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最速の女神たち   作者: YASSI
デビュー
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女王と皇女と愛華

 愛華がヒースロー空港に到着した時刻は、すでに真夜中近くになっていた。テロを警戒した監視カメラや兵士の姿が至る所に目につく。

 ロビーを監視するカメラの位置を確認し、できるだけ目立ちそうな中央の明るいシートに、小学生と間違われそうな小さな体を預けた。


 スペインのGPアカデミーに入って一年半、留学の資金を出してくれているタイヤメーカーのイベントで初めて帰国した。

 鈴鹿でのイベントには疲れたが、久しぶりの家族や友だちとの再会は気持ちをリフレッシュさせてくれた。

 只、日本でのモトミニモの認知度が相変わらず低いのが寂しい。せいぜいミニバイクレースの世界戦程度の認識しかない。

 自分が世界で活躍すれば少しは日本でも知られるのかな?と前向きな夢を描いてみたりする。


 ちょうど夏休み時期でもあり、ロンドンまでの格安チケットしか取れなかった。ここでマドリードまで飛ぶ安いチケットを捜さなければならない。

 思えば一年以上ヨーロッパに暮らしていても、ほとんどスペインから出た事がない。ついでだからゆっくりロンドン観光でもしてみたかったが、財布の中身がそれを許可してくれそうになかった。

 日本の蒸し暑さの染み込んだシャツと時差ボケをリセットしたくて、シャワーと清潔なシーツが恋しかったが、これも財布の中身を思い出して我慢する事にした。それに今から空港の外に出て、ホテルを探すより警備の厳しいここの方が安全だろう。


 機内でずっと眠っていたので、癖のある髪は短めにカットしたばかりなのにひどい状態になっている。

 タイヤメーカーから貰った帽子を深めにかぶると、まるでわんぱくな少年のようになった。監視モニターを視ている警備員にはきっと小学生くらいの男の子が一人でいると思ったかも知れない。


「失礼、あなたはミス、アイカ・カワイサンですか?」


 突然話しかけられた少し訛りのある、しかしはっきりした英語のよく通る女性の声に、初めて人がいる事に気づいた。顔を上げるといつの間にか二人の女性が目の前に立っていた。


 二人ともまっすぐな完璧な立ち姿で、体の軸がまったくぶれていない。おそらくバレエか体操の経験者と想像出来る。それもかなり高いレベルなのが立っているだけで感じられる。或いはモニター越しに観ていた警備員なら軍事訓練を受けた者かと警戒していたかも知れない。


 声をかけたのはプラチナ色のブロンドをベリーショートにカットした女性で、寝起きのような愛華とは対照的に、髪の毛一本の乱れもなくクールな威圧感を醸し出している。もうひとりは、長く美しい金髪を頭の後ろで結んでいる。こちらの方が背は少し高いが年齢は若い。


