ライディングの極意
バレンシアGP直前、エレーナが欠場する事が本人から公表された。
チーム内には、既に伝えられていたし、多くの関係者は予想していたが、実際に、しかも本人の口から公式に発表されると、愛華などは改めてエレーナのいないレースの心細さを感じた。
最近では、レース後半におけるシャルロッタのアシスト役を愛華が受け持つというのがチームの勝ちパターンになっていたので、スターシアさんもいるし、それなりにやる気になってはいた。しかし、やはり最初からエレーナがいないレースというのはなんとも心細い。「もしかしてエレーナさんなら」と何処かで期待する気持ちがあったのは否めない。エレーナ自身、事故直後はチーム内で出場しないと宣言したものの、諦めきれていなかったようだ。
骨折自体は、ボルトで固定されており、無理すればバイクに乗れるくらいは回復している。しかし永年酷使してきたエレーナの身体は、骨折以外にも全身傷ついていた。肩や腕の古傷も痛めたらしいが、やはり負傷した右脚膝の靭帯が、相当に酷い状態だとわかった。
今の状態でもう一度ダメージを受ければ、まともに歩けなくなるだろうと医師から言われた。
膝関節を支えている十字靭帯が、その機能を果たせない状態で、再び無理な力が加われば膝が完全に壊れかねないという。そうなってしまうと、終生歩行に支障をきたすだけでなく、膝を曲げる事も困難になると脅された。
これに対してエレーナは、「レースを始めた時点からまともな体で引退出来ないのは覚悟している。健康な身体であっても、一度のアクシデントで車椅子生活になる事もある世界で戦ってきたのだ」と反論したが、スターシアがフレデリカの件を持ち出して説得すると黙るしかなかった。
右足はマシンを安定させる為には欠かせないリアブレーキを操作するパートだ。自分だけでなく、他者を巻き込むおそれのある状態で走る事は許されない。ハンドブレーキ仕様にするという方法もあるが、さすがにエレーナでも、短期間でシャルロッタのスピードについて行くまでに慣れるのは、難しい事を本人もよくわかっていた。
因みにこの時、エレーナが「動かない脚なら切り落とし、ライディングポジションに合わせた義足を作ってもらう」と言ったという話は、まったくのデマだ。スターシアとニコライがエレーナの様子について話していた会話を耳にした日本人記者が、ロシア語を誤訳して仲間の記者に伝えた上に、尾ひれ背ひれが付き、瞬く間に広まってしまったものである。
ただこれも、いかにもエレーナなら言いそうなので多くの人は信じてしまったという、女王エレーナの人柄を語るエピソードといえるだろう。
そしてエレーナが出走しない最終戦、バレンシアGPが幕を開けた。
初日のフリー走行から気合いの入った走りでトップタイムをマークしたのは、ヤマダのバレンティーナ。あまりに気合い入れ過ぎて決勝までもたないのでは、と揶揄されたが、彼女は下手な駆け引きより、最初から全力で速さを見せつけることで調子に乗ろうとした。
日本GPのサバイバルレースに生き残り、トップを独走しながらもゴール目前でスターシアに優勝を奪われたのは、レース終盤、タイヤの消耗を考えて守りに入ったからだ。
本来の彼女は、シャルロッタ同様、攻めの走りが信条の、調子に乗れば乗るほど実力を発揮するタイプだ。終盤タイヤがダレたとしても、攻めのスタイルを続けていれば、スターシアとて簡単に追いつけなかったはずだと思っている。
言い訳は口にしなかった。実戦で証明するしかないのを知っている。
失うもののないシーズン最後のレース、思い切り暴れるつもりでいた。
同じヤマダの琴音も初日二番手タイムを記録している。地元日本での惨敗に、雪辱を果たしたいヤマダの意気込みと、フレデリカの出場停止で四戦連続出場となった琴音のこのままレギュラーシートを手に入れようとする静かな闘志は、最終戦でもタイトルの行方を左右する台風の目になる予感が漂っていた。
バレンティーナと対象的に、ゆっくりと走り出し、ジワジワとタイムを詰めてきたのが、ランキング二位のラニーニ。
逆転タイトルに賭けるブルーストライプスは、チームメイトも万全の体制で挑んでおり、フリー走行セクションからラニーニと合わせた走りを見せ、ナオミ、ハンナ、リンダもラニーニに続く好タイムをマークする。
最も人々の関心を集めたのは、シャルロッタが初日、平凡なタイムに終わった事だろう。最速タイムを出しても平凡なタイムであっても注目を浴びるのは、彼女の宿命だろうか。
タイトルへのプレッシャーとか、エレーナ欠場の影響かと心配されたが、そのエレーナは、シャルロッタのスローな走り出しを、いい方向への変化と感心していた。
シャルロッタは、走行時間内に何度もピットインを繰り返した。マシンのセッティングが合わず、不満を訴えっていたのではなく、少しでも速く走れるようにセッティングを詰めるという地味な作業をしていたのだ。なんとあのシャルロッタが!である。おまけにスターシアにコース取りについて尋ねたりまでしていた。
