ケンタウロスのいないダッチTT 琴音の静かな思い
レーシングマシンにスピードメーターはついていない。ほとんどの車両の一番見やすい位置についている計器は、レブカウンター(回転計)だ。
日本やアメリカでは、タコメーターという呼び方が一般的なこの計器は、文字通りエンジンの回転数を表示する。
しかし、実際のレース中にタコメーターを確かめながら走っている余裕などない。特にスタートでは、視線はスタートシグナルに釘付けで、下など見てられない。
ではライダーたちは、どうやってエンジン回転数を把握するのか?
それはエンジンが吐き出すエキゾストノート。つまり音である。多くの車種では、シフトアップする回転域が近づくと目立つようにランプが点灯して知らせるようになっているが、バトル中はそれさえ目を向けられないほど、前方に、周囲にと、視線は大忙しとなる。
ライダーはタコメーターなどいちいち確認せず、排気音でアクセル開度やシフトタイミングを把握している。
これは一般の車やバイクを乗っている人も無意識にしてることで、ゲーム機などでドライビング系のソフトがあれば、試しに音声をオフにしてやってみれば理解できる。画面に表示されるタコメーターを絶えず見てないとアクセルの加減もわからず、シフトタイミングも掴めないだろう。タコメーターに注視すれば迫りくるコーナーや他車に気がまわらなくなるはずだ。大音量でカーオーディオを流したり、周囲の音が聴こえないタイプのヘッドフォンを装着しての運転は避けた方がいい。
琴音は物心ついた頃から、ほとんど音が聴こえなかった。
代わりに触覚が人より発達した。
スピーカーに指先を触れて音楽を感じ、足の裏で背後の足音に気づけるようになった。
エンジンの回転数も、振動で把握できた。
レーシングバイクのシートは、一体感を得るためにクッション性のほとんどない薄いウレタンが張り付けられている。琴音のバイクのシートは、さらに薄い、表面に滑り止めの加工がされたシールが貼ってあるだけだった。
予選七位、二列目のスターティンググリッドに並んだ琴音は、静かに息を吸い込むとタンクに身を伏せ、カウルスクリーンから前方のスタートシグナルを凝視した。
五つ点灯していた赤色が、一つずつ消えていく。
琴音はスロットルグリップを僅かに捻った。
エンジンの鼓動が毎分8000回爆発していたのが、9500回まで上昇した振動が、シートを通して伝わってくる。LMSによってチューンされたヤマダ市販型エンジンの最も瞬発力を発揮する回転域だ。
小排気量2サイクルエンジンを搭載したマシンで行われるMotoミニモのスタートは、スズメバチの巣を突っついたと形容される。
色鮮やかなスズメバチたちが一斉に唸りあげる瞬間、その真っ只中にいるライダーたちは、自車のエンジン音を聞き分けることすら難しい。彼女たちは、慣れと勘でスロットルを開ける。
しかし琴音は、お尻から伝わる振動で正確に回転を合わせ、クラッチを滑らせた。
エンジンは最大トルク発生域を保ったまま、琴音と車体を力強く前へと押し出す。
リアタイヤがしっかりと路面を掴んでいるのを感じながらクラッチを繋いでいく。
フロントが浮き上がってくる。それを上体を被せて抑え、ローからセカンドにシフトアップ。
Motoミニモ最強のパワーを誇るLMSは、小さな体の琴音を乗せ、フロントタイヤを僅かに地面から離しながらも、ナオミとフレデリカの間を抜けて行く。
フロントローで好スタートをきったラニーニと二列目からジャンプアップした琴音が、並んで第1コーナーをめざす。その後ろに、ナオミ、フレデリカ、愛華、バレンティーナ、スターシア、ハンナと続く。
琴音とラニーニは並んだまま、1コーナーに入る。
シャルロッタの欠場で、混戦を期待していた観客も、思わぬ伏兵の飛び出しにどよめく。
昨シーズン終了後、琴音の移籍はYRCとLMSの間で、ほとんど彼女の知らない間に取り交わされていた。
YC213から214へと開発が進み、ある程度完成に至ったと判断したヤマダは、この先の熟成にはレースで勝てるライダーの意見が必要という結論に達した。
琴音には、エンジン供給と市販レーシングキットパーツの開発が決まったLMSに行って、YC213を開発した手腕を振るって欲しいと依頼してきた。
要するにYRCにとって琴音は必要なくなり、体裁よく追い出されたのだ。サラリーマン社会でいうところの左遷というやつだ。
