覚悟
決勝を走る36台のマシンがダミーグリッドに並んだ。サイティングラップを終えて、フォーメンションラップまでの僅かな時間にも、タイヤを温めておこうとそれぞれのマシンに担当するメカニックたちが慌ただしくタイヤウォーマーを巻きつける。
中継するテレビカメラが、グリッド順に一人一人を紹介していく。
監督やメカニックと話し込む者、自分の世界に入り精神統一している者、日傘を持って横に立つ女性と談笑している者もいる。
今までスタート前に、これほど緊張したことはなかった。否、本当はスタート前にはいつだって緊張している。悟られまいと大きな口を叩く。それ故に、みっともない走りは出来ない。自分を選ばれし天才、人とバイクの混血だと言い放ち、そう振る舞ってきた。
それはいつも、シャルロッタ自身を奮い立たせてくれた。
しかし今、自分の言葉を素直に受け入れられない。得体の知れないモヤモヤしたものが、頭から離れていかない。ずっと欲してきた最速を目前にして、妄想に入り切れないでいた。
───今日、あたしは最速の冠を手に入れる!忘れられたフェリーニの栄光を取り戻し、チェンタウロの紋章に、再び光をあてる!
なんとか妄想の扉をこじ開けようと、自分に言い聞かせた。
───トモカたちに、苺大福をいっぱい作っておくように、って言ってしまった……。だって当たり前じゃない!チャンピオンを決めた瞬間は、一番でチェッカーフラッグを受けた瞬間じゃなきゃならないんだから!……でも、もしも一番を逃したら……、チャンピオンなのに苺大福を食べられないとしたら……
魔界の支配者に相応しくない不安が頭をよぎる。
もしかしたら、自分はすごく気が小さくて、妄想の自分を本当の自分だと思い込んでいただけかも知れない。
───あたしがラニーニ以外に、誰に負けるって言うの?
───え……?ラニーニに負ける?そんなの、もっとあり得ない!
「素晴らしいレースを期待してます」
今朝、パドックでヤマダの伊藤社長から声を掛けられた。
GPを開催するモテギの運営会社の親会社であるヤマダの社長らしい社交辞令に、シャルロッタは「あんたんちの庭で暴れさせてもらって、悪いわね」と、彼女らしい傲慢な態度で返した。
伊藤は別段気分を害した様子もなく、エレーナ、スターシアにも挨拶をしていた。それがシャルロッタの、おそらくレース前のライダーなら誰もが持ち合わせている心意気だと、彼も理解しているのだろう。
気に入らなかったのは、伊藤が愛華と、ずいぶん長く話し込んでいたことだ。日本語なので、なにを話しているのかわからない。
どうせ日本人同士、くだらない世間話でもしてたのだろうと、問い質すこともなく、すぐに忘れてしまったが、何故か今、急に思い出した。
───アイカが裏切るなんて、200%あり得ない!来シーズンもその次のシーズンも、アイカがエレーナ様のチームを離れるなんて、絶対にない!
昨シーズン、バカな兄のためにエレーナを裏切りかけたシャルロッタだが、愛華はどんなことがあっても、絶対にエレーナを裏切らないという確信があった。自分も二度とあんな真似はしない。
───だったら、あたしは何を気にしてるの?
そしてシャルロッタは気づいた。
愛華がよそのチームに行かないで、ずっとこのチームにいる以上、愛華とレースで勝負する事は、ないという事を……
タイヤウォーマーが外される。グリッド上から傍観者が追い払われていく。あちこちから白煙と共に、かん高いエンジン音が叫び声をあげる。
「シャルロッタ!スターター回すぞ」
セルゲイの声に、クラッチを握り、ギアをセカンドに踏み込んだ。
リアタイヤがスターターで回され、クラッチを繋いだ……!シャルロッタのマシンはスポスポと、湿った音を吐き出すだけで、咆哮をあげない。
「シャルロッタ、キルスイッチ!」
エンジンを止めるためのキルスイッチが、オフの位置のままになっていたのに、言われて初めて気づいた。
もう一度スターターが回されて、けたたましくスミホーイが吠えた。
セルゲイたちが最後にコース上から出ると、色鮮やかなマシンの群れは、フォーメンションラップへと動き出した。
ラニーニは、最前列のシャルロッタの様子がいつもと違うと感じていた。
いつも通りのポールポジション。しかし今日は、観客やテレビの視聴者を歓ばすパフォーマンスもなく、フォーメンションラップが始まっても、いつものような、左右にマシンを振るウォームアップでまわりのライダーを威嚇する、興奮した馬のような荒々しさを感じない。横にいるのが同じチームの尊敬するスターシアお姉様というのもあるが、いつもなら、例えエレーナが隣にいても、もっと激しく動いている。
───シャルロッタさんがレースに集中している?
ラニーニには、どこか逆に思えた。
いずれにしろ、ラニーニのとるべき作戦は、一つしかない。
スタートと同時に、隣にいる愛華がフレデリカの後ろに飛び込むに違いない。
体格の大きなエレーナとスターシアは、スタートにハンデがある。フレデリカも同じくらいの体重と思われたが、パワーの優位性で、シャルロッタと同レベルのスタートダッシュが可能なはずだ。
───アイカちゃんはスタートが得意だから、フレデリカさんを追って、一気にエレーナさんたちの前まで出ちゃうと思う。
───アイカちゃんに倣って、わたしもスターシアさんの前に行ければ、逃げきられる危険性はずっと小さくなるはず。
───同じ二列目でも、私の方がアイカちゃんより少し前のスタート位置なんだから。
出来ればナオミも、エレーナの前で1コーナーに入ってくれれば言うことないのだが、都合良すぎる期待がプラスになる事はない。
───フレデリカさんとわたしが中に入り込んじゃえば、シャルロッタさんとアイカちゃんのコンビだって、簡単にペースをあげられない。そしたらナオミさんが追いついて、ハンナさんとリンダさんも来てくれる……。
それも希望的シナリオの域を出ないのは、ラニーニにもわかっていた。シャルロッタ愛華コンビとフレデリカのバトルに加わるのは、並大抵でない。チェコGPで経験している。そこでラニーニは負けた。
ナオミ、ハンナ、リンダが追いつけたとしても、相手にはエレーナとスターシアもいる。当然バレンティーナやケリーといったほかのヤマダライダーも加わって来るだろう。
どう考えたって厳しいレースだ。都合のいい期待なんて、入り込む余地はない。それでも少しでもチャンスが生まれる可能性があるなら、それに賭けるしかない。
今日のレースでシャルロッタに負けたら、ラニーニの今シーズンは終わる。
スタートグリッドについたラニーニの瞳に、迷いはなかった。