「シャルロッタさん、どうしちゃったんでしょうか?」
フリー走行終了後、これまでと違うシャルロッタを心配した愛華は、松葉杖で体を支えて見守っていたエレーナに訊ねた。
「ようやく『チャンピオンになる』という自覚に目覚めたと信じよう」
「どういうことですか?」
「チャンピオンには、速く走れるだけではなれないという事だ」
愛華には今いちピンとこない。「速く走れるだけではなれない」というのはわかるのだが、シャルロッタのフリー走行の様子と結びつかない。
そりゃあビシッとセッティングを追い込めば、より速く走れる可能性はあるけど、今のシャルロッタさんに必要なのは、以前の調子を取り戻すことの方が大切な気がする。なんとなくシャルロッタさんは、タイトルを意識し過ぎているように思えるんだけど……。
愛華は腑に落ちない様子でエレーナを見つめた。
納得いかない眼差しを愛華から向けられるのは、エレーナにとって不快ではない。反抗的でなく、わからない事をわからないと疑問に思う素直さは、自尊心の強いGPライダーの中にあって、貴重な資質だ。
エレーナは休憩用のテーブルとリクライニングチェアをみつけると、愛華にも促すように顔を向けた。
愛華がエレーナのコーヒーと自分用のスポーツドリンクを持ってエレーナの隣の椅子に腰をおろすとすぐに、エレーナは話し始めた。
「確かにシャルロッタは、細かなセッティングに拘らずとも、本気になれば此所にいる誰よりも速く走れるだろう。今のシャルロッタには、全盛期の私でもスピードでは勝てる自信がない。だが、タイトルを争う相手としては、負ける気がしない」
それは愛華も同意見だ。もちろん自分が勝てるとは思わないが、エレーナさんなら瞬発的な速さで勝てなくても、タイトルをもぎ獲ってしまうと思う。たぶん今でも。
「それはメンタルの脆さを突くってことですよね。だったら尚更心配です。最近のシャルロッタさん、ふつうじゃないですから」
いつもの魔力だの魔王だの言ってるシャルロッタなら、精神に問題あっても、おそらくプレッシャーとは無縁だったはずだ。しかし、現実のタイトルを目の前にした日本で、意外なプレッシャーへの脆さが露呈した。
たとえ応急措置であっても、以前の中二病シャルロッタに戻ってもらうのが一番効果的な方法に思える。しかしエレーナは、違う見方をしていた。
「いつものシャルロッタなら大丈夫だと考えるなら甘いぞ。以前のあいつがプレッシャーに強かったのではない。重さに気づいていなかっただけだ。しかしもう気づいてしまった。元通りには戻れないだろう」
「もしかしてハンナさんたちは、それを待っていたのでしょうか?」
愛華は一瞬、ブルーストライプスのアレクセイ監督やハンナさんが仕掛けたかも?と頭をよぎったが、すぐに打ち消した。GPの厳しさはわかっているつもりだが、ラニーニやナオミを含めて、彼女たちからプレッシャーを煽るような言動は、愛華の知る限り一切なかった。
「私が向こうの立場なら、当然待ってただろうな。サマーブレーク明けからのおまえとシャルロッタのコンビは、まともに競争しては勝てると思えないほど波に乗っていた。それでもジタバタせず、着実にポイントを重ねてきたのは敵ながらあっぱれだ。リードしていたのに追い上げられ、逆転されると普通は焦る。なんとか流れを変えようと仕様を変更したマシンの投入や無理なライダーの役割変更をしてみたくなる。そして大抵は裏目に出る」
球技などでいう代打や選手交代、ポジションチェンジみたいなものだ。サッカーなどでも、負けてるチームが流れを変えようとしても、上手くいくケースは稀だ。そもそも最強の選手を温存してたならともかく、ベストな体制で挑んでいるのだから、補欠を投入しても覆せないのは当然だろう。
「アレクセイは昨年、メーカーからの意見に圧され、未完成のマシンを投入して私たちに負けた。今回は同じ轍を踏まなかったわけだ。ハンナもチャンピオンシップを熟知している。それより感心するのは、追い込まれながらも常に上位入賞を果たし、ここまで粘ったラニーニのメンタルの強さだな」
圧力を掛けていたのは、むしろ愛華たちの側だったといえる。シャルロッタに比べると才能でも華やかさでも控えめなラニーニだが、それだけにメンタルの強さでは上回っていたことになる。
最近はマスコミにもてはやされてはいるが、どちらかと言えば愛華も同じタイプであり、シャルロッタのアシストという立場がなければ応援したくなってしまう。
もしラニーニちゃんがチャンピオンになったら、これまでのチャンピオンのエレーナさんやスターシアさん、ケリーさんとかバレンティーナさんみたいな凄い人ばかりでなく、とび抜けた才能がなくても、一生懸命なライダーの時代が来るかも?
