チャンピオンへの重圧
愛華は、何か隠してるんじゃないかと、ジーっとシャルロッタを見つめた。
……………
「そりゃあ、あたしだってたまには緊張ぐらいするわよ!次のレース、絶対優勝しなきゃならないんだから……」
沈黙に耐えきれなくなったシャルロッタが、とうとう緊張していることを自ら認めた。しかもその根源が来週のレースへの重圧だという。
自分で言わせておいて、シャルロッタさんでもプレッシャーがあるんだと、愛華は少し失礼な気持ちを抱いた。しかしそこまで言わせた以上、愛華には彼女の重圧を軽くする責任がある。
「えっと……絶対に勝たなければいけない、ってことはないと思います。シャルロッタさんは、ラニーニちゃんに25ポイントも差をつけてるんだから、無理に優勝狙わなくても、チャンピオン獲れるんですから」
だがシャルロッタは愛華を睨み付けて言い返した。
「あんたねぇ、本気で言ってるの?日本GPには、トモカやサキたちが応援に来てくれるのよ。あんた約束したでしょ?あたしの優勝とチャンピオン決定を、彼女たちにプレゼントするって!」
話が膨らんでいる気がするが、そんなようなことを語り合ったのは確かだ。
それよりも、シャルロッタがチャンピオンより、愛華の友だちの智佳や紗季のことを思ってくれているのが嬉しい反面、それがプレッシャーになっている事実を知って、複雑な気持ちだ。
はっきり言って、バイクに乗る以外何の取り柄もないシャルロッタだが、バイクに跨がらせれば誰よりも自由に乗りこなす。中二病を患った脳は個性と言えなくもないが、そんな些細な欠点を補って余りある、世界最高の才能と技術を持っている。彼女の真のアイデンティティーは、レースの中にしかない。それは本人もわかっている。
世界チャンピオンになる。それはシャルロッタのシャルロッタたる証明。
それを新しく出来た友だちに、最高の形で見てもらいたいという感情は、彼女が今まで経験したことのない気持ちだった。自分でも制御できないどころか、理解すらできず、どうしたらいいのかわからなくなっているようだ。
愛華は、シャルロッタに起こっている心理的変化を理解しようと努めた。レベルは違うかも知れないが、愛華にも経験がある。
中学生のときの地元で行われた体操の選考会。それまでの大会の成績からも、愛華の優勝は確実と言われていたし、自分でも少なからずの自信があった。
学校から大勢の友だちが応援に来てくれた。みんなの前で、カッコよく優勝を決めようと思ったとき、突然平均台から落下するイメージが浮かんだ。
もしここで失敗したら、代表に選ばれないだけでなく、みんなをがっかりさせることになる……そう思い始めると次々に失敗するイメージが浮かんできた。
段違い平行棒でバーを掴みきれず、指先から離れていく感覚……
跳馬で踏切が合わず、跳び上がれない恐怖……
振り払っても、振り払っても、そうしようとすればするほど、悪いイメージは鮮明になっていく。
ウォーミングアップに身が入らず、その場を逃げ出したくなった。
愛華よりずっと才能に恵まれ、緊張とは無縁の存在だったシャルロッタさんが、生まれてはじめて友だちのために緊張している。
そんなシャルロッタを愛おしく思うと同時に、なんとかしてあげたいと強く願った。
あの時、自分は体操のコーチでなく、学校の亜理沙先生に救われた。
たぶん体操競技なんて全然わかってなかったと思うけど、亜理沙先生がぎゅっと手を握って、「大丈夫、練習したこと出し切れば、きっとできる。だって愛華は最高だもの」と言ってくれた。
それで愛華は落ち着けた。
シャルロッタさんに比べたら、自分なんて素人同然かも知れないけど、きっと力になれるはず。
愛華はシャルロッタの手を握りしめ、「大丈夫です。ラニーニちゃんはすごいけど、シャルロッタさんが実力出し切れば、絶対に勝てます」と言った。
「はあ?あたしがあんなちっこいのに、負ける訳ないでしょ?」
あの時の自分とは違って、シャルロッタは怒ったように言い返してきた。
「えっ?いえ、あっ、そうじゃなくて、もちろん勝てるんですけど、心配ないっていうか、大切なのは実力を出し切ることで、そうすれば必ずチャンピオンは獲れると信じてますので、緊張しなくても……」
「ここまで来たら、チャンピオンなんて間違いないに決まってるでしょっ。問題は、どうやってチャンピオンを決めるかよ。レースで優勝できなかったのにチャンピオンとか、カッコ悪すぎでしょっ!」
やはり愛華とシャルロッタでは、思考レベルが数段のずれがあるようだ。どちらがまともかという論議は無意味だろう。
「でも先ずは確実に走って、」
「そんなのダメに決まってるでしょっ、いい?次は日本GPなのよ。わかってる?」
「そんなの知ってますよ。わたしの国ですから。トモたちも応援に来てくれるし」
「そお、だからあたしも絶対勝ちたいの。でもヤマダのホームでもあるのよ。ヤツらだっ絶対に勝ちたいに決まってる」
当然だろう。日本は愛華の故郷であり、ヤマダの本拠地でもある。そしてモテギは、ヤマダのサーキットだ。
「ヤマダが最近めちゃめちゃ速くなってるのは、あんただって知ってるわよね。もちろんあたしが本気出したら相手にならないけど、バレンティーナなんて、勝つために何するかわからないわ。フレデリカも復帰してくるって噂だし……、それにラニーニだって無理してでも勝とうとしてくるはずよ。そんな死に物狂いの連中につきあって、転倒にでも巻き込まれたらどうすんの?あたしはヤツらとちがって、タイトル懸かっているから絶対リタイヤ出来いのよ」
愛華は少し驚いた。シャルロッタは自分より正確に状況を把握している。
「だったら尚更、無理せず落ち着いて走りましょう。ヤマダの人たちはこの際無視すればいいんです。そりゃあ優勝するに越したことありませんけど、ラニーニちゃんの前でゴールすればいいわけだし、もし負けても、入賞圏内でゴールすれば、最終戦で逆転されるなんてまずありませんから」
「だからそれが出来たら苦労しないのよ!トモカたちが苺大福用意してくれるのよ。絶対優勝して食べるんだから。それにあんた、あたしの性格知ってるでしょ?抑えて走ったら、絶対にミスするわ」
シャルロッタが、正しく自己分析をしていた。しかし愛華には、それこそがシャルロッタのプレッシャーを語っているように感じられた。
エレーナとスターシア以外、どんな相手にも絶対的な自信と傲慢な態度を示し、それを裏付けるだけの才能も有している。いつもなら、現実がどうあろうと我が儘なまで自分の勝利を疑わないシャルロッタが、客観的に分析している。
さすがにバレンティーナが故意に潰そうとしてくるとは思わないが、アクシデントに巻き込まれる可能性はある。
確実な走りが持ち味のラニーニとて、もうあとがない状況だ。捨て身で挑んでくるだろう。
たとえそんな状況にあっても、いつものシャルロッタだったらまったく意に介さず、逆に闘志を燃やすぐらいだ。
子供の頃からめざしてきた、最速を証明する大舞台を前に、しかも初めて友だちに見せたいという、思ってもