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最速の女神たち   作者: YASSI
進化する世界
260/398

ラストラップ

 汗で視界が霞む。

 クラッチとブレーキのレバーが重い。

 ホールドする脚の筋肉が悲鳴をあげている。


 エレーナは、己れの体が余りにも錆びついてしまっている事を実感していた。

 練習ではレース距離を十分走れるはずだった。

 やはり練習とレースは違う。フィジカルトレーニングが足りていないのは確かだが、一番の理由は体がレースを忘れてしまっている事だ。無駄に力を使っている。


 バレンティーナの勝利への執念を見くびっていた事も認めざるえない。バレは堅実な入賞ポイントを狙っていると読んでいた。

(まさかあそこでスパートするとは……)

 とはいえ、チームVALEのスパートに誰より早く反応したのは、さすが走る伝説(レジェンド)エレーナだ。スターシアも不意をつかれたスパートを直前で察知し、ケリーとマリアローザの間を割る楔となって、なんとか突破口をつくった。

 しかし、本来のエレーナならスターシアと連係して集団からもっと早く脱け出し、バレンティーナの追撃を鈍らせられたはずだが、ケリーの壁を突破するのに思いの外手間取った。

 スターシアはいつもの如く流れるような走りを見せているが、エレーナの体の動きは重い。

 素人目にはそれまでの苦しそうな様子から、突然往年の切れ味を取り戻したように見えただろうが、エレーナの動きが鈍っていることを、少なくともスターシアとケリーははっきりと感じていた。


(私がスターシアの脚を引っ張った。結果、バレンティーナとアンジェラを逃がしてしまった)


 エレーナは、思うように動かない自分の体を恨みながらも、懸命にバレンティーナを追っているが、差は取り返しがつかないほど開いてしまっている。だが諦める事は許されない。


(アイカたちのペースが極端に落ちている。あの三人が牽制しあってペースを落としているとは考えられない。タイヤが終わっているか、或いは終わったタイヤでバトルに夢中になっているかだろう。何れにせよ、ゴール直前で追いつかれるかどうかのぎりぎりのところだ。この勢いでバレンティーナに追いつかれた時、おそらく彼女たちに対抗するだけの余力はないだろう。なんとしてもバレンティーナを止めなくてはならない)

 

 

 先頭ではエレーナが最も心配した、終わったタイヤでの愛華とラニーニのバトルが、今始まろうとしていた。

 ラストラップに入る最終コーナーで、ナオミがスリップダウンしてフロントから路面に貼りつく。すぐ後ろにいたラニーニと愛華は、ラインを内側に寄せて多重クラッシュを回避する。幸いナオミはきれいに路面を滑ってアウトに流れて行く。

 二人とも、転倒したナオミと彼女のバイクとの接触は逃れたが、減速を余儀なくされた。

 後ろにいた愛華の方が少しだけ余裕があり、ラニーニの前でストレートに出る。ラニーニもすぐに愛華のスリップに入り、二台が縦に並んでメインストレートを通過して行く。

 しかし、固唾を飲んでレースを見守る者たちの目は、1コーナーまで二人を追わず、最終コーナーから現れたバレンティーナとアンジェラに向けられた。


 ストレートに至る最終コーナーはきつい上り坂で、ここを如何にスピードを落とさず抜けるかで、ストレート全域の通過速度は大きく変わる。特に小排気量クラスほど、その差は大きく表れる。

 バレンティーナとアンジェラは、前の二台とは別次元のスピードでメインストレートを通過して行く。そのあとスターシアとエレーナ、ケリー、リンダ、マリアローザと次々と通りすぎるが、どれもトップの二台より明らかに速い。

 

 

「アイカちゃん頑張っているんだから、エレーナさんとスターシアさんも頑張ってください!」

 ピットの中でモニターを見ていたミーシャだが、居ても立ってもおられず、サインボードを出すピットウォールの所まで駆けつけて大声を張り上げていた。

「エレーナさんもスターシアさんも頑張ってる。だけどバレが速すぎる。その差は拡がっている」

 ニコライは自身も、もどかしそうに拳を握りしめてミーシャをなだめた。

「スターシアさん、僕たちに厳しいこと言ったんだから、ちゃんとアイカちゃんを守ってくれないと!」

「スターシアさんは精一杯やってる。しかしタイヤがもう限界だ」

「それはバレたちも同じ条件でしょ……」

「いや、こっちはグリップを優先してソフトコンパウンドタイヤを選択した。だがバレたちは耐摩耗性に優れるハードコンパウンドを履いてる」

「タイヤの選択ミスですか……」

 タイヤの選択はライダーが決める。タイヤの選択を誤ったのはライダーだ。ミーシャの気持ちとしては、スターシアの責任と言いたくなる。

「いや、我々のタイヤ選択は間違っていない。ハードタイヤでは序盤に置いていかれてた。それだけヤマダのパワー制御が、いや、足まわりから車体、エンジン、すべてがバランスよく仕上げられているという証明だ。勿論、ハードタイヤでも終盤となれば本来の性能とは程遠いはずだろうから、このタイムで走り続けられるんだから、やはりバレとアンジェラも化け物だ。その化け物相手に、エレーナさんとスターシアさんは、何倍も神経をすり減らして立ち向かおうとしているんだ。おまえはあの人たちを責められるのか?」

「僕たちの責任だ……」

「そういう問題じゃない。俺たちに出来る事にも限度がある。とにかく、今ここで言っててもどうしようもない事だ。今はアイカちゃんが頑張ってくれる事を祈るしかない」

 二人はサインボード係用のノートPCのモニターに映る愛華の姿を、文字通り祈りながら見つめた。

 

 

 

 愛華には、ラニーニしか目に入っていなかった。

 ピットからの最後のサインは、バレンティーナが迫っていることと、エレーナとスターシアがそれを追っていることを伝えていた。


(最終コーナーで失速したから、もっと差が詰められているにはず……)


 だからといって、愛華にはどうすることも出来ない。これ以上ペースをあげることは無理だし、そもそも今の状態では、ゴールまで無事辿り着けるかすら運次第だ。


 タイヤの生み出す旋回力はほとんどなくなり、ちょっとしたトラクションの変化でズルッと滑ってしまう。

 滑ること前提でバイクをコーナーに向け、自分のバランス感覚を頼りに無理やり曲がっている感じだ。

 そんな状態でも、ラニーニに負けたくない。

 その気持ちは、些かも揺るいでいない。


 むしろ、転ばないように走ろうとすれば、逆に転倒してしまうかも知れない。愛華もラニーニも、互いに勝ちたいという気持ちが集中力をつなぎ止めている。


 バレンティーナが迫っていることを、頭の片隅に追いやる。

(どうせ追いつかれたらおしまい)

 愛華に出来ることは、エレーナさんとスターシアさんを信じて、ラニーニとのバトルに集中することしかない。


 四輪の有名なスポーツカーが、遠心力でオイルが片側に寄ってしまい、エンジンが焼き付いたという逸話があるほどの深く長く曲がっていくコーナーを、いつスリップダウンするかわからない状態の二台が、触れ合わんばかりに接近して曲がって行く。


 この二人の対決は、いつだってこうだ。クリーンではあるけども、僅かな隙があれば逃さず仕掛け、ぎりぎりの攻防を繰り広げる。

 どちらかがミスをすれば、二人とも転倒するような接近戦を、何の躊躇もなく仕掛け合う。

 期待通りのデッドヒートに、サーキットに詰めかけた観客が沸く。

 

 

 バレンティーナは、前の周の裏ストレートで愛華たちの背中を視界に捉えた時、ラストラップの後半で追いつけると見越した。

 だが、ラストラップに入る直前の最終コーナーでナオミが転倒し、それを回避した二人のストレートスピードが予想以上に遅くなったため、ラップ前半で追いついた。


 それはそれでありがたい事なのだが、いつ飛ぶかわからない二人がガチャガチャやっていられては、迂闊に近づけない。

 もう少し先に行けば見通しのいい高速区間となるのだが、それを待っていてはエレーナとスターシアに追いつかれる。

 ここまでの走りから、バレンティーナにアドバンテージがあるのは明白だが、あの二人まで絡むと面倒なことになる予感しかしない。


 バレンティーナは、一度、愛華とラニーニの横に並びかけて、すぐに下がる。

 パスしようとしたというより、二人に自分の存在を示そうとする動きだ。


 愛華とラニーニは、今のでバレンティーナがパスしようとしている事に気づいたはずだ。

 二人とも、抑えられないからといって、悪質なブロックで妨害するような真似ができる人間じゃない。恐いのは、後続に気づかず、急にラインを変えたりする事だ。


 バレンティーナは、再び二人の外側から、かぶせて行く。今度は本気で抜く勢いだ。

 しかし、愛華とラニーニはそれに構わず、ガツガツとカウルをぶつけ合うような接戦を続ける。

 姿勢を乱した二人がアウトに膨らむ。思わずバレンティーナは後ろに下がった。


 ブロックするような動きではなかった。まるでバレンティーナなどいないかのように、二人だけの競争を続けている。

 二人が「どうぞお先に」と道を譲ってくれるとは思ってなかったが、バレンティーナがパスしようとしているのを、まったく気にしないというのが信じられない。


(こちらは、パスしようという態度を示したんだ。露骨にブロックする方がまだ理解できるぞ。不慮の接触とか恐くないのか?)


 二人ともバレンティーナを迎え撃つ力が残ってないのは明らかだ。それでも、たとえバレンティーナに抜かれても、表彰台の可能性は残される。後ろにはエレーナとスターシア、それにリンダがいる。アンジェラにまで抜かれたとしても、三位と四位のポイントは手堅いだろう。最後まで優勝を諦めたくない気持ちはわからなくもないが、リタイヤしたら何にもならない。さっさと前に行かせて、あとはエレーナとスターシア、リンダに守ってもらって完走する方が得策のはずだ。バレンティーナには彼女たちのこだわりが理解できない。

 

 

 今の愛華にとって、ポイントなんて考えてる余裕がなかった。シャルロッタのリードを守るという目的すら忘れている。

 集中していないと走れない。ラニーニも同じだ。

 互いの集中力がぶつかり合い、増幅されて、いつの間にか二人とも夢中になっていた。


 バレンティーナが追いついていることは認識している。そんなことも、もうどうでもよかった。抜きたいなら抜いて行けばいい。


 だけど、わたしたちの決着を邪魔しないで!

 

 

 二人に無視された形のバレンティーナだったが、不思議と怒りは沸かなかった。

 シーズンを戦い、その成績で評価されるGPライダーとして、プロ失格と言える真似を続ける二人。なにが突き動かしているのか、理解できないからこそ、怒りよりその正体が気になった。


(二人の力は、ほぼ互角。タイヤの状態も似たようなものだけど、今のところバイクの扱いに長けているラニーニに歩があるみたいだ。でもアイカも、反射神経とバランス感覚だけでよく頑張ってる。あのしつこさには、ホント参らされるから。耐えてるラニーニもいい根性してる。この勝負、最後までわからないな)

 バレンティーナは、決着を見届けたいと思っている自分に気づいた。


 二人とも甘いところはたくさんある。だけど理屈でなく、血が沸き立つような熱が、バレンティーナにまで伝わってきそうだった。


 理屈抜きの興奮。それこそがレースの、そしてバイクの持つ、一番の魅力かも知れない。


(こいつらに人気があるのも、なんかわかるわ……)


「バレ!エレーナとスターシアに追いつかれたわよ。私が突破しようか?」

 柄でもないバレンティーナの感傷を、アンジェラの声が遮った。

 バレンティーナは、自分のために働いてくれたアシストの声を疎ましく思ったが、すぐに今がレース中だという事実を思い出し、後ろを振り返った。

 エレーナとスターシアの後ろには、ケリーとマリアローザに混じってリンダも近づきつつあった。だがフレデリカたちとの距離はまだある。


「大丈夫。直線に入れば、いつでもパスできるから」

 前の二人は自分だけで十分だから、アンジェラは後ろを警戒してくれるよう指示する。


 一団は、前半の深いコーナーが続く区間を抜けて、裏のストレートと浅いコーナーの区間に入る。

 だがバレンティーナは、トップ二人の後ろから動こうとしない。

 アンジェラは、エレーナとスターシアに身構えた。

 しかし、エレーナの勢いも弱まった。

 

 

 エレーナは、バレンティーナの配慮を察した。

「どうやら私たちの負けのようだ」

 エレーナがスターシアに向けてつぶやいた。

「まだ終わってません。アイカちゃんは頑張ってます」

 スターシアは、一人でもアンジェラに仕掛けようとする。

「やめろ、スターシア。アイカとラニーニのレースは終わっていないが、バレと私たちのレースは終わった。私たちの負けだ」

 バレンティーナが愛華たちに襲い掛かっていないのを確かめると、スターシアもエレーナの言葉の意味を理解した。

「……あの子たちには、レースの順位はそれほど重要じゃないみたいですね」

「今回だけだ。今回は私の責任だから大目に見てやるだけだ。次はレースを差し置いた私闘は許さん」

「あまり無理しないでくださいね、エレーナさん」

 あなたが言いますか?と言いたいのをこらえて、スターシアは微笑んだ。


 バレンティーナは、捨てバイザーを外す時、すぐ後ろにいる者にしかわからない仕草さで、エレーナとスターシアへの敬意を伝えた。そして最終コーナーの一つ手前の13コーナーの立ち上がりで、愛華とラニーニを一気に抜いた。


「最後まで見られないのは残念だけど、キミたちの決着の様子は、表彰式の時に詳しく聞かせてよ」

 最終コーナーに向かう上り坂を独り駆け上がりながら、バレンティーナは後方に置き去った愛華とラニーニに語り掛けていた。


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― 新着の感想 ―
[一言] パワーと車体とタイヤのバランス。 永遠の課題ですね。
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