変人シャルロッタ!降臨
シャルロッタがピットサインを見逃したとしても、この場合、彼女を責めることはできない。
ウォームアップ二周に、タイムアタック1ラップの予選では、通常コースインしたらピットから指示を出すことはない。
ライダーは、一周だけのタイムアタックに集中し、ストレートでは空気抵抗を少しでも減らそうと可能な限り体を小さく畳み、タンクに頭を伏せる。コーナーでもマーシャルのフラッグ以外、コースの外に気を向けることはない。
目の前を、一瞬で走り過ぎたシャルロッタが、サインボードを見てくれたのかどうか、愛華にはわからない。
ヘルメットはスクリーンに押し込んだまま、ぴくりとも動かなかった。
気づいてくれなかった……?
不安混じりの視線で1コーナーへと追っていく。
リズミカルにシフトダウンする排気音……!
それだけで、シャルロッタが本気になったことを、愛華は確信した。
愛華の肩に、大きくてゴツい手が触れた。振り返ると、ニコライさんが「ダアッ!」と反対の拳の親指を上に向け、ウィンクしてくれた。横にいるセルゲイおじさんも、モニターに顔を向けながら頷いている。
彼らもわかっている。
今、シャルロッタは、最高の気分で、ひと際カン高いソプラノを歌っていると。
シャルロッタのタイムは、スリップストリームを使わない単独で記録したものとしては、驚異的なものだった。限界と思われていたスターシアを、コンマ2秒も上回ったのだ。
たった0.2秒というなかれ。日常生活ではほとんど意味のない差でも、1秒の十分の一の間に数台がひしめくこの予選では、飛び抜けた差だ。
スターシアが、数センチずつラインを修整し、やっと見つけた究極のラインを、完璧に走って到達した限界のタイムを、直前までやる気も散漫だったシャルロッタが超えたのだ。およそ完璧とは程遠い人間のシャルロッタのレコードタイムは、ライディングに限界がないという証明であり、人間性とライディングは別だという実例でもある。こどもたちに悪影響を及ぼさないか心配だ。
愛華はピットに戻ってきたシャルロッタに駆け寄り、大喜びで声をあげた。
「おめでとうございます!サインボード、気づいてくれてよかったです!」
しかしシャルロッタからは、意外な反応が返ってきた。
「サインボード?……なにそれ?」
「え?」
愛華はきょとんとする。アタックラップに入った時、確かにシャルロッタの走りは変わった。
気のせいではない。ニコライさんもセルゲイおじさんも感じていた。
「そんなのぜんぜん見てなかったわ。それよりトモカたちが1コーナーの外側にいたわよ!アタックラップに入ったところで気づいたけど、来てるなら来てるって、なんで教えてくれないのよ!」
「はい?」
愛華は一生懸命教えようとしたつもりだ。それより、予選中にコースの外を見てたのか?この人は。
「あんなサプライズ、やめて欲しいわね。『GANBARE!Charlotte☆』とか垂れ幕拡げて、ちょっと恥ずかしかったけど、張り切っちゃったじゃない。あたしじゃなかったら、びっくりして転んでたところよ」
「…………」
あなたじゃなかったら、気づきません。
1コーナーの外側には、安全のための広いサンドトラップがとってあり、その先にタイヤバリアとフェンス、更に通路とオーバルコースの安全地帯があって、ようやく智佳たちの観てるバンクがある。
正確な距離はわからないが、愛華には、流してる時に、人が沢山いるぐらいしか認識できなかった。
知っていたならともかく、シャルロッタはカラフルな衣装を着た観客の中からGANBAREとローマ字で書かれた自分への応援幕を見つけ、智佳たちまで認識していたことになる。しかもアタックラップに入ってからだ。
やっぱりこの人、人間じゃない……。
「ところでサインボードって、なに書いてあったの?」
「いえ、べつに大したことじゃありませんから……」
ニコライさんがプラットホームを片付けているのを、横目で見ながら小声でつぶやいた。
予選結果は、シャルロッタがインディアナポリスから8戦連続のポールポジション。二位スターシア、三位にヤマダのフレデリカ。四位エレーナと、フロントローに三台のスミホーイを並べた。
