神様の悪戯?それとも運命?
「右の腕と鎖骨の骨折と───骨折は一月もすれば治るだろうが───頭部と頸椎にもダメージを受けたようだ。転倒した瞬間の記憶がとんでいて、その時の状況は覚えていないらしい。精密検査と経過を見なくてはなんとも言えないが、シャルロッタは以前にも同じような怪我をしている」
夕刻、シャルロッタの搬送された病院からパドックのストロベリーナイツエリアに戻ったエレーナは、チーム全員にシャルロッタの容態を報告していた。
以前の怪我とは、一昨年、モトクロスバイクでバックフリップに失敗し、二ヶ月の入院生活を余儀なくされたあの怪我のことだ。それで愛華が代役としてチームに入った。
「前と同じ程度としたら、二~三ヶ月の欠場は覚悟しなくてはならない。頭の方は……、最近少しマトモになっていたが、元々が壊れてるから最悪でも元通りになるだけだが、あいつは頸椎をやったのが二度目だ。下手をするとライダー生命に関わるだけに、慎重に様子を見なくてはならんだろう」
「それじゃあ明日の予選は……」
アクシデント直後に愛華も覚悟していたが、なにか口にせずにはいられなかった。
「腕と鎖骨が折れてる。首に異常がなくても、今回は勿論、次のドイツGPの出場も無理だ」
ドイツGPのあと、インディアナポリスまでの間には約一ヶ月のサマーブレイクがあるが、検査の結果次第では、そこでの復帰も危うい。
それによってエレーナは重大な決断を二つ、しなくてはならなくなっていた。
「現在シャルロッタは、二位ラニーニに51ポイントのリードがある。だが、たった51ポイントだ。こことドイツでラニーニが連勝すれば追いつかれ、サマーブレイク明けに復帰できないなると、逆転されるのは明白だ。ラニーニが連勝できなかったとしても、今さら調子をあげてきたバレンティーナまでタイトル争いに名乗りを上げることになった。マシンの仕上がり次第では、フレデリカにもチャンスがあるだろう。早くに復帰できたとしても、これまでのような走りをすぐに取り戻せる保証はない」
ストロベリーナイツのパドックを重い空気が包んだ。
「今、わたしたちにできることは?」
沈みそうな気分を振り払って、愛華は思いきって質問をする。エレーナは全員の顔を見回して、ゆっくりと口を開いた。
「とりあえず、やつらに高ポイントを与えないこと、つまりアイカとスターシアが彼女たちより上位でゴールすることだ」
『ラニーニ、バレンティーナ、フレデリカより上位でゴールする』とは、『一位二位でゴールする』と同じ意味だ。
ここまでシャルロッタの六連勝で、ストロベリーナイツの圧倒的強さが印象づけられているが、エース以外が表彰台に立ったのは、初戦で愛華がシャルロッタと逃げ切りを成功させた時と、予選が雨で混乱したフランスGPの表彰台独占した時だけだ。それはそれで評価されて然るべきだが、どちらのレースも他のチームが実力を出しきれたとは言えないレースだった。結果としてシャルロッタが六連勝しているが、決してストロベリーナイツの圧倒的優位という構図ではない。
「とにかく、今はそれしかないんですね。シャルロッタさんが戻るまで、死に物狂いで頑張ります!」
どんな困難にも前向きにぶち当たって行けるのが愛華の最大の武器だ。愛華が皆の前で力強く決意を宣言すると、深刻な表情をしていたスターシアも頷き、メカニックの人たちも口々に心強い支援を約束してくれた。
その後、愛華たちは明日の予選に向けてコンディションを整え、スタッフの人たちは自分の仕事に戻っていった。エレーナはプレスへの対応とスポンサーやメーカーの偉い人たちへの報告に追われた。
エレーナが深夜遅く、ホテルの部屋に戻ると、スターシアはまだ起きていた。
「まだ寝ていなっかたのか?明日も朝早くにアイカが起こしに来るぞ」
イタリアGP以来、早朝のコンディショントレーニングは続いており、スターシアも早寝早起きが習慣になっていた。ミーティング時の愛華の様子では、明日も朝練は欠かさないだろう。