勿論、LMSとの正式な契約書にサインしたのは琴音本人だし、その時断ることもできた。
ヤマダのMotoミニモ参戦プロジェクト初期から携わり、わが子のように育ててきたYCと引き離されるなら、この世界から身を引くことも考えた。
だがシーズン後半、フレデリカの代役として出場した世界のトップ舞台で走った緊張と興奮が忘れられなかった。
あの舞台で再び走れるなら、どこでもいい。
琴音はYCの心臓とともに、ドイツへと渡った。
結果的に言えば、YRCの決定に感謝しなければならない。
LMSの技術者たちは、大した実績のない琴音の意見にも耳を傾けてくれた。聴覚障害も語学力の不足も、タブレットの翻訳機能で補えた。天才肌のライダーによくあるような抽象的な表現でなく、具体的な言葉と数値で表す琴音の能力は、文字で打ち込むのに然程苦労しない。むしろLMSのメカニックたちから重宝がられた。
ハンナも理論的で素晴らしいライダーだった。何度も夜遅くまで意見を交し合った。
時には、琴音とメカニックの意見が対立することもあったが、ハンナが間に立ってとりなしてくれた。
自社でFー1とGPまで開催するサーキットを所有するヤマダと、テストコースすら持たないヨーロッパの小さな会社では、設備も資金も雲泥の差があったが、現場に横槍を入れる上役もおらず、琴音はのびのびとレーシングバイクに向き合える環境に歓びを感じた。
そしてフレデリカの加入。
ヤマダ時代には、彼女の要求がまったく理解できなかった。YC211から213に移行する間に生まれた212は、ケリーとフレデリカとバレンティーナの主張がぶつかり合い、それぞれの意見を盛り込んだデタラメのマシンとなってしまった経緯がある。
だけど今ならわかる。
フレデリカはこのエンジンの、最大限のポテンシャルを発揮できるマシンを求めていたのだと。
才能は嫉妬のしようもないほど遥か彼方だけど、彼女がヤマダからLMSに来た経緯も、自分と似ている。
琴音はフレデリカに、ヤマダに恩返しする夢を託した。
タイトなコーナーの続く前半部を、LMSの琴音とフレデリカ、同じように二人のブルーストライプスとストロベリーナイツ、そしてバレンティーナが、団子状態となって過ぎる。先頭は相変わらずラニーニと琴音が競り合ったままだ。
このコースで最もくびれた5コーナーを抜け、見通しのよくなったところで琴音ががフレデリカを引っ張って、一気にラニーニの前に出た。
観客の歓声が一際大きくなる。
バレンティーナさえ、この展開は想定外だった。
フレデリカが初なラニーニと愛華を掻き乱すケースは想定していたが、琴音がフレデリカを引っ張るとは想像すらしてなかった。
琴音が一人で張りきっているのか、フレデリカと連係が取れているのか。トップの後ろにベッタリくっついて行く作戦だったが、迂闊に乗っかると自分が掻き乱されることになる。
ラニーニや愛華たちもそう感じたのだろう、自分から絡んで行こうとせず、離れず追い込まずで様子を探っているようだ。
琴音はフレデリカが真後ろについて来てることを確認すると、彼女の走り易いリズムに合わせた。
琴音とフレデリカのライディングスタイルはまったく違う。当然セッティングもラインどりも違ったものとなる。
それでも琴音は、フレデリカの走りをよく研究していた。あり得ないと思えるライディングも、理由もなく速く走れるものではない。無駄も多いが、理にかなう部分も多かった。
到底真似できるものではないが、学べることは多かった。意外と思われるかも知れないが、今年初めに鈴鹿でのテレビ収録で、一緒に初心者の女子高生に教えた経験は想像以上に得たものは大きかった。
ファーストフレデリカの速さは、シャルロッタに対抗できる唯一のスピード。
残念ながらフレデリカのアシストとして、シャルロッタに勝たせてあげる力は琴音にはない。
フレデリカの走りに耐えられる耐久性も、今のLMSにはまだない。
だけど琴音には、フレデリカのペースメーカーとなって、最終ステージまで連れて行くことはできる。
ヤマダがMotoミニモに復帰してからあげた勝ち星は、疑惑の繰り上げ優勝というありがたくない汚名をGP史に記されることになった、昨年バレンティーナがイタリアGPであげた一勝のみ。
ヤマダに本当の一勝目を、切り捨てた可能性によってもたらすことを胸に秘め、琴音は正確なペースでフレデリカを引っ張った。