 愛華はすぐに彼女たちが誰か気づいたが、その人物が真夜中の空港ロビーで、自分に声をかけてきたという状況が結びつかず、なかなか現実として把握出来ないでいた。


「……?」


 声をかけたショートヘアーの女性が、怪訝そうな表情で愛華の顔を覗き込んだ。アイスブルーの瞳に見下ろされると全身の筋肉だけでなく、思考まで凍ってしまうようだ。


「私はエレーナ・チェグノワという者だが……?失礼だがミス、アイカ・カワイサンではないのか?」

 もう一度問いかけられた。


(やっぱりエレーナ・チェグノワさんだぁ)とぼんやり考えてから、はっ!とした。


「ハッ、ハイ!イエッス!イエスです!わたしです、河合愛華です!エレーナ・チェグノワさんに憧れて、GPアカデミーに入りましたっ!」

 愛華は思わず日本語で答えていた。おまけに頭の中はまっ白で、何を言っているのか自分でも解らなくなっている。


「彼女は何と言っているんのだ?」

 エレーナが隣の女性に尋ねる。

「さあ?私も日本語はKA・WA・I・Iしか知りませんから。でも人違いではないようですね。彼女カ・ワ・イ・イですから」

 若い方の女性が、興奮気味の愛華に視線を向け、優しそうに微笑んだ。

「私の名前はアナスタシア・オゴロワです。はじめまして」

 アナスタシアの瞳は、同じブルーでもエレーナとはだいぶ印象が違う。北欧の澄んだ湖のような蒼で思わず吸い込まれてしまいそうな神秘的な瞳だ。

 勿論、名乗らくても愛華は二人とも知っている。特にエレーナについては写真や映像を穴が開くほど見てきた。左眉の外側にある小さなほくろの位置まで正確に記憶している。

 今、愛華がここにいるのもエレーナのおかげだと言っていい。



 愛華は中学まで器械体操に熱中していた。夢はオリンピック選手。実際、中学一年でジュニア日本代表に選抜され、将来を期待されていた。

 しかし中二の時の大会で着地に失敗し、左足首を複雑骨折した。折れた骨が腱や神経を傷つけるほどの大怪我だった。三回の手術と長いリハビリの末、なんとか回復した。しかしもう以前のような足首関節の柔らかさは完全には取り戻せないと言われた。

 筋肉だか腱だかの一部が完全に損傷しており、つま先から足首・膝までを一直線に伸ばす動作が出来なくなっていた。

 日常生活では何の問題もない。他の競技なら努力次第で或いは誤魔化す事も可能だったかも知れない。しかし体操選手としては致命的だった。体の柔軟性と線の美しさが重要な採点対象なのだ。


 幼い頃から抱いていたオリンピック出場の夢が断たれ愛華は絶望した。何をしても無気力になっていた。

 多少減点されても中学生の大会レベルならそれなりに活躍出来たかも知れないが、ジュニア日本代表として海外遠征まで経験した愛華には、なんの魅力も感じなかった。それどころか、完璧な演技の出来なくなった体を晒すのが惨めに思えた。

 もう自分の存在価値が無くなってしまった気がした。それほど体操に打ち込んでいた。

 親友たちは変わらず接してくれた。しかし愛華の方が普通に振る舞えなかった。家族が気を使いカウンセリングを受けさせるほど心を閉ざしてしまった。


 そんな頃だ。部屋に引きこもり何気なく観ていたテレビで、海外のテレビ局制作のエレーナ・チェグノワのドキュメンタリーをやっていた。

 オートバイレースなどに興味なかった愛華は、初めはぼんやり眺めているだけだった。しかし少女時代のエレーナが体操をやっている写真が画面に映った時、何かが琴線に触れた。そこから愛華は番組を真剣に観ていた。

 

 

 エレーナ・チェグノワ。旧ソ連のウクライナ出身で若い頃才能を見いだされ、国立の体操選手養成施設に入る。13歳の時に国の指示でロードレーサーに転向。15歳で世界デビュー&初チャンピオン。以来20年間で9回のタイトルと言う華々しい経歴もさることながら、驚かされたのは三度もの選手生命を危ぶむ大怪我にも関わらず、その度驚異の復活を果たした事だった。二度目など片腕を失いかけたという。その不屈の精神力と徹底した勝利至上主義、冷静なレース運びから『氷の女王』と呼ばれている。

 5年前に一度引退し自分のチームを設立、監督に専念するが2年後に現役復帰し、文字通り最前線で指揮する監督兼ライダー。

 番組の終わりに語られたエレーナのコメントに、頭を殴りつけられたような衝撃を受けた。


「私は絶対諦めない人間だ。どんなに困難な状況であっても、私を絶望させる事は出来ない。これまで私の人生は、思い通りにいかない事の方が多かったし、これからも簡単に行くとは思わない。だが決して絶望しない。例え死んでも、別の世界で這い上がってみせる」


 信じられなかった。

 旧ソ連の女子体操界と言ったら、日本のレベルなんか比べものにならないくらいのエリート集団だったはず。そこで有望視されながら、本人の意志に関係なく転向させられ、それでも別の世界で一流になるって凄すぎる。それに大怪我したのに絶望しないって何で?いったい今何歳なの?


 愛華は、そのドキュメンタリーを観てから、夢中でエレーナ・チェグノワの事を調べ、いつしかエレーナに心酔していった。


 そしてGPアカデミーの事を知った。しかも二輪未経験者でも入学可能だという。愛華は決意した。


 GPアカデミーの育成プログラムが、エレーナさんを育てた旧ソ連のシステムがベースになっているのなら、同じ体操選手だった自分にも可能性があるはずと奮い立った。

「わたしの怪我なんて、エレーナさんに較べたら落ち込んでる場合じゃない。わたしもエレーナさんのように強くなりたい!」

 愛華にとってエレーナは、憧れであり心の支えでもあった。



 しかし、愛華がどんなにエレーナに憧れていても、それは一方的な事情であって、相手の知る筈のない事だ。知っていたとしても向こうから話しかけてくる事など有り得ない。そんなファンはごまんといる。愛華はまだ無名のGPアカデミーの生徒でしかなく、今シーズンやっとAチーム入りし、スペインの国内選手権に出場出来るようになったばかりだ。

