とある少女との約束
土曜日になると、どのチームもセッティングを仕上げてきて、さすが上位チームのライダーたちのベストタイムは揃ってくる。
ストロベリーナイツも、三人とも前日のタイムをさらに更新して、相変わらずの好調さを示したが、他のチームもここでなんとか高ポイントを稼いでおかないとタイトル争いに残れないと必死だ。
有力ライダーが拮抗する中、予選前最後のフリー走行でトップタイムを記録したのは、バレンティーナだった。
土曜日の最後を飾る、一人ずつタイムアタックに挑むMotoミニモの予選は、いつもの如く、有力ライダーが走る毎に歓声とため息がサーキットを包む、目が離せないグリッド争いとなった。
結局、ワンラップのタイムアタック制したのは、朝から調子を上げてきたヤマダのバレンティーナ。ブレーキは従来型に戻されていたが、ヤマダ最新のエンジン制御は、高低差のあるテクニカルコースでも強みを発揮した。
二番手はワークスヤマダとは対極のじゃじゃ馬LMSを乗りこなし、コース後半の長い登り坂で強烈なパワーをタイム短縮に繋げたフレデリカ。
三番手にバレンティーナのチームメイト、アンジェラ。そしてスターシアが、いつもよりハードに攻めるライディングを見せてフロントロー最後のグリッドに並んだ。
二列目のラニーニ、愛華、ナオミ、エレーナから、三列目の琴音までがコンマ5秒以内という僅差で、決勝はどのチームにも可能性がある、全く予想のつかないスターティンググリッドとなった。
「ミスもしなかったし、けっこう行けてる、って思ってたのに、ちょっとがっかりです……」
予選を終えた愛華は、発表された公式結果を眺めて肩を落としていた。
自分では、ポールポジションとはいかなくてもフロントローには並べると思っていた。それほど今回は調子良かった。
「いや、アイカの走りは良かった。ただ他の連中は、予選に特化したセッティングを詰めてきたようだ。だがその差は僅かだ。誰もいないコースを理想のラインで走れる予選結果に、それほど悲観する必要はない」
エレーナは慰めでなく、客観的に愛華の予選を評価した。
「でも、結果として二列目スタートですから、『よく頑張った』って言っても、自己満足でしかありません」
「確かに決勝も楽観できるものでもないが、私の予想より差は開いていない。アイカのそういう自分を戒める姿勢は、ライダーとして美徳ではあるが、私から見てもおまえのレベルはバレンティーナやフレデリカに劣っているものではない。もっと自信を持て」
「今回はちょっと自信持ってたんですけど、結果は……」
「ワンラップアタックの予選では、コンマ1秒や2秒など運によって左右される。運を味方にするのも実力だが、それに振り回されない揺るぎない自信が勝利を呼び寄せる。ヤマダとうちのマシンの性能差を考えれば、おまえのタイムは立派なものだ」
「だけどスターシアさんは、わたしと同じバイクなのにバレンティーナさんからコンマ1秒以下の差で、わたしよりコンマ2秒近くも速かったです」
愛華の羨望の眼差しを受け、一列目グリッドに滑り込んだスターシアは、誇らしげなほほえみをエレーナに向けた。
エレーナはそのほほえみを一瞥して、愛華に話しを続けた。
「このコースでのタイム短縮には、ちょっとしたコツがある。コツと言うより裏ワザの類いだがな。スターシアはそういう小狡いテクニックを使っただけだ」
「私は卑怯な手なんて使ってません!」
スターシアが顔を真っ赤にしてエレーナに抗議した。
「まあルール違反とは言えないし、バレンティーナなんかも使ってるからな。そういうせこいテクニックだ」
「エレーナさんだって、前にあのラインを使ってたじゃないですか!」
「あれはバトルの最中に、他のライダーとの接触を避けるためにやむを得ず使っただけだ。最初から狙って突っ込むのとは大違いだ」
「私もやむを得ず、あのラインを通ったのです」
「単独で走ってて、あそこまで詰まるとは、余程甘いライン読みをしていたようだな。アイカ、誤った手本を真似る必要はない。堂々と胸を張っていいぞ」
「アイカちゃんも、もうデビューしたてのルーキーじゃないんです。基本も出来てますし、これからは応用テクニックも積極的に覚えていくべきです。いいわ、アイカちゃん。堅物のエレーナさんは置いといて、私がいろいろ教えてあげますからね」
「そういうのは、基本さえ出来てれば、咄嗟の時、自然に出るものだ。変な癖をつけさせるな」
エレーナとスターシアが揉めて、愛華が巻き込まれる。
最近は、あまり見れなかったこの光景が、愛華には新鮮な懐かしさを思いおこさせた。
東西冷戦時代には、東側に属していたチェコは、冷戦終結後、様々な混乱はあったものの、東側陣営としては高い工業生産力を誇っていたこともあり、独立後の経済は割りと早く安定した。それでも国民の平均所得は、EUの国々の約半分程度でしかないのだが、モータースポーツの人気は高く、特にMotoGPは、毎年イタリアやスペインにも負けない観客動員を記録するほどの人気イベントとなっており、GPライダーに憧れる子どもたちも多い。
日曜日、決勝の朝、愛華はいつものようにコースの周囲を一人でジョギングしていた。走り出した時は、エレーナとスターシアも一緒だったが、エレーナは脚の具合を見ながら、スターシアはそのエレーナに付き添うという名目で、ショートコースをゆっくり走っている。
愛華は、コース後半の11コーナーヘヤピンを見渡せるスタンドまで来て、脚を止めた。
ここからストレートまで続く長い登り坂となる。Motoミニモでは、このヘヤピンと登りながら二回繰り返す左右のS字コーナーの脱け方で、タイムが大きく変わってくる。スターシアの予選での走りをビデオで何度も見たが、その秘密は見つけられなかった。きっとタイム短縮のコツは、此処に隠されてるはずだと、実際のコースをじっくり眺めてみる。
(スターシアさんと練習で一緒に走って、理想のラインは全部学んだつもりだけど、もっと速く走れるラインがあるのかな?)
