チーム一丸
予選を明日に控えた金曜日。最後のフリー走行を終えたエレーナは、ニコライにマシンを預け、ラップタイムの表示されたモニターに目をやった。
トップタイムはヤマダのバレンティーナ。同じヤマダのアンジェラが0.05秒差で続き、ラニーニ、ナオミのジュリエッタが0.11秒と0.12秒差につける。ヤマダとジュリエッタが上位を占め、それ以外ではフレデリカとスターシアが六番、七番タイムに僅差で並んでいる。エレーナはバレンティーナから0.93秒遅れの九番手タイムだ。愛華は1.5秒遅れている。勿論、これはスターティンググリッドを決める予選ではなく、フリー走行のラップタイムなので参考にしかならない。上位のタイムはチーム内でスリップを使い合っている時に出た記録だ。エレーナや愛華は単独で調整していた。
金曜のフリー走行としてはまずまずだ。だいぶ乗れてきている。予選ではグリッド二列目までになんとか潜り込みたい。
夏休み中のトレーニングの結果、レース距離を走り抜く体力も戻ってきている。ただ、実際のレースとなれば練習のようにはいかないだろう。上のほうの連中が本気で走ったらどのくらいのタイムかも予想できない。やはり実戦から離れていたハンデは大きい。
「いいんですか?エレーナさん」
「なんのことだ?」
ニコライに話しかけられ、一瞬自分の懸念を見抜かれたような気がしたエレーナは、不機嫌そうに問い返した。
「アイカちゃんのことです。乗れてるようには見えるんですけど、タイムが今一つ伸びてません」
エレーナからフッと笑みが溢れた。自分に余裕までなくなっていることに気づいたのだ。
「アイカのことか……。あいつは今、何かを掴みかけている。好きにさせてやれ」
「しかし、予選は明日だっていうのに、タイムアタックに向けたセッティングも詰められてないし、レースに向けてエレーナさんやスターシアさんと合わせることもしてません。せっかくエレーナさんの調子が戻ってきてるのに、このままじゃ勝てるレースも落としてしまいます」
「私などあてにしていないという意思表示かもな」
「いや、それはないと思いますが……」
エレーナのきつい冗談にニコライは苦笑いで答えるしかなかった。
愛華がエレーナを崇拝しているのは、誰でも知っている。純粋について行こうとする姿に、ニコライも嫉妬するほどだ。それだけに、エレーナが復帰したというのに一緒に走らない事が異常に思えた。
ツェツィーリアでテストしてる時は、それほど気にならなかった。エレーナも独自のメニューをこなしていたし、愛華もじっくりと乗り込んでいた。
しかし愛華は、インディアナポリスに入ってからもその調子で、明日が予選タイムアタック、明後日は決勝本番であることを忘れているかのようだ。
「そんな顔をするな。結果を求めてもダメな時はダメだ。私がこんな状態だから言う訳ではないが、正直、ヤマダのマシンは別次元だ。一緒に走って改めて感じた。こちらがピリピリと神経を尖らせて曲がるコーナーを、やつらは同じペースで、楽に曲がっていく。決勝になれば、ラップタイム差以上に厳しい戦いになるだろう」
「だからってこのレースを諦めるんですか?バイクの性能で水を開けられているのは自分たちの責任ですが、エレーナさんもアイカちゃんも、どんな苦しい状況でも諦めず、跳ね返してきたじゃないですか!?」
ニコライがライダーを責めた事は、シャルロッタがおバカをしてマシンを壊してしまった時以外ほとんどない。彼が大きな声でエレーナに詰め寄ったのは、ヤマダに太刀打ちできない自分に対する苛立ちからだろう。自身でそれに気づいて、彼はすぐにエレーナに謝った。
「ニコはよくやってくれている。勿論スミホーイの開発チームも精一杯やってくれてるだろうが、ヤマダが速すぎる。ここでそれを言っても仕方ないし、焦っても仕方ない。焦りは大抵、悪い方に導く」
多くの組織が衰退する最大の原因は、外部の力でなく、組織内の信頼関係が崩れるからだ。早急な結果を求め、責任を押しつけ合うようになったら、もう終わりだ。その点は二人ともわかっている。かと言って、いたわり合っていられるほど甘い世界ではない。