 対する二人は世界の『女王エレーナ』と、その女王が育て、自分のチーム設立時にデビューさせた後継者とも言うべき一昨年の世界チャンピオン『皇女アナスタシア』なのだ。愛華からすれば、まさに雲の上の存在だ。当然面識などある筈がない。


「大丈夫か?具合でも悪いのか?」

 呆然と回想をしていた愛華を、エレーナが心配してくれた。


「あ、あの、大丈夫です。はじめまして、です。その、お会いできてこうえいです。えっと、わたしは……女王エレーナ・チェグノワ、、チェグノワ様と皇女アナスタシア・オグロワ……様が」

 愛華はなんとか英語で精いっぱいの敬意を伝えようとしたが、相変わらずの意味不明の挨拶をしていた。

 だいたい名前に『女王』とか『皇女』とかと『様』を重ねるのはどうなんだろ?英語表現として、或いはロシア語に適切な言葉があるかも知れないけど、そこまで語学に堪能じゃない。向こうも「Miss」と「サン」を重ねているから、まあいいんじゃないかな?たぶん。


「最近は女帝と言われてるようだが」

 エレーナと『女帝エカテリーナ』をかけた自虐ネタの一種と思われたが、愛華は歴史がさっぱりだ。緊張する自分に気を使ってくれている気はするが、笑えない。

「『魔女』の間違いでは?」

「……!」

 アナスタシアの上手いつっこみに思わず笑いそうになったが、エレーナの眉が一瞬ピクリとするのを見て寒気を感じる。

「スターシア!あとで話がある」

「お疲れのところ、突然ごめんなさいね。昼間、携帯に電話したんですけど、すでに搭乗されていたようで繋がりませんでした。要件はメールで送信しておいたのですが、まだ読まれていないようですね」

 エレーナの氷点下の視線を軽く流し、話題を変える。さすがは皇女である。


(アナスタシアさんが直接電話?それにメールまで!でも、要件ってなに?わたしの才能を知ってスカウトに来たとか?……って、あるわけないか。そんなマンガみたいな展開)


 愛華はドッキリかも知れないと疑ってみたりした。

 

「まだ公式に発表していないが、我々のチームのシャルロッタがトレーニング中に負傷した」

「シャルロッタ……?って、え〜っ!カルロタさんが怪我したんですか?」

 モトミニモの中でも、今、百年に一人の天才と呼ばれるイタリアの少女カルロタの事だと気づいた。

 エレーナのチームはエレーナ、アナスタシア、カルロタの三人体制だ。シャルロッタはカルロタのロシア風呼び名だとすぐ想像できた。

 カルロタは愛華と同世代ながら、今シーズンからエース扱いで、現在ランキングは二位。体格も愛華と同じくらいなので目標としている一人だ。

「わたし、カルロタさんのこと、いつも応援してたんです!いえ、一番のファンはチェグノワさんなんですけど、カルロタさんを応援する事は、チェグノワさんを応援する事でもあるわけで、カルロタさんは、体の大きさとかもわたしと同じくらいだから、乗り方とかいろいろ参考になるかな?って思って」

 愛華は懸命にエレーナと彼女のチームのファンである事をアピールした。

「あのバカを参考になどするな!バカが感染するぞ」

 冷静で論理的なイメージのエレーナが、非科学的な事を言った。それとも最近、バカウィルスでも発見されたのだろうか?

 バカを参考にするだけで感染するバカウィルス。怖い。なんかあり得そうな気がしてきた。確かに馬鹿な真似する奴はバカだと言うし。


(そう言えばカルロタさんは速いけど目立ちたがりで、たまに勝てたレースをぽかして、ゴール前でウィリーやり過ぎて転倒とかして落とす事があったっけ。以前から頭痛のタネだったのかも)


