帰国
愛華は、昨年のクリスマスに帰国した時と同じように、ツェツィーリアから極東の基地まで物資を運ぶ輸送機に乗せてもらった。
まるで体育館に翼をつけて空を飛んでるような巨大な輸送機は、乗り心地も機内サービスも、快適な空の旅とは言えるものではなかったが(乗客を乗せるようにはアントノフは作られてなかった。もっとも航空ファンが聞いたら、羨ましくて涎を溢すだろう)、ロシア極東ウラジオストックの空港からは民間機で、日本の中部国際空港に至るルートは、愛華が帰国するのをチェックしていた連中も予想しておらず、日本GPの時のような騒ぎに煩わされずに済んだ。
出迎えたのは祖父母だけだ。
愛華のレースは怖くて見られないという二人は、日本GPにも来てくれなかった。心配させて申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、ほぼ一年ぶりの再会に思わず抱きついて喜んだ。
二人も可愛い孫の帰国を歓んでくれたが、おじいちゃんは人前で抱きつかれるのが少し恥ずかしそうに、日本と外国の愛情表現の差と孫の成長を感じているようだった。
「帰国の報告はあとでゆっくりとしてもらうとして、とりあえずここを離れましょう」
出迎えは他にもいた。愛華が声のした方へと振り向くと、今回、学校に戻る事になった重要な鍵を握ると思われる人物、亜理沙ちゃんがそこにいた。
「亜理沙ちゃん先生、おかえりなさい!」
「おかえりなさいはこちらのセリフです」
「あっ、ただいまです!ってそれはいいんですけど、わたし、亜理沙ちゃんに訊きたいこといっぱいあるんですけど!」
「コレ、愛華。先生に向かって亜理沙ちゃんって言う事があるか。いくら外国で暮らしが長くても、日本人なら日本の礼儀を守りなさい」
おじいちゃんが愛華に注意する。研究職だった祖父は、海外に何度も行った事があったが、若い頃から武道もやっており、日本の礼節をいつも大切にしていた。孫の愛華が真剣にやりたいと言う事は、体操もバイクレースも心配しながらもなにも言わずやらせてくれたけど、目上の者に対する礼節だけは厳しくしつけてきた。愛華も外国に行っても、いつもそれを心がけてきた。そのおかげでチームでも可愛がられている。
ただ、亜理沙ちゃんにだけは、直接教わっていないということもあって、どうしても友だちみたいに接してしまう。これは愛華ばかりの責任ではないだろう。
「お祖父様、あまり叱らないであげてください。愛華さんも久しぶりの日本語なので、少し混乱しているのでしょう」
亜理沙は、祖父母たちには教師としての顔を取り繕いながら、愛華の耳元に小声で囁く。
「私は構わないんだけど、おじいちゃんの前では、ちゃんと敬語で話しなさい」
学校でも、他の先生の前では威厳あるところを強調していた亜理沙ちゃんの人柄は変わっていない。不安でいっぱいだった復学だけど、少し安心する。
「それで山崎先生、わたしが白百合を卒業って、いったいどうなってるんですか?」
「だから詳しくは車の中で話すから。いい?愛華さん、あなたは今や有名人なんですよ。こんなところにいつまでも居たら、大変な騒ぎになってしまいます」
愛華にそのつもりはなかったが、日本GPの時の騒ぎを思い出すと、確かに亜理沙ちゃんの言う通りかも知れない。
「もしかして、同じ車で来たのですか?」
一緒に駐車場に向かいながら愛華は尋ねた。
「おじいさんの運転、最近危なくてね。ものすごい契約した愛華に、もしもの事でもあったら大変」
おばあちゃんが一緒に乗せて来てもらったことを話した。おじいちゃんは少し機嫌が悪そうな顔をしている。思えば二人ともかなりの高齢だ。心配ばかりかけてることを思うと本当に申し訳ない。
でも、ということは、亜理沙ちゃんの運転?それもかなり心配だ。
「運転は私がさせてもらいます」
「えっ?」
背後からすっと姿を現したのは、アメリカでお世話になって、日本GPの時も愛華たちの身辺警護をしてくれたルーシーさんだった。相変わらずの雌豹のような引き締まった身体を、完璧なスーツ姿に包んでいる。
「わっ、ルーシーさん!いつからいたんですか?」
「先ほどからずっとお側におりましたが」
全然気づかなかった。やはり只者ではない。
「だけど、どうしてここに?」
「アイカさんが日本にいる間の安全を確保するためです。毎日学校への送り迎えもさせていただきます」
学校への送り迎えって、いくらなんでも大袈裟すぎる。中等部の頃にも、車で送り迎えしてもらってる生徒はいたけど、病気とかで公共交通機関では不自由な人がほとんどだった。スーパーセレブなお嬢様は、せいぜい一人か二人くらいだったと思う。
送り迎え付きのお嬢様というのは、昔はけっこういたらしいけど、今は大抵、普通に電車やバスで通学してる。
それほど飛び抜けたお金持ちが少なくなったのと、却って目立つのが恥ずかしいこと、それにお嬢様も干渉を嫌うようになったなどの理由で、送り迎えってのはほとんど見かけない。今は家が遠くても学院寮に入る子なんかも少なくなったという。いくつかあった寮も、確か今は一つしか使われていない。
「べつに中等部の時も、自転車と電車で通っていたんで、送り迎えとかいいですから!」