やはりわからない。エレーナさんの言う通り、必要になった時、自然に出来るのを待つ方がいいのかも知れない。
気持ちを切り替えようと深呼吸していると、右手の方から視線を感じて振り向いた。
一人の少女がじっとこちらを見つめていた。共に転戦しているMotoミニモのレギュラーライダーではない。
歳の頃はおそらく十代前半、日本なら中学生くらいだろうか。愛華と視線が合うと、慌ててペコリと頭をさげた。
ヨーロッパにもお辞儀という作法はあるが、日本のように軽いものではなく、敬意を表す意味があると聞いた。だとすると、この少女は愛華の大ファンか、余程の日本マニアだろう。愛華の自惚れでなく、どちらもチェコには意外と多くいる。
「おはよう」
なんにせよ、好意的なのは間違いなさそうなので、愛華から話しかけてみた。
「お、おはようございます!」
少女は明るい茶色の瞳を輝かせ、感激した声で答えた。
やはり愛華が何者か知ってるようだ。
「えっと、あなたもライダーなの?」
「ハイ!前座のU-15レースに出場します!」
U-15レースとは、チェコからMotoミニモライダーを輩出しようと企画された同一車種で行われている15歳以下の国内シリーズ戦だ。
元々は、去年までMotoミニモにフル参戦していたチェコ出身の双子の兄妹、クリス&アルテアの父親が、兄妹のGPデビューとそのチームメイトを選抜するために、財力にものをいわせて設立したライディングスクールとシリーズカップであったが、今ではチェコ版GPアカデミーとして、GPに憧れるチェコの少年少女たちの夢への入口となっている。
「そっか。じゃあ将来、一緒に走れるかも知れないね。あっ、もしかしてライバルになるかも?」
なんとなく数年前の自分と重ねて、少女を励ます言葉が自然に出た。
「ライバルなんてそんな!わたし……アイカさんとおんなじで、二年前まで器械体操してました。でも、アイカさんに憧れて、GPライダーになるって決めたんです。だから、アイカさんは、わたしの世界で一番の憧れの人なんです!」
ますます自分とその少女が重なってくる。まるで自分がエレーナに抱いていた思いを、そのまま自分に向けられたようで、驚くやら、恥ずかしいやら、そこまで自分は大それた存在じゃないと謙遜するやら、でもやっぱり嬉しいやらで、ちょっとしたパニックになった。
「あははっ、ありがとう。すごくうれしい」
かつてチェコスロバキアは、体操強国だった時代があった。しかし社会主義体制の崩壊と混乱、スロバキアの分離、経済的理由などで多くの有能な指導者や選手が国を離れ低迷、現在に至っている。
この少女にも、体操を続けられなくなった何かわけでもあったのだろうか。
もしかしたら、愛華よりずっと苦しい思いをしてきてるのかも知れない。
そんな少女にとっての憧れが自分だなんて、畏れ多い気がした。
「わたしなんて、目標としては、まだまだぜんぜんだよ。知ってると思うけど、わたしの目標はエレーナさん。ちょっとだけあなたより先にいるけど、立場は同じだから、一緒にがんばろ!」
愛華は少女に右手を差し出した。少女は今にも泣き出しそうに目を潤ませて、両手でしっかりと握りしめてきた。
「やっぱりアイカさんは、わたしの一番の憧れです!だから今日……、表彰台の一番高いところにあがるアイカさんの姿、見せてください!」
感激と緊張で思わず言ってしまったのだろう。言ってしまってから少女は、憧れの人に対してあまりに相応しくないことを言ってしまったと気づいて、きつく目を閉じ、申し訳なさそうに俯いてぶるぶると震えている。
そんな少女のけなげな姿、その口から発せられた熱い思いに、愛華の胸はいっぱいになった。
自分に憧れてくれる少女がいる。かつて自分が、エレーナさんに憧れたように……。
愛華は、エレーナがよく口にしている教えを思い出した。
なにも生産しないプロスポーツ選手が、唯一社会に貢献できることがあるとするなら、若い世代が憧れる、模範であること。
どんなに苦しい時でも、憧れとして誇り高くいなくちゃいけない。
ちょっとはお世辞もあるかも知れないけど、きっとこの子は、わたしを手本にしてくれてる。だから弱音なんて吐いちゃいけない。わたしには弱いところもたくさんあるけど、前に向かって行く姿を見せなきゃいけないんだ!
レースはなにが起きるかわからない。だから愛華は、インタビューでもファンに対しても、軽々しく勝つという約束はしないようにしてきた。
だけど今日だけは、この少女の期待に、絶対に応えたいと思った。
「本当はね、わたしちょっと自信なくしそうになってたの。でも今、絶対に勝つって決めた。もし今日表彰台のてっぺんに立てたら、それはあなたのおかげだよ。だからあなたも、勝ってわたしのいるところまで早く追いついて来て。約束だよ」
「ハイっ!」
愛華は握手している少女の手を、もう一度力強く握りしめた。
少女もそれに応えるように、握り返してきた。




