最終幕は、あがった
プレッシャーとは、リードされている側よりも、している側の方がより重く圧し掛かる場合がある。
追う側は、もうあとのない状況が逆に、攻めるしかないと開き直った心理状態で挑める。
追われる側は、勝って当然、リードを保たねばという呪縛に囚われ、自らの身動きを制限してしまうパターンに陥りやすい。
ブルーストライプスのチーム監督アレクセイは、シャルロッタが攻めに特化したしたライダーだけに、守勢にまわれば脆さが露呈するとは予見していたが、これほど上手くいくとは思っていなかった。
日本GPでのノーポイント、加えてエレーナの負傷。ライバルの怪我を喜ぶのは不謹慎ではあるが、この世界に怪我は付き物だ。同情されることは、エレーナも望んでいまい。
シャルロッタの抱えるバイクの不調もそうだ。新しく導入された使用台数制限のレギュレーションを知りながら、これまで無駄にエンジンを消耗させてきたシャルロッタ自身の責任だ。それを突くのは、何ら卑怯なことではない。
ラニーニはよく耐えてくれた。神に縋りたくなるような状況の中、じっと耐えて機会を待った。
アレクセイはライダー選考に際して、ライディングテクニックや性格、主要な実績だけでなく、その生い立ちまで遡って調べる。世に出てからの実績や評価だけでは、ライダーの潜在能力は測れないというのが、彼の持論だった。
ラニーニの場合、現在活躍する多くのライダーと違い、決して恵まれた環境でレースを始めていない。
バイクレース好きだったとはいえ、所得が高いとは言えない父親と兄の身を削るようなサポートで、ジュリエッタのスカラシップを受けられるまで這い上がってきた。バレンティーナに可愛がられたのも、ラニーニがおとなしく、命令には従順に従ったからだろう。
しかし、おとなしいからといって、根性がないとは限らない。従順なのは、言われれば必ずやり遂げようとする芯の強さともいえる。
幹部たちから反対もあったが、ラニーニのエース抜擢は間違っていなかった。ポイント上はリードされているが、やっと攻撃が回ってきた。
レースの主導権は自分たちにある。シャルロッタのバイクが、どの程度の状態かは不明だが、本来のポテンシャルを発揮できていないのは間違いない。積極的にレースを引っ張れば必ず逆転出来ると、アレクセイはチームのライダーたちにも言い聞かせていた。
アレクセイの目論見が揺らいだのは、決勝当日の午前中のウォーミングアップ走行からだ。
シャルロッタは前日までと同様、軽く流しただけですぐにピットに入った。アレクセイの目からも、エンジンを庇っているのは明白だ。
しかし、アシストを務めるスターシアが、予選で出したシャルロッタのコースレコードには及ばないものの、バレンティーナのスーパーラップに迫るタイムを記録した。しかもそのペースで5周以上走り続けたのだ。
条件が違うとはいえ、他のライダーが軒並み予選より遅いタイムの中で、一人抜きん出ていた。当日のフリー走行は、最終的なマシンとライディングの確認のために、どのライダーもわりと本気で走る。その中でこれだけの差を見せつけられると、スターシアが優勝を狙っている可能性を嫌でも意識させた。
アレクセイも考えていなかった訳ではない。ラニーニが二位に終わった場合、シャルロッタは8位でもチャンピオンを獲得出来る。
一番恐れていたのは、バレンティーナとヤマダのパワーだった。バレンティーナをシャルロッタにぶつければ、潰し合ってくれる可能性もあったが、彼女がラニーニの前でゴールするリスクもあった。その可能性は、ヤマダのレギュレーション違反で消えた。
エレーナを欠いたストロベリーナイツには、その作戦には出られない筈だ。エースシャルロッタを単独にすることは出来ない筈、最低でもどちらか一人は、彼女をサポートしなければならない筈だ。
愛華一人で、ブルーストライプスの四人を相手にするには無理がある。
スターシアは、前戦日本GPで単独でバレンティーナを追いつめ優勝しているが、相手もタイヤトラブルを抱えていた上、レース全般スローペースだった。ハイペースでレースが進めば、スターシアの燃費では終盤危うくなる。
エレーナがそんな賭けをする筈がない、ハッタリだ。
もし、スターシアが走りきれれば?