「トレーニングでモトクロスをするのは、まあいい。しかし何故バックフリップを練習する必要がある!?」


「バックフリップ……って」


「ダブルバックフリップです」

 アナスタシアが訂正した。つまり空中後ろ二回転だ。体操ではない。バイクに乗ってやる。

「すごい……。出来るんですか?」

「逆立ちしたまま着地したそうです」

「だ、大丈夫だったんですか?その、頭打ったり……とか」

「奴の頭が大丈夫の訳がない。いや、打ったからじゃなく、最初から頭は壊れていたぞ、あのバカは!」

「右上腕並びに右鎖骨骨折。あと頸椎捻挫で全治2ヶ月だそうです。幸い脳に異常はありません」

「脳に異常などある筈がない。最初から空っぽなんだからな!」

「壊れてるのでしょうか、空っぽなのでしょうか、どちらなのでしょうね」

 アナスタシアがタイミングよくつっこむ。こういうのを阿吽の呼吸というのだと感心した。

「空っぽで壊れているのだ。いっそ首も折れてれば本人も楽だったろうに」

「あの、首が折れたら死んでしまうんじゃあ?」

 愛華も恐る恐る言ってみた。

「なんなら、私が今からとどめを刺してやってもいい」

「……」

 冗談とわかっていても、氷のような冷徹な眼で言われると寒気がする。冗談ですよね?

 愛華が抱いていたエレーナのイメージとだいぶ違う気がする。


「怪我をしてしまったのは、今さらどうしようもありません。問題はチームとして登録した三台を、私たち二人だけでは走らせられないという事です。登録台数を二戦以上走らせられないと、主催者からペナルティを課せられます。スポンサーに対しても違約金が発生するでしょう」

 アナスタシアはエレーナのお茶目?なジョークを軽くスルーして、話題を本題に戻した。エレーナも瞬時に冷静になり、ずばり要件を言った。

「代役と言うのも不服だろうが、三台目を走らせて欲しい」


 まさかのマンガのような展開だった。


「えっ?代役…って、わたしがですか?不服だなんてとんでもないです。で、でも、だけど、しかし、どうしてわたしなんですか?速い人ならいっぱいいますよね。わたしなんか、全然無名ですし」

「実力あるライダーは既に他のチームで走っている。シーズン途中に引き抜く事も出来ない」

「でも、わたしなんて、まだレース始めて二年にもなってませんから。アカデミーにだって、もっと相応しい人がいっぱいいると思うんですが……。わたしなんかにカルロタさんの代役が務まるとは思えませんし」

 本当に夢のような展開に、かつがれている気がする。実際にあるんだろうか?こんな展開。

「私が初タイトルを獲得したのは、バイクに乗って二年目だった」

「で、でもですね、エレーナさんとわたしじゃ才能がぜんぜん……」

「それに体型的に似ているアイカなら、シャルロッタのマシンをそのままでも合わせ易い。悪い意味で言うのではないが、今さら今年のタイトルを狙ってはいない。エースのシャルロッタがリタイアした以上、来年へ繋げるステップだと考えている。つまりアイカに過大な期待はしていない」

「はあ……」

「それとGPアカデミーで指導スタッフをしている私の友人がアイカを推した。彼女が推薦する以上間違いはないと判断している。日本でのオーディションでアイカを抜擢したドイツ人だ」


 愛華は同期で唯一バイク未経験の合格者だった。最近では各地でジュニアレースが盛んになり、受験者のレベルも高くなっていた。未経験者の合格は三年ぶりだったそうだ。


 バイクメーカーの推す受験者を差し置いて、愛華の才能を高く評価してくれたそのドイツ人の女性スタッフは、アカデミー入学後も(いち)から指導してくれた。感謝もしているが、特別に厳しくもされており、未だに苦手でもある。現役時代エレーナのチームメイトだった事があるのは知っていたが、これほどの信頼関係があるとは思っていなかった。


 夢なのか、ドッキリなのか、それとも現実なのかもわからないまま、愛華は二人に連れられてホテルに向かった。とりあえず、シャワーとまっさらなシーツで休み、落ちついて判断するよう薦めらた。確かに突拍子すぎて、状況を整理する時間が必要だった。

 ここまで来るとさすがにドッキリではないと確信は出来る。ならば当然愛華に断る理由はない。


 GPを走れる。それも憧れのエレーナさんのチームで……。まるで夢のような話だ。

 今はただ、朝、目が覚めたら「あれは夢だった」というオチでない事を祈るだけだった。


 

 

 


「明日、我々もツェツィーリヤに飛ぶ」

 シャワーを終えたエレーナがバスローブを羽織りながら、鏡台で美しい金髪を梳いていたアナスタシアに向かって言った。


 ツェツィーリヤとは、チームの本拠地であり、彼女たちの乗るバイクメーカー、スミホーイの工場があるロシアの地方都市だ。スミホーイは元々ソ連の国営公社で、ロシア全土でトラクターから航空機まで生産する重工業企業である。その中でもツェツィーリヤの工場は、レーシングバイクの開発製造などはほんの一部であり、戦闘機やミサイルなどの特に機密性の高いハイテク軍需産業が主要である。

