天才とポンコツ
身体の調子は良かった。怪我をする前より自由に動けた。
シャルロッタにとってライディングは、息をするのと同じようなもの。生まれた瞬間からやっていると言っていい。忘れるはずがない。
しかし、たった三ヶ月レースから離れていただけで、ほんの少しレース勘に誤差を生じさせていた。
二列目、愛華の後ろのグリッドからスタートのシャルロッタは、スタートと同時に愛華の背後につけるはずだった。
スタートの得意な愛華について行けば、フレデリカとバレンティーナの前で1コーナーに入れるはずだった。
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スタートのカウントダウンが始まり、赤いランプが最後の一つになった時、シャルロッタは愛華の背中に意識を集中した。
愛華の上体がぐっと前に倒れ、お尻しか見えなくなる。それにタイミングを合わせ、クラッチレバーを握る人差し指と中指の力を弛めていく……が、愛華のお尻は動き出さない。視界の片隅にまだ赤いシグナルが点っているのに気づいて、慌ててクラッチとブレーキレバーを握り直した。
次の瞬間、周りのバイクが一斉に動き出し、愛華のお尻も離れて行く。
一秒の何分のいくつかの遅れではあったが、すべてのライダーが集中するスタートでの遅れは、あっという間に順位を下げる。ラニーニやナオミたちにまで前に行かれ、後続のアシストやプライベーターの集団に呑み込まれていた。
シャルロッタ本来の実力であれば、序盤の中位集団から抜け出すことは、決して困難なことではなかったはずだ。
復帰第一戦ということであれば、そこからレース勘を取り戻しながら、徐々に順位をあげていくレース展開でも十分評価されただろう。
しかし、開幕六連勝の自信と絶対に負けられない状況が、シャルロッタにそれを許さなかった。
奮起の起爆剤になるはずだった緊張感が、一瞬で酸素を奪い、僅かな望みの灯まで消そうとしていた。
必死に酸素を取り込もうとあがく。
アドレナリンは興奮から焦りへと変化する。
ラニーニとのポイント差をこれ以上引き離されるわけにはいかない。それはつまり、今季のタイトル奪取を諦めること、ストロベリーナイツエースのシートを、愛華に渡すことを意味している。
如何にライディングが卓越していようと、レース中、抜かせまいとする相手をパスするには、読みと思い切りを必要とする。
四輪などと比べれば、遥かに狭いスペースに潜り込めるとはいえ、パワーの小さい分、広いコース幅があっても速く走れるラインは限られる。そこを相手の動きを読み、思い切りよく突っ込んで行くのがパッシングだ。
もともとシャルロッタに深い読みなどないが、天性の勘と恐いもの知らずの勢いで蹴散らしてきた。
実戦から離れていた勘の修正ができてないことに加え、スタートで出遅れたことで、完全に自分の走りを見失ってしまった。
明らかに自分の方が速いのにパスできない。
焦れば焦るほど、タイミングが掴めない。
未熟な相手(といっても世界トップレベルのライダーたちなのだが)の動きが読めない。接近するとアッセンでのアクシデントが脳裏をよぎり、思わず躊躇してしまう。
そんなシャルロッタを百戦錬磨の強者たちは見逃さず、いいように抜いて行く。
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オープニングラップを終えて再びメインストレートに戻って来る。
愛華がトップで最終コーナーから姿を現すが、直線に入った途端、LMSのパワーが炸裂する。
フレデリカが立ち上がりで並ぶと、スルスルと前に出ていく。
だがスターシアが、ぴったりとフレデリカのスリップストリームに入って追う。愛華も空かさずスターシアの背後に入る。
ナオミ、ラニーニ、アンジェラ、バレンティーナ、琴音、ケリー、リンダ、ハンナらが順位を入れ替えながらピット前を通過する。
シャルロッタはその集団の後部、プライベートジュリエッタに乗るエバァー・ドルフィンガーの後ろにいた。当然、四強チームの中では最下位だ。
レースは先頭を争う三台とそれを追う集団という形のまま進行して行った。
頻繁に順位の入れ替えながらも、先頭からトップ集団までの差は変わらず、中盤に差し掛かっても誰が抜け出すのか、まったく目が離せない状況が続いていた。
シャルロッタだけが、集団最後尾にずっと動けないままでいる以外は。
遥かストレートの先で、フレデリカを、スターシアと愛華の二人で両側から挟むようにして、1コーナーに入って消えて行くのが見えた。
(あたし、こんなとこで何やってるの……)
リハビリ中、肉体改造と平行して、メンタルトレーニングの指導も受けさせられた。
しかし、そんな付け焼き刃など、実戦で役に立たなかった。
───アイカと一緒に走っていたら……
すぐにリズムを取り戻せたはず。
───スターシアお姉様がそばにいてくれたら……
こんな連中に囲まれることなんて絶対になかったのに。
おそらく愛華とスターシアのフォローがあれば、スタートで出遅れたとしてもすぐにリズムを取り戻して、集団を突き抜けていただろう。
しかしすべて、シャルロッタの責任。“たら”“れば”は、ネガティブな感情を深めるだけでしかない。
(べつにチャンピオンなんていつでもなれるし、今季はアイカに華もたせてやっても……)
焦りは苛立ちとなり、徐々に諦めが侵食していく。
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「ヤマダやLMSに比べたら厳しいのはわかってますけど、今日はうちのマシンもよく回ってます。ただシャルロッタは……」
