迫るそのとき
「マリアローザは後ろの連中に、特にスターシアに注意して」
「了解」
「ケリーも煽った以上、しっかりと働いてもらうからね」
「もちろん、そのつもりよ」
「アンジェラは、ボクが前の三人に追いつくの手伝っ」
「Si」
プライベートチームながらエースの座を捨てて移籍してきたのに、これまであまり活躍のチャンスに恵まれてなかったアンジェラは、最後まで聞かずとび出した。バレンティーナはそれを気にしないで、追い上げ態勢に入る。とにかく1秒も無駄にできる時間はない。
この時、バレンティーナは気づいていなかったが、後方で彼女のスパートに逸早く反応したのはエレーナだった。スターシアの反応も素早かったが、ワンテンポ遅れる。
更にワンテンポ遅れたリンダは、かろうじてスターシアのスリップに入る。
(エレーナさんて、いったいどうなってるんだ?)
リンダが不思議に思うのも無理はない。
その直前まで疲れ果て、今にも脱落しそうに見えていたエレーナが、バレンティーナのスパートとほぼ同時に、別人のようにダッシュした。そのタイミングは一番後ろのマリアローザより早かったように見えた。
事実エレーナは、すぐにマリアローザをパスし、ケリーとの間に割り込んでいる。
エレーナに割り込まれた事によって、マリアローザとケリーの仕事は早くも完遂することが困難となった。
マリアローザは前のエレーナ、後ろのスターシアとリンダの両方に対応しなくてはならず、ケリーもエレーナによって、マリアローザとの連係を邪魔される。
ここでモタモタしていれば、フレデリカたちまで加わるだろう。それ以前にエレーナとスターシアとリンダに突破されるのは時間の問題だ。
「バレ!エレーナに入られたわ。長くは抑えられないから、できる限り急いで!」
ケリーの呼び掛けに、バレンティーナは耳を疑った。
「エレーナに!?」
汗を浮かべ(実際に見えた訳ではない)、肩で息していたエレーナに割り込まれただって?いったいなにやっているんだ!
喉まで出かかった罵倒を、なんとか呑み込んだ。
「弁解はしないわ。こっちもできる限り時間を稼ぐから、早く三人を追って!」
いいよ、少しだけ足止めしてくれたら十分だ。
それにしても、やってくれるね、元女王のエレーナさま。さすがだよ。まんまと騙されたなあ。
でも、もう手遅れだよ。今日はお遊びしないから。
それ以上離されないようについてきなよ。かわいい愛弟子が、ゴール目前にしてボクにぶち抜かれるところ、見せてあげるから。
愛華は、前を行くラニーニとナオミに、懸命についていた。
その前からタイヤがかなりダレているのは感じていたけど、スパートしてから一気に減ったみたいだ。
ぐにゅぐにゅとしながらも、なんとか粘っていたのが、軽くて固い感触になってきた。
コンパウンドにアスファルトの抵抗を受け止める厚みがなくなってきてる。例えるなら、テニスボールとピンポン玉の違いとでも言えばいいのか。ちょっと違う気もするけど、限界は近い。とにかく滑りやすく、粘りもないので前兆なくズルっといってしまいそうだ。ウェット路面をレインタイヤで走るより怖い。
でも条件は、前の二人も同じ。どちらもミディアムタイヤで、同じペースで走ってきた。怖気づいたら負ける。
ストレートからのブレーキングで、ナオミとラニーニのリアが不安定に左右に振られる。
追突しそうになりながら、愛華も必死にブレーキングする。
フロントタイヤはなんとか減速の役目を果たすが、荷重の抜けたリアタイヤは制動が利かず、前輪の軌跡から外れて前に行こうとする。
落ち着くのを待っていては置いてかれる。両の太ももでタンクを挟みんで車体を制御し、コーナーに向けて倒し込む。
リアタイヤは接地しているが、今度は遠心力で外側へ流れていく。流れる方向にフロントタイヤを向け、それ以上車体が横を向いてしまわないようにさせながらスロットルを開け、リアに荷重を掛けていく。
遠心力と駆動力を受けたリアタイヤは、路面にブラックマークを刻みつつも微妙なバランスを保ち、コーナーに沿ってマシンを曲げて行く。
三台のマシンがピッタリと並んで、遠目に見てもわかるほどドリフトさせながらコーナーを抜けて行く。ラップタイムはスパート直後の、ファーステストに迫るラップタイムからは急激に落ちていたが、張り詰めた緊張感は観る者をくぎ付けにした。
右に曲がる1コーナーはまだいい。左周りのサーキット+特異なレイアウト故に、極端に負担の大きいタイヤの左側は既にボロボロだ。それでもラニーニとナオミは、ギリギリまで攻めて行く。愛華もついて行くしかない。
ラニーニちゃんもナオミさんも、怖くないの?
不規則に姿勢を乱す二台を追いながら、愛華も必死でスリップとリカバリーを繰返し、いつまでタイヤが耐えてくれるか不安になる。
状況は同じだから、ラニーニちゃんたちだって苦しいはず。わたしがへこたれるの待ってるんだ。でもがまんくらべだったら負けない!
まさにラニーニとナオミは、愛華がついて来れなくなるのを待っていた。
もちろん、愛華の気持ちを、簡単に挫けさせられるとは思っていない。技術的にも対等と見なしている。
ただ、条件が厳しくなるほど、経験の差が表れる。愛華が如何にエレーナの見込んだ才能とは言え、バイクに乗り始めて僅か三年とちょっとだ。
シャルロッタには及ばないが、ラニーニもナオミも子どもの頃からレースをしてきた。その差を示したい。
「アイカちゃん、一人なのにがんばってる……」
「感心してる場合じゃない。そろそろこっちが危ない」
ナオミの言う通り、二人とはいえ、前を走る自分たちの方が消耗は大きい。愛華は二人のスリップストリームに、ぴったり入り込んでいる。
それでもブロックして遅れさせるような真似はしたくない。
甘いと思われるかも知れないが、それはラニーニにとって、意地以上の問題だった。
バレンティーナの存在感が薄れたのは、勝つために手段を選ばないレースをしすぎたからだ。
数に任せて、或いはバイクの性能差でもって、そして時には姑息な手段を使ってまでして積み上げた栄光。
それはそれで、類い稀な才能と強い勝利への執念の賜物であり、評価されることだと思う。事実、今でもファンの人気は高い。
しかし、同じトラックで戦うライバルからは、畏れられなくなった。
ライダーに順位があるといっても、一周2分前後のコースを走って、僅か1秒の差の中に10人がひしめく世界だ。勝ち負けに気持ちが占める割合は、レースしたことない人が思ってるより大きい。
はっきり言って、畏怖されてないライダーは、怖くない。
かつて、バレンティーナの前に立ちはだかったライダーは、エレーナとスターシア、シャルロッタぐらいしかいなかった。三人ともGP史上でも傑出したライダーだ。
他のライダーたちは、バレンティーナを畏れていた。
しかし二年前のここザクセンリンクで、レースを始めて一年半の少女が彼女の前に立ちはだかった。
技術的には明らかに劣っているその少女を、バレンティーナは執拗に潰そうとした。
しかし少女は、バレンティーナが根負けするまで耐えた。
その場にいたラニーニは、鮮明に覚えている。
愛華という尊敬すべきライダーの登場と、バレンティーナが畏怖するライダーではなくなったと、すべてのライダーが悟った瞬間を。
レースに出場する者たちは、それぞれマシンもチームの体制も違うし、背負うものも違う。優位性を生かすことは卑怯ではないし、競技者として当然だ。
でもだからこそ、堂々と胸を張って勝ったと言える勝ち方をしないといけない。
誰かに評価されるためでなく、自分自身のために、ラニーニは愛華を全力で振り切ろうとした。
「ナオミさん、わたしが前に」
「アイカが離れるとは思えない。ラニーニはラスト勝負に備えて」
残り二周、愛華が後ろにへばりついている以上、ゴール前まで勝負はもつれ込むと予想される。と言って、これ以上ペースを落とせば、急速に差をつめているセカンドグループに追いつかれる。ナオミができることは、ぎりぎりまでラニーニの消耗を軽くすることだけだった。
タイヤの左側を庇い、右コーナーでタイムを稼ごうとするが、如何せん数が少ない。右側とて余裕がある訳ではないところへ、挽回しようと激しく攻められ、急激に痛んでいく。どのコーナーでも、いつ飛んでもおかしくないほど車体をぶるぶると震わせる。
それでもナオミは限界まで攻め続けた。ラニーニもそれに遅れない。
愛華ももう限界にきている。
タイヤの接地感が掴めない。前の二人が行けるから自分も行けるはず、という無謀とも言える走りで必死について行く。
愛華はふと、先頭のナオミに完走するつもりがない気がした。
でもそれなら、どうしてラニーニちゃんまで同じペースで走っているの?
わからない。わからないけど、遅れたら負ける。離されることは考えない。飛ぶまでついて行くと決めた。
たぶん、自分かラニーニが飛んだら、そこで勝負は決まる。ナオミが飛んだら、それが二人の決戦のときだと意識した。