 旧ソ連時代には、地図にも記載されておらず、住民は全て国営公社の関係者とその家族であり、外国人はおろか、国民すら街に立ち入る事が厳しく制限されていた。


 そこの広大な滑走路で、エレーナはバイクの走らせ方を学んだ。毎日何時間も走らされた。何度も転倒し、体中痣だらけになった。ライダーの安全性よりも軽さと動き易さを優先に作られた当時の粗悪な皮ツナギは気休めでしかならない。その上、未完成のエンジンはよく突然焼き付き、超大型輸送機の離着陸にも耐える堅いコンクリートの路面に投げ出され、何十メートルも滑り若い肌を削られた。

 

 

「アイカさんも連れていくのですね」

「当たり前だ。ドイツGPまで三週間しかない」

「久しぶりにお気に入りのようですね?」

 アナスタシアが鏡越しにエレーナを伺った。

「気に入った。これほど高揚するのはスターシアを見つけた時以来だ」

「確かに彼女には可能性はあるようです。歩く姿を見ただけでも運動神経の高さを感じさせます。でも走りも見ないで決めてもよろしいんですか?」

「不満か?」

「少し妬けます」

 アナスタシアが立ち上がり、ベットに向かうのを背中に感じる。エレーナは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に飲み干して振り返った。

「スターシア、こういう大人のドラマを演じたいなら、その猫みたいな縫いぐるみを抱かないと寝られない習慣を治せ。私が男なら叩き捨ててるぞ」

 アナスタシアは『カティちゃん』の縫いぐるみを庇うように抱きしめて、『カティちゃん』に話し掛ける。

「エレーナさんはこわいですねぇ。大丈夫ですよぉ、カティちゃんを捨てるような乱暴な男の人とはベットをともにしませんからね」


「……」


 まるで子供だ。幼い頃から英才教育を受けた一流のアスリートの中には、その華々しさとは裏腹に、病的とも言える幼児性が診られるケースが稀にある。

 だが、アナスタシアの場合それにあたるのかは不明だ。男を受けつけない理由はわかっていたが、それについては敢えて触れないでいた。


 時にエレーナより冷静で、才能と知性と美貌を兼ね備えていながら、言い寄る男をすべてふって、同性愛者との噂もあるアナスタシアの裏の顔が、猫の縫いぐるみ大好きっ子というのは格好がつかない。世間に知られたらチームのスポンサーがかなり減るんじゃないかと心配になる。男についてはともかく、縫いぐるみを抱かないと寝られない習慣だけは、なんとかして欲しかった。


「でも、どうしてアイカさんなんです?彼女も疑問に感じていたようですけど、現時点で彼女より速い人材は、他にもいると思いますけど」

 カティちゃんを抱いたまま、真面目な会話に戻った。

「アカデミーの友人が言っていた。最近の生徒は小さな頃からバイクに親しんでいてレベルも高い。だがそれだけに小手先の技術に頼り、誤魔化しも上手い。そういう小手先のテクニックは、GPの世界で揉まれれば、すぐにメッキが剥がれる。スターシアも感じているだろ。鳴り物入りでデビューしても、すぐ消えていく連中の多い事を。それに半端なテクニックを身につけたライダーより、理想通りに研ける」

「彼女はダイヤの原石だと?」

「そうだ」

「少し妬けます」

「それはもういい!」

「私が嫉妬しているのは、神に愛されたアイカさんの才能にです。私より可愛いうえ、才能にも恵まれているなんて……」

 アナスタシアは澄んだ瞳を潤ませエレーナを見つめた。その瞳に見つめられて、どきりとしない者はいない。男だけでなく、女であっても固まってしまう美しさだ。

「いや、スターシアの才能が劣っている事はない。容姿はスターシアの方が断然、美しい」

「エレーナさん……」

「……」

 アナスタシアのレズ疑惑の噂を思い出して、気まずくなった。しかし彼女の言葉は、エレーナの不安の斜め下に行っていた。

「私の容姿など、どうでもいいのです。私はカティちゃんだけでなく、可愛いもの全般が大好きなのです。アイカさんには“カワイイ”で“モエ”を感じるのです。私は“デレ”になってしまうんです!」


 オタク言語のまったく理解出来ないエレーナには、スターシアの言ってる意味がまるでわからなかった。


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