スタート
スターシアと並んでホームストレートに戻ってきたシャルロッタは、ゆっくりと第1コーナーに一番近いスターティンググリッドへと近づいていく。
路面に描かれた区枠いっぱいを狙って、フロントブレーキを強く握る。フロントフォークが沈み、タイヤはぴったりの位置で止まった。
縮んだフォークが戻らないように、ブレーキレバーを人指しと中指で強く握りながら、他の指でスロットルを煽る。
後続のグリッドも、次々に埋まっていき、正面でフラッグを掲げていた競技委員が、足早にピットウォールの中へと消えていく。
一つ、二つと、赤いシグナルが点灯していく。すべてのマシンのエンジン音が一際高くなる。
シャルロッタも、最も力強く馬力の沸き上がる回転域を保持し、クラッチレバーを僅かに弛める。
クランクとミッションを繋ぐフリクションプレートが僅かに動いて、ギアに力が伝わる。チェーンが引っ張られ、ブレーキで動かないバイクのリアサスを伸ばした。
まるで猫科の動物が、獲物を狙って身構えるように、頭を低くして、グッと尻を持ち上げる。タイムラグなく飛び出す構えを整えた。
点灯した五つのランプすべてが消えた。
ブレーキレバーを握っていた二本の指をパッと放すと同時に、左手は素早く克つ繊細にレバーを弛めていく。縮められていたフロントフォークは、上にではなく、前へとタイヤを押し出す。
超高回転域では、250ccクラスの市販車を軽く上回るパワーを絞り出す80ccレーサーだが、有効なパワーバンドは極端に狭く、停止状態から動き始めるためのギアは組み込まれていない。スタートでは、回転を落とさないまま走り出すために、他のクラスより長く半クラッチ状態を維持しなくてはならない。
体重が軽く、スタートが得意だと自負する愛華も、シャルロッタの繊細なクラッチワークには及ばない。集中した時のシャルロッタは、スタートでも最速、……のはずだった。
動き出した途端、急にエンジンの回転が落ちた!
シャルロッタはクラッチレバーを握り直し、アクセルを煽る。
タコメーターはパーンとピークまで跳ね上がる。もう一度クラッチをゆっくりと繋ごうとすると、半クラッチの途中で勝手に繋がり、車速に合わせた回転数にまで落ちてしまう。
マシントラブル!?
否、シャルロッタのミスだ。
スタート直前、チェーンを張るために僅かに滑らせたクラッチが、いつもより少しだけ強く長かったのだ。この時点で、シャルロッタが普段と違う状態にある事は明らかだった。
熱を持ったプレートは、スタート時の半クラッチで更に過熱し膨張してしまい、シャルロッタの感覚とズレを生じさせていた。
シャルロッタはすぐにそれに気づき、感覚を修正して再加速する。時間にして数秒、しかしスタート時においては、致命的なミスだった。
作戦や駆け引きでは、毎度エレーナの頭痛の種を撒き散らしているが、マシンコントロールの感覚においては、GP史上最高と自他共に認めるシャルロッタにしては、初めてレースに出場した小娘のような間の抜けたミスだ。シャルロッタ担当のセルゲイですら、マシントラブルかと慌てたほどだ。
フロントロー、三番手ポジションからスタートのフレデリカは、欠場中からずっとシャルロッタと再び競い合うことを目標にしてきた。スタート時も、意識はシャルロッタだけに向けられていた。
長い脚で路面を蹴るようにマシンを押し出し、力強く走り始めたフレデリカは、斜め左前にいたシャルロッタが出遅れたのを、視界の片隅に捉えた。
本来、少しでも早く1コーナーに飛び込むことだけに集中しなければならないその場面で、一瞬だけ思考に空白が生まれた。次の瞬間、両側を後ろからスタートしたジュリエッタとスミホーイ、ラニーニと愛華に並ばれていることに気づいたフレデリカは、慌ててシフトアップする。しかし彼女のヤマダエンジンの回転数は、まだシフトアップするピークにまで至っていなかった。圧倒的なパワーを発揮する手前まで回転を落としたヤマダYC213は、容易にラニーニと愛華に置き去りにされた。
ホールショットは、フロントローに並んだ二人の天才、チャンピオン最右翼のシャルロッタか、ヤマダパワーのフレデリカのどちらかだろうと思われていた1コーナーに、二列目スタートの愛華とラニーニが最初に飛び込んできた。観客席がどっと沸く。
ラニーニのすぐ後ろにスターシア、バレンティーナ、エレーナ、フレデリカ、ケリー、琴音、ナオミ、ハンナ、マリアローザ、アンジェラ・ニエト、リンダと続く。
1コーナーでエレーナがバレンティーナを、ナオミが琴音を一旦抜くが、2コーナーから3コーナーまでの短い直線で再び抜き返される。
シャルロッタはスタートで18位まで落ちたが、1、2コーナーで外側から一気に四人を抜き、リンダの後ろまでジャンプアップする。
『シャルロッタ、どこにいる!!』
エレーナの声が、愛華にも聞こえて来る。シャルロッタからの応答はない。