少しくらい契約金が多くなったって、本当のお金持ちを見てきた愛華には、自分なんかが送り迎えつきとは恥ずかしすぎる。しかも、こんなカッコいい運転手なんて……
「これは契約条項です」
ルーシーさんは事務的に答えた。
ちょっと待って。日本に戻るように言われてから何度も契約書を読み直したけど、プライベートまでボディーガードつけろとは、何処にも書かれていなかったはず。
「これはストロベリーナイツと白百合女学院の間に交わされた条件です。アイカさんが拒む事は出来ません」
「なんですか、それ!?わたしのことなのにわたしは関係ないって、そんなのルーシーさんだって認められません!」
おそらくルーシーさんも与えられた指示に従っているだけだろうし、自分の安全のために来てくれたのはわかる。ルーシーさんがそばにいたら迷惑という訳でもない。だけど契約書をよく読まなくて日本に戻ることになったんだから、今度はよぉ~く読んできたのに、契約書に書いてなかったことまで強いられるのは、ちょっと納得いかない。
「『安全が確保出来ない場合、及び混乱をもたらす恐れのある場合、プライベートであっても行動は制限される』という意味の内容が書かれていたはずですが?」
愛華が声を荒げても、ルーシーはまったく動じず、淡々と事務的に答えた。
「そんなの卑怯です!べつにわたしに危険なんてないし、どうして混乱をもたらすって言うんですか!」
愛華も意地になっていた。ちゃんと契約書を読んでることを、エレーナさんにも理解してもらうまでは譲れない。
「愛華ちゃん、ルーシーさんを困らせるなんて、あなたらしくないですよ」
亜理沙ちゃんが口を挟んだ。
「だって、わたしが学校に行くのに、なにが危険なんですか?そりゃあ絶対に安全かって言われたら、事故とかあるかも知れませんけど、レースなんてもっと危険だし、ルーシーさんの車に乗ってたって、事故にあうかも知れないじゃないですか」
祖父母に心配させたくないから、レースが危険だとイメージさせないように注意していた愛華だったが、思わずレースの方が危険と言ってしまった。
近年はレースの安全性も高められており、一般的なイメージより危険性は少なくなったのは事実だが、高校生が自転車と電車で通学するより安全ということはないだろう。確かにコース上では車と衝突したり、痴漢にあう事もないのだから、安全と言えば安全なのだが……。
愛華は言ってしまったことに気づいて、自分でも意地になって、つい熱くなってしまったと思った。愛華はまだ十代の少女だ。感情的になってしまうこともある。それほど今回の一件は、愛華にとって納得できない部分があった。亜理沙もそれは理解していた。彼女が高校生の頃は、もっとまわりが見えなかった。
「愛華ちゃん、これは学校からの要請でもあるのです。日本GPの時のファンの熱狂ぶりは憶えているでしょう。あなたが毎日電車で通っていたら、どうなると思います?」
亜理沙は、愛華が理性的に考えられるように説得した。
「あなたが復学する事は公表されてませんが、すぐに誰か気づくでしょう。毎日同じ電車に乗っていれば、あっという間に噂は拡散して、学校までの車内も駅も、おそらく学校のまわりもカメラを持ったファンでいっぱいになるでしょうね。そんな事態になったら、他の生徒にも迷惑かかるのは、わかりますよね」
以前、アイドルグループに入った女の子が通う学校に、ファンが押し掛けて大変な事になったと聞いたことがある。まさかそこまでなるとは思えないが、日本GPの時の騒ぎを思い出すと、あながち否定できない。
「やっぱりわたし……学校なんて行かないほうが……」
高等部なんて最初から行ってなかったのに、なんだか訳のわからない力を使って卒業間近に無理矢理復学して、他の生徒や学校に迷惑かけるぐらいなら、契約違反になっても戻らない方がいいように思えてきた。
落ち込みそうな愛華に、亜理沙ちゃんは友だちのように手を握って話しかけた。
「学校内は関係者以外立ち入り禁止だから、ルーシーさんの車で送ってもらえば全然問題ありませんよ。息苦しいでしょうけど、それくらいがまんしてね。あなたの友だちも、楽しみに待っているんですから」
由緒正しきご令嬢が多く通う白百合女学院は、警備もしっかりしている。ファンやマスコミが学内まで入り込むことはないだろう。それよりも“友だちが待っている”と聞いて、愛華の顔がほころんだ。
智佳や紗季、茂木には来られなかった美穂やほかの友だちにも逢いたい!落ち着いて、いっぱいお話ししたい。
短い期間だけど、おじいちゃんとおばあちゃんにも、いっぱい孝行したいから、寮には入りたくない……。
亜理沙ちゃんもルーシーさんも、きっとエレーナさんも、他にもいろんな人がわたしのために動いてくれてる。
誰が思いついたか知らないけど、みんな、わたしに普通の高校生らしい思い出を作ってくれようとしているんだ。
小さなことに意地張ってた自分が恥ずかしくなる。
「ワガママ言ってすみませんでした。ルーシーさん、よろしくお願いします」
あやまちに気づいたら、すぐに反省できる素直なところは、愛華の最大の武器なのかも知れない。
「だあっ」
ルーシーさんが、変な発音のロシア語で答えてくれた。