セカンドローには、五位のバレンティーナ、そしてシャルロッタの前に走ったラニーニ、愛華、ナオミと並ぶ。三列目にケリー、琴音、ハンナ、マリアローザで、リンダは四列目スタートだ。
ラニーニの逆転は、いよいよ厳しい状況となった。逆にストロベリーナイツからすれば、チェックメイトと言っていい。
愛華の話題に影響されて、急に盛り上がった日本の空気も、決勝を前に、すでにシャルロッタのチャンピオン決定ムードに沸いた。シャルロッタの、というより、それに貢献してきた愛華への人気が凄い。
GPのパドックは、どこでも人に溢れて慌ただしいものだが、愛華を一目見ようと沢山の観客がストロベリーナイツのテントのまわりに押し寄せていた。愛華はトイレに行くのも苦労しなければならないほどだ。
予選を終えたばかりで疲れていたし、智佳たちに早く会いたいと思っても、表紙に愛華が走ってる写真が刷られたプログラムとペンを持った子どもがサインを求めてくると、心やさしい愛華には断れない。
ファンはまだいい。愛華が窮屈なツナギのファスナーを少し下げるだけで、待ち構えたように連写するカメラマンにはムッとした。
いったい何を撮りたいの?ライディングウェアを着てるから価値があるんじゃないの?と言いたくなる。因みにツナギの下には吸汗性の高いインナーを着ているので、下着とかは絶対に見えない。
愛華が本気で切れかけたのは、例のテレビ取材だ。シーズン途中から、ゴルナ言い値の高額で放映権を買って盛り上げてくれたテレビ局だが、最終戦予選からの完全中継だけでなく、愛華の特集番組制作まで決定していた。
取材クルーは、予選上位のシャルロッタたちの共同会見そっちのけで、予選七位の愛華を追いかけていた。
愛華は久しぶりに再会した友人たちとゆっくり話したかったが、それもままならない状況だ。それどころか、名古屋から応援に来た元クラスメイトの存在を知ると、彼女たちにもカメラを向けた。
番組的には、女子高生の友情物語は美味しいネタだろう。それまで愛華は、MotoミニモとチームのPRになればと我慢してきたが、大切な友だちまでネタにされるのは耐えられない。バスケ専門誌の取材を受けたことがある智佳はともかく、紗季や他の子たちは、相当戸惑っている。みんな箱入りのお嬢様育ちなのだ。
「ちょっ……!」
「 Стоп это съемки!(撮影をやめなさい) チームへの取材は、手続きをしてからお願いします」
愛華が苦情を言いかける寸前に、ルーシーさんとボディーガードの男の人が、テレビスタッフの前に立ちはだかった。突然のロシア語に、テレビスタッフは一瞬たじろいだ。後半は丁寧な英語だ。
「取材許可はもらってる」
ディレクターが主催者からの取材許可証を見せた。苦手なエレーナが共同会見場にいる間に、ゴリ押しで取材してしまおうと考えているらしい。
「それはイベントの取材許可証ですね。チームへの取材を申請してください。ここは女性が着替えもするところです。勝手に立ち入らないように。それにテントの中の技術は企業秘密です。我々にとっては、国家機密にあたるものもあります。場合によっては、我々のルールで対処せざる得ませんが?」
勿論ハッタリだ。しかしスミホーイのボディーガードからそう言われれば、紛争地の取材経験のある肝の座ったカメラマンでも引き下がるしかないだろう。平和な日本で、せいぜい暴力団を取材した事ぐらいしかないスタッフは震えた。
彼らは、その世界では最高峰クラスにランクされる警護のプロだ。愛華やお嬢様方を怖がらせないように丁寧な言葉使いで対応していても、一線を越えれば冗談では済まさない、本物の凄みを取材クルーに向けていた。
智佳とはアメリカで会っていたルーシーさんが、みんなをテントに入れてくれた。愛華はようやく落ち着いてみんなと再会することが出来た。
テントの外をゴツいロシア人、入口の内側にはルーシーさんがガードしてくれてたので、ファンの目やカメラを気にしなくても済んだが、やっぱりちょっと息苦しかった。