エレーナは冗談っぽく声をかけ、冷蔵庫から出した缶ビール片手に、ベッドに腰掛けた。
エレーナに茶化されても、スターシアは誤魔化しを許さない顔つきで正面に座った。
「ミーティングでは、大事なことを言いませんでしたね」
スターシアが何のことを言っているのかは、エレーナには痛いほどわかっていた。
「まだシャルロッタの長期欠場が決まった訳ではない」
エレーナは、あからさまにその話題を避けたいという口調で答えた。
「そうでしたね……。では、はっきりしているところから、今回は仕方ないとして、次のドイツGPでの代役ライダーはどうなさるつもりですか?二戦以上欠場する場合は、代役を出走させなくてはなりませんが?」
「シャルロッタがサマーブレイク明けに復帰できるようなら、とりあえず地元のライダーを起用する手もある」
愛華の場合もそうであったが、シーズン途中で有力なライダーを招き入れるのは難しい。一、二戦であれば、開催国の国内ライダーをワイルドカードとして走らせることはよくある。どのみち戦力として期待できないなら、開催国のライダーを起用し、地元ファンを歓ばせるのも一つの手だ。観客が歓べば、スポンサーにも顔が立つ。
「一月で戻れないようでしたら?私とアイカちゃんだけで穴を埋めるには限度があります」
「その時は、私が走る」
スターシアは、予想していた答えを聞いて意味深に微笑んだ。
エレーナの脚と肩は、まだ完治こそしていないが、バイクに乗るには差し支えないまでには回復している。実際、最近ではテストコースで新しい仕様のマシンテストもこなし、怪我をする前と遜色ないタイムで走っていた。
しかし、テストと実際にレースを走るのでは全然違う。それに今季は、スタートからゴールまで全力でスパートするようなレースが何度も繰り広げられている。年齢的にも、去年まで第一線で走ってきた事自体驚異なのだ。ようやく走れるようになっても、それ以外の仕事にも追われ、レース勘も鈍っているだろう。
当然エレーナも、どのチームもレベルが上がり、毎戦ハイペースのレースが繰り広げられているのは知っているはずなのに、呆れるほど堂々と答えられた。
「もしかしたらエレーナさんなら、すぐに適応してしまうかも知れませんね……私としては、カムバックするにしても、しっかり準備して欲しいところですけど」
考え直すよう説得するつもりでいたが、エレーナを見てるとそれが当然のような気がしてきた。
「言いたいことがそれだけなら、私は休ませてもらうぞ。スターシアも早く寝ろ」
エレーナはこれで話を打ち切ろうとする。
「もう一つ、アイカちゃんは意識していないようですが、彼女と私、あるいはエレーナさんが、ラニーニさんやバレンティーナさんたちを抑え、表彰台に上がり続けたとしたら」
「わかっている!」
エレーナはつい強い口調でスターシアの質問を遮った。まるで自分の抱える苦悩を見透かされている気がした。
「スターシアが、アイカとシャルロッタ、チームと私のことを本気で心配していることは知っている。だが、アイカが言ったように、我々に今できることは、一戦一戦を全力で勝利をめざすことだけだ」
エレーナは毅然として答えたが、スターシアは尚も探るような目を向けていた。
「そろそろ本当のことを教えてくれませんか?実際のところ、シャルロッタさんの復帰はいつ頃なんですか?」
やはりスターシアは、シャルロッタが一ヶ月では復帰できないだろうと知っていた。観念したエレーナは、他のスタッフは勿論、愛華にもまだ言わないよう念を押して、正直に話すことにした。
「骨折と頭は皆に言った通りだ。首の方も基本言った通りだが、医者からは痺れや麻痺がなくても、最低三ヶ月はレースへの復帰を禁止された。幸い骨折も神経の損傷もないがようだが、支える筋肉が伸びきってしまっているらしい。完治しないうちにまた転倒などすれば、死ぬか寝たきりになる危険性がある」
「………」
スターシアの安堵と落胆の入り混じった溜め息が妙に大きく部屋に響いた。
最悪の場合も心配していただけに、重大な後遺症もなさそうな診断結果にほっとする反面、三ヶ月後という復帰時期はなんとも微妙と言えた。
三ヶ月後といえば、今は六月末だから九月末、ちょうど第13戦のアラゴンGPで復帰となる。その間、今回のダッチTTを含め、ドイツ、インディアナポリス、チェコ、イギリス、サンマリノの6戦の欠場ノーポイントが確定。その後はアラゴン、日本、オーストラリア、マレーシア、バレンシアの5戦次第でチャンピオンの可能性は残す。
欠場中の6戦をすべて愛華とスターシアとエレーナでいくら頑張っても、おそらく逆転されるだろう。それでも復帰後のシャルロッタが本来の速さを発揮できれば、再び逆転も可能だ。
問題は愛華とスターシアだ。現在、愛華のランキングはラニーニに次ぐ三位、四位のバレンティーナを挟んでスターシアは五位。二人とも十分チャンピオンを狙える位置にいる。
つまりシャルロッタのランキングを守ろうと頑張れば頑張るほど、二人がシャルロッタの脅威となってしまう。逆にラニーニやバレンティーナに負けると、シャルロッタの再逆転が困難になるというジレンマに陥る可能性が出てきた。
「なんともややこしいことになりそうですね……」
スターシアはまるで他人事のように言う。自分がエースになることにまったく興味のない彼女が心配しているのは、愛華とシャルロッタのことだけだ。
「サンマリノまでに復帰できるようなら、このままシャルロッタのエースで行けた。日本まで掛かるようなら、今すぐアイカをエースとすることに迷いはしなかった」
「結局シャルロッタさんの復帰時点での状況次第というところですか」
エレーナがその件を伝えなかったのは、愛華を動揺させないためだった。愛華はシャルロッタの怪我によってデビューしたことに、潜在的に負い目を感じている。いや、それがなくても、彼女はこんな形でエースに抜擢されることを望んでいない。シャルロッタの可能性が消えたならともかく、あやふやな状態で「シャルロッタは切り捨た。明日からおまえがエースだ」と言われても、愛華自身が受け入れないだろう。彼女は純粋にシャルロッタに尽くそうとしている。
スターシアにもそれは理解できた。
「普通のライダーでしたら、表向きはどうあれ、又とないチャンスと喜ぶでしょうが、アイカちゃんには重すぎるでしょうね。いつかはシャルロッタさんに勝ちたいと思ってはいても、そんな勝ち方は彼女も納得しないでしょう。誰かさんと同じで、あの子は自分が納得しないことは絶対譲らない、頑固なところがありますから」
「誰かとは誰のことだ?」
「さあ、誰でしょう?」
スターシアは「ふふっ」と笑みを浮かべてとぼけた。
「悪いのは怪我をしたシャルロッタだ。いっそアイカが、もっと腹黒いやつだったら悩まずに済むのだがな」
エレーナもシャルロッタに被けて、しらばっくれる。
「それはそれでシャルロッタさんが戻った時、チーム内が荒れそうですが」
「競争も必要だ。チャンピオンをめざすなら、もっと人を蹴落としてでも這い上がる貪欲さが必要だ」
「あら?強くなりそうな人を探してまでして引っ張り上げ、堂々と捩じ伏せてきた人の言うことですか?」
嫌味とともに向けられた息を呑むほどの微笑が、エレーナの反論する意思を弱める。
「私は挑まれた挑戦を受けてきただけだ……」
スターシアは立ち上がり、強がるエレーナの髪にそっと触れた。
「心配しないでください。あの子たちならきっと、落胆させられるようなことはないでしょう」
「………」
透きとおった瞳に吸い込まれそうになり、エレーナは視線を逸らした。
「………スターシア、やめろ。私に変な猫のぬいぐるみの真似をする趣味はない!」
壁に掛けられた鏡には、エレーナの頭に猫耳をつけようとするスターシアの姿がうつっていた。
「ちぇっ、気づかれてしまいましたか。『カティちゃん』可愛いのに」