ふと考えて、喜んでる場合じゃない!わたしはシャルロッタさんのチームメイトなんだと気を引き締めた。
だから絶対にシャルロッタさんをチャンピオンにする!
それにしても、ラニーニちゃんが強いのはわかったけど、シャルロッタさんがこのままでいいのがわからない。
「えっと、でもハンナさんたちの狙い通りに運んでいるんですよね?そりゃあシャルロッタさんがきちんとセッティング詰めてるのは大進歩かも知れませんけど、勝つことに意識し過ぎているんじゃないでしょうか」
愛華の問いに、エレーナは不自由な脚をそばに置いてあった段ボール箱に上に載せて微笑んだ。
おそらくチャンピオンなど意識したことのないアイカにはまだわからないだろう。ほとんどの者は、意識していてもその状況に置かれて初めて感じる重圧だ。だがアイカは頭のいい子だ。いずれ感じるであろうプレッシャーに、今から備えておくのも無駄ではないだろう。
「仮に能天気なシャルロッタに戻ったとしたら、それはそれで向こうからすれば、もっと容易い相手になる。面倒な私がいないことだし、いくらでもつけ入る隙がある。アイカやスターシアを信用していない訳ではないが、アイカでは経験が足りないし、スターシアは相手の裏をかくような心理戦に向いていない。反対にアレクセイもハンナも、こういった瀬戸際のレースを何度もくぐり抜けて来た。ラニーニは臆することなく、彼らの期待に応えるだろう。やつらだけではない。ヤマダの連中も、最後の一戦にすべてを賭けている。こういった相手に、少しばかり速く走れるからと舐めていると、足元を掬われる。一瞬のミスも見逃してくれない相手だ」
愛華はぞっとした。頭ではわかっていたことだが、実際にシーズン最後の、タイトルの懸かったレースを前にして、ものすごい人たちを相手にしてるんだと実感する。
シャルロッタさんだってミスをする。どちらかと言えば、よくミスをする。でも今回は絶対にミスの許されないレース。優勝できなくても、二位か三位なら決まりだけど、甘えを見せたら必ずつけ込まれる。シャルロッタさんもそれがわかっているから、たぶん人生で初めて、自分を限界まで追い込んでいるんだ……。
「そのままでも意外とあっさり決着がつく場合もある。過去には幸運に恵まれたチャンピオンもいた。だが真のチャンピオンと呼ばれるには、越えなければならない壁だ。『速く走れる』と『速く走る』は似て否なるものだ。わかるか?」
エレーナは少し格好つけて、哲学っぽく言ってみた。素直な愛華は感動して、ますます私を尊敬するだろうと。
「シャルロッタさんは今、自分から速く走ろうとしてるんですね。わたし、速く走れるようになりたい!ってずっと思ってきましたけど、極意は『走るにあって、走れるに非ず』ですか……。これがスターシアさんも言ってた単車道なんですね。なんだかとっても深いなぁ……わたしなんかまだまだです」
深いのは愛華の解釈だった。単車道ってなんだ?日本人は皆禅の修業でもしているのか?それとも愛華もオタクになったのか?スターシアのやつ何を教えた!?
そもそも愛華の走れるとシャルロッタの走れるは、意味が随分違う気がする。これからはあまり格好つけた言い方はやめようとエレーナは思った。オタク的発想を補強するのは避けたい。




