーナ、スターシアという華やかな面々に目を奪われていた。
(だけど、優勝に最も近いチームは、ブルーストライプスだ)
シャルロッタさんは間違いなくMotoミニモ最速のライダーだ。二番手グリッドに並ぶフレデリカさんも才能は負けていない。だけど同じチェンタウロチームなのに二人にチームワークはない。彼女たちの乗るフェリーニLMSも、ラップタイムは信じられないぐらい速いけど、レースでの信頼性には不安を残している。タイヤも燃費も抑えないとレースを走り切れないはず。
バレンティーナさんは計算して走るだろうけど、今回アシストとはスタート位置が離れている。序盤からチェンタウロの二人がハイペースで飛ばせば、チームが揃うのは難しい。
だけど二列目に三人揃っているブルーストライプスなら、シャルロッタさんとフレデリカさんのハイペースにもついて行ける。そして後半、二人が疲れたら……
この展開は今日のレースに限った事ではない。おそらくシーズンを通して何度も繰り返されるだろう。そして気づいたらブルーストライプスのシーズンになってる……
ラニーニちゃんもナオミさんも、シャルロッタさんが連覇するのを黙って見てた訳じゃない。由加理ちゃんだってGPに来るために必死で努力してきた。確実にタイトルに近づいている。わたしがこんなところで立ち止まってたら置いてかれる。
絶対ラニーニちゃんたちについて行かないと!
愛華はブルーストライプスの上昇を阻止するというより、自分もその気流に乗ろうと決意した。乗るしかない。一度乗り遅れたら、追いつくのは至難だ。今のMotoミニモの力関係を考えると、大逆転で巻き返すなど考えられない。一戦一戦が真剣勝負だ。
「由加理ちゃん、ありがとう!」
「え?なにがですか?」
突然先輩からありがとうと言われて、由加理は訳がわからない顔をした。
「とにかく、今日はわたし、全力で勝ちに行くから、由加理ちゃんも頑張って。わたし、負けないよ」
由加理はなんだかわからないが、愛華が本当にライバルとして認めてくれたようでうれしくなった。
「もちろんです。でもわたしだって負けませんよ。勝つのはわたしたちです」
愛華は後輩から力をもらった。忘れかけてたかつての、どんなに困難でも全力でぶつかる気持ちを思い出させてくれた。チームの問題はなにも解決していない。きっと厳しいレースになるだろう。それでも前向きになれた。
ごちゃごちゃした問題は、考えても無駄。わたしに解決できるはずないから。わたしにできるのは、全力で走る姿を見せるだけだ。