シャルロッタがスタートで何かしらトラブルがあったのはわかったが、状況が掴めない。エレーナも把握出来ていないようだ。愛華は気になったが、このような状況では、特別な指示がない限りトップを維持するしかない。下から順位をあげるより、先頭から下がる方が遥かに簡単なのだから。
『シャルロッタ!返事をしろ!!』
エレーナの呼び掛けは、心配というより怒りに近い。
『心配ないわ!リンダのケツについたとこ』
シャルロッタの声に、愛華はホッとした。
『何があった!?マシントラブルか?』
エレーナの声にも、安堵の色が窺える。
『ちょっとクラッチ滑らせ過ぎちゃっただけ。すぐにトップに追いついてみせるから!」
余裕のセリフを吹いても、喋り方と声のトーンから、シャルロッタが冷静さを失っているのが愛華にもわかる。
シャルロッタが冷静でないのはいつものことだが、スタートの出遅れは、シャルロッタらしくないミスだ。というよりオーストラリアGPが終わってからずっと、どこかシャルロッタさんらしくなかった。
『まだ始まったばかりだ。焦るな。レースは私たちがコントロールしている。おまえは一旦そこで様子を見てろ』
エレーナは落ち着くように呼び掛けた。
シャルロッタがプレッシャーをずっと感じているのはわかっていた。フリー走行でも予選でも、どこかギクシャクしていた。それでもタイムはきっちり出していたし、予選リザルトもチームとしてほぼ理想的だった。順調過ぎる流れに、フレデリカの挑発と混戦に巻き込まれる事だけを警戒していた。よりによって、シャルロッタ自身のスタートミスによって、最悪の想定を現実にされるとは、エレーナも予想していなかった。今さら悔いても仕方ない。こうなった以上、シャルロッタを出来るだけ混戦から遠避けることを考えねばならない。彼女がどこまで従うかは、わからない。いやたぶん落ち着かせるのは無理だろう。シャルロッタが守りの走りをする事自体、シャルロッタらしくない。
ジレンマに陥りながらも、とにかく自分たちがレースをコントロールするのが先決と考えた。
どのチームも少しでも有利なポジションを確保しようと無秩序な状態のこの段階で、シャルロッタを無理に加わらせる必要はない。アクシデントに巻き込まれるのだけは避けたい。幸い、シャルロッタを除いて、ストロベリーナイツが一番優位なポジションにいる。エースが一番厄介なのも、ストロベリーナイツなのだが……。
『エレーナさん、わたし下がりますか?』
トップにいる愛華が、シャルロッタを心配して指示を仰ぐ。
『シャルロッタはわたしとスターシアでなんとかする。アイカはそのままトップを死守してくれ。後ろは気にするな』
『だあっ』
予想していた応答に、愛華はラニーニを抑えるのに集中する。後ろは気になるが、自分が下がって混戦を拡大するより、先頭でレースの主導権を握るのが自分の役割だと言い聞かせる。愛華はエレーナの意思を、正確に理解していた。
愛華とラニーニの後ろでは、スターシアとエレーナが、盛んに仕掛けて来るバレンティーナとフレデリカとやり合っている。コーナーの立ち上がりでは並ばれるが、進入でなんとか旋回性の劣るヤマダのインを刺す。バレンティーナとフレデリカの間に連係がないのが救いだ。
その背後でナオミとハンナ、ケリーと琴音とマリアローザが、絶えず順位を入れ替えながら、エレーナたちの隙間に入り込むチャンスを窺う。ここでもし烈なポジション争いが繰り広げられている。
その陰でアンジェラ・ニエトは、三大ワークスの争いを邪魔しないように、刺激しないようにしながらも淡々と、久々の上位ポイント獲得を狙っていた。
強引に抜きに来るシャルロッタを、リンダは粘り強くブロックし続けていた。
シャルロッタは更に熱くなり、無謀なアタックを繰り返す。やはりじっとしていられなかったようだ。
一対一の実力では、到底シャルロッタに敵うはずのないリンダだったが、シャルロッタが見通しなく無謀なアタックをしてくれてるおかげで、なんとか凌げている。
リンダにとっても、簡単に前に行かせる訳にはいかない。持てる力の全てを駆使して、暴れまわる山猫と格闘する覚悟でいた。
スタート位置から客観的に考えて、おそらくこのレースで自分がシャルロッタのタイトル阻止に貢献出来るチャンスは、奇跡でも起こらない限りないだろうと思っていた。
その奇跡が、向こうからやってきてくれた。
いくら冷静さを欠いたシャルロッタといえど、自分がいつまでも抑えきれる相手でないのはわかっている。一旦抜かれたら、二度と追いつけないだろう。
神様のくれた最後のチャンスを、チームのために、ラニーニの可能性のために、少しでも時間を稼ぎ、シャルロッタを消耗させてみせると、不退転の決意で迎え撃っていた。
タイトル決定の懸かった日本GPは、シャルロッタのスタート出遅れで、オープニングラップから3チーム+1人が入り乱れる波乱の展開で始まった。誰も退くつもりはない。ラスト二戦の舞台は、今シーズン最もハードなレースになる予感に、早くも熱くなっていた。