いや、ハッタリに決まってる!そんなブラフに頼らなければならないほどシャルロッタは追いつめられているということだ。こちらにとっては、有利な材料でしかない……。はたしてエレーナがそんな見え透いたブラフを咬ますだろうか……?
落ちつけ、私に迷いがあっては、ラニーニたちが動揺する。
そもそも、どんなに問題があっても、シャルロッタが他人に運命を預けるなど、ある筈がない。
たとえスターシアが割り込んで来ても、ハンナが上手く処理してくれる。大切なのはその場での明確な決断だ。
スターシアが勝ちに行くという可能性は低いと見積りながらも、相手の出方次第では、自分たちのペースも変化させる必要が出てきた。
スターターが後輪に押し当てられ、リアタイヤが回転すると同時にエンジンがけたたましく吠える。同じように横や後ろからも、かん高い咆哮があがる。
メカニックたちが、スターターを引いてグリッドから離れて行く。
ラニーニは、グリッド最前列一番端からゆっくりとジュリエッタを発進させた。フォーメーションラップでコースを一周すれば、いよいよすべてが決まるシーズン最後のレースが始まる。前を行く三台のスミホーイのあとに続く。
シャルロッタさん、スターシアさん、アイカちゃん……
エレーナがいなくとも、Motoミニモ最強のチームに変わりない。
自分がそのチームのエース、シャルロッタとタイトルを争っていることが、まるで夢の中にいるような気がする。
シャルロッタさんが一番速いのはわかっている。自分が勝てたレースは、シャルロッタさんが調子悪かった時だけ。
最後まで争っていられるのも、シャルロッタさんの波が激しかったからに過ぎない。
アレクセイ監督は、わたしが諦めなかったからだって言ったけど、諦めるも何も、最初から対抗してるつもりもなかった。それくらいシャルロッタさんとの差は大きいと自覚していた。
ただ、一戦一戦、一生懸命走ってきただけ。気がついたらここにいる……。
本当にチャンピオンに相応しいのは、シャルロッタさんかも知れない。でも、ここまできたんだから、絶対にチャンピオンになりたい!
こんなわたしをエースに抜擢してくれたアレクセイ監督のために、
献身的に尽くしてくれるハンナさん、リンダさん、ナオミさん、大勢のチームスタッフの人たちのために、
応援してくれる沢山のジュリエッタファンのために、
そして、世界に送り出してくれた家族のために!
シャルロッタのバイクは、エンジンに問題を抱えているという。
彼女はいつもの挑発するような仕草を見せない。それでいて、悟りきったというか、闘志を内に秘めているようにも見える。それが却ってラニーニを威圧する。
更にいつもと違うのは、スターシアから溢れてくるやる気だ。いつもの憧れるような清々しさでなく、早く跳び出したくて堪らないように急に加速したり減速したりを繰り返し、タイヤを路面に馴染ませている。
ラニーニは、こんなにやる気になってるスターシアを見たことがなかった。普段の優しい人柄と芸術的とも言える美しいライディングは、ラニーニの憧れでもあったが、もう一つの顔も何度も見てきた。それでもこれほど剥き出しのやる気を見るのは、初めてだった。
わざとらしい気もするけど、まだ自分の知らない顔を見せつけられる恐さも感じる。
ハンナさんは気にしないように言ったけど、震えるほど怖い。
あっという間にフォーメンションラップを終えて、正規のスターティンググリッドにマシンを停めた。
斜め横で、愛華がいつも通りヘルメットを両手でパンと叩いて気合いを入れると、タンクに伏せるのが見えた。
旗を持ったオフィシャルが退く。
シグナルツリーのランプが順に消え始める。
右手が反射的にエンジンの回転を上昇させる。
ラニーニの頭に、唐突に昨日、愛華と交わした言葉が浮かんだ。
『明日、思いきり走ろうね』
……!
何かを思いつきかけたが、36台のマシンがあげる唸り声が一層大きくなり、思考はスタートの瞬間へと切り替わった。
ランプがすべて消えると同時に、ラニーニはクラッチを繋いだ。
「もう思いきり走るだけ!」