「私は諦めてなどいない。いいか、そのヤマダ相手にシャルロッタは六連勝した。その次に勝ったのは、じゃじゃ馬のLMSに乗るフレデリカだ。つまり勝敗の決定権はまだまだライダーが上回っているということだ。ラニーニたちの安定した速さも侮れない。去年はそれに敗北したのだからな。技術屋のニコには悪いが、二輪レースは機械が争うのではなく、人間が戦うものだと思っているし、そうあるべきだ。我々がそれを証明する」
「しかし……それならアイカちゃんにもレースに向けて……」
「アイカも一人前のトップライダーに成長はしたが、ヤマダも進化している。私もこんな体だ。現状、勝つのは厳しいと言わざるを得ない。だがアイカならやってくれる。シャルロッタやフレデリカとはタイプが違うから、一段一段登っていかなければならないが、私を越える資質を持っている。今、そのステップを一つ上がろうとしているところだ。黙って見守ってやってくれ」
身近にシャルロッタというGP史上最大の天才がいるために見落とされがちだが、愛華もバイクに乗り始めて僅か数年で世界トップライダーの仲間入りを果たした才能の持ち主だ。ニコライも十分それを認めている。
一流になるには、実力以外に幾つかの条件がある。すべてを兼ね備えてなければならないというものでもないし、持っていれば必ず一流になれるというものでもないが、愛華は一般的に大切とされる幾つかの資質を持っていた。
アスリートとして、並外れたポテンシャル。
尊敬する師と巡り合う運。
愚直なまでに教えを実行しようとする素直さ。
チャンスを確実に掴む強い意思と度胸。
もてはやされても傲らず、努力を続ける向上心。
これらはシャルロッタにはない性質で、エレーナと共通するものであった。
そして、厳しい状況ほど成長の糧とする愛華の芯の強さこそ、エレーナが期待するヤマダへの対抗手段だろう。
棄てていいレースなどない。しかし、次のステージに上がるには、目先のレースの勝ち負けより、一度原点に立ち返ることも必要だとエレーナは覚悟していた。
ニコライは、嫉妬するのが惨めになるほどエレーナと愛華の信頼関係を感じた。
同じ資質を持った二人。自分のような凡人には理解できない絆で繋がっている。
しかし、たとえ入り込めないとしても、エレーナさんとアイカちゃんを、このチームを支える事は出来る。それがエレーナ様に仕える自分の務めだ。
「わかりました。私も全力でアイカちゃんを応援します。ただ一つだけ、エレーナさんの論に異を言わせてもらうなら、二輪レースはライダーとメカニカルの集大成を競うものです」
エレーナをまっすぐに見つめ、ニコライはメカニックの誇りを込めて言った。
意を決したニコライの宣言に、一瞬驚いたエレーナだったが、すぐに真剣な顔で答えた。
「そうだな、私の間違いだった。訂正する。私たちの能力を最大限に発揮できるマシンにしてくれ」
「了解です!」
ヤマダの電子制御がどれほど優れていようと、所詮人間がプログラムしたものだ。こっちは人じゃないシャルロッタの要求に応えてきたんだ。アイカちゃんの能力を発揮させられるマシンだって、必ず仕上げてみせる!
少し離れたところで、二人のやり取りを眺めていたスターシアとセルゲイは、同時に溜息を漏らした。
「ニコライさんを少し見直しましたが、どうしてあの勢いで男として迫れないないんでしょう?」
「あれがニコの限界だろう。女王の氷は厚すぎる」
「あら、一瞬だけ隙間が見えた気がしましたけど」
「あいつにその度胸があればとっくに……やっぱり厳しいだろうな……。それよりあんた、ニコとエレーナさんをくっつけたくなかったんじゃなかったのか?」
「私はこのチームにとって最良になるよう努力しているのです。ニコライさんはチームに必要ですから」
セルゲイは納得したように頷いた。
「あいつがチームに居づらくなるのは、俺たちも困るわな」
二人は顔を見合わせて笑うと、エレーナとニコライに背を向けた。