ストロベリーナイツのチーフメカニック、ニコライは、腕を組んでじっとモニターを見続けているエレーナにメカニックから見た意見を伝えた。
「エンジン音聞く限り、異常はなさそうなんですけど、やっぱり彼女の復帰はまだ早すぎたのですかね?」
ニコライの弁明を聞くまでもなく、エレーナにはマシンに問題がないのはわかっていた。
シャルロッタのマシンを面倒みているのは、彼女が最も信頼しているメカニック、セルゲイ親父だ。というより、彼以外にシャルロッタの要求に応えられるメカニックはいない。彼のセッティングで合わないなら、他の誰がやっても無駄だろう。
「そういう問題ではない」
エレーナは、顔をモニターに向けたままつぶやいた。
何度も選手生命を危ぶむ怪我を乗り越えたエレーナは、シャルロッタが今、どういう状態なのかわかっていた。
「怪我の回復具合など問題ではない。早くても遅くても同じことだ。アクシデントからの復帰で最も困難なのは、精神的なものだ」
身体的な問題ではない。
技術的な問題でもない。
勿論、マシンの問題でもない。
これまで、多くのライダーがアクシデントから立ち直れず消えていった。
(あいつには関係ないと思っていたが……いや、天才だったからこそ、普通より深刻かも知れんな)
シャルロッタが立ち直るのはわかっている。あいつにはレースしかないのだから。
だが、このレース中に立ち直ることは、おそらくないだろう。
残念だがシャルロッタの逆転の可能性は、これで消えた。
「それも経験だ」
「でもシャルロッタは、前にも同じような怪我してますけど、あの時はすんなり復帰したと思いましたが、どうして今回は?」
エレーナの感慨を、往生際の悪いニコライの質問が遮った。エレーナは苛つくこともなく、むしろすがすがしい表情で顔をニコライに向けて答えた。
「ふっ、シャルロッタもそれだけ成長したということだ」
成長したのに、前より上手くいかなくなる。そういうこともあるのは、ニコライにもわかる。
長い目で見れば必要なことであるのも理解してる。
しかし、今のシャルロッタは、自分からそこに行ったとはいえ、崖っぷちに立たされている。ニコライには、もしシャルロッタがこのままレースが終えてしまったら、本当にチームからいなくなる気がした。
「なんとかしてやれないんですか?トレーニング嫌いのあいつが、少しでも早く復帰しようと必死に頑張ってきたんです。身から出た錆びでしょうけど、負けるにしても最後まで力を出させてやりたいんです」
めずらしくニコライが熱く訴えったが、エレーナの表情は逆に疑いの色に曇った。
「ニコもシャルロッタにはずいぶん苦労させられてきたから、内心『ざまあみろ』とか思ってたんじゃないのか?」
「まさか!?」
確かにエンジンをよく壊すし、意味不明な要求してくるわで、いつも余計な仕事を増やしてくれて腹立だしく思うこともある。しかし純粋にシャルロッタの才能と勝利への執着は、ニコライも認めるところだ。
「おまえ、まさかシャルに惚れているのか?さすがにそれはまずいぞ」
色恋方面は、エレーナに期待していなかったが、そこまで飛ばされると、鈍いを通り越して天才という他ない。ある意味シャルロッタと同レベルだ。
「えっと、エレーナさん?私の思いを察してくれとは言いませんけど、もう少し女性として大人になってくださいよ……」
「なんだ、それは?私はここにいる誰よりも多くの経験をしてきてるぞ」
「そうでしょうね、ライダーとしては……私も他人のこと言えませんけど。って!そんなことより、アイカちゃんもスターシアさんも、ずっとフレデリカと張り合って、かなり疲労してきてるはずです。このままだと最後にラニーニかバレンティーナに優勝持ってかれてしまいますよ!無理やりにでもシャルロッタを目覚めさせる方法はないんですか」
「ここからできることなどあろうはずもない。自分で乗り越えるしかない問題だ」
あれだけのバトルをしてれば、そろそろスターシアに疲れが出てくる頃だ。対してバレンティーナもラニーニも、様子見を決め込んで力を温存している。
しかし、シャルロッタの問題は、シャルロッタ自身が乗り越えなくてはならない問題だ。
「そこをなんとか。あいつはエレーナさんと違って、言うほどタフじゃないんです。頭も悪い。誰かが手をさしのべてやらないと」
これにはエレーナも少し考えた。
確かに、あいつは相当のバカだ。自分で乗り越えるのを待っていては、いつになるかわからない。
…………
「おいニコ、アイカの友だちが作ってくれた日本語のサインボードあったろう?」
「ええ、ありますけど」
シーズン前、紗季たちがサインボードにはめ込むプレートを漢字で書いてくれた。裏には英語かアラビア数字で対訳が書いてあり、前半戦ではシャルロッタに知らせたくない情報を愛華にだけ伝えるのに重宝した。
「それで何をするんですか?」
「いいから用意しろ。これでダメなら今回は諦めろ」
普通ならこんなことで意識を変えられるとは思えないが、単純でバカのシャルロッタならもしかしたら……少しでも可能性があるなら、やるだけやってやるか。
「まあ、エレーナさんがそう言うなら言う通りにしますけど……おい、ミーシャ!アイカちゃんのサインボード持って来い」
「シャルロッタのもだ」
ニコライは、訳がわからなかったが、エレーナに従った。きっと凄い秘策があるに違いない。ライダーとして、エレーナ以上の経験を持つ者はいないのだから。
女性としては……
エレーナさんの女性としての魅力がわかる男は、自分をおいて他にいない。
ニコライは改めて、エレーナのすべてを受け入れる覚悟を決めた。




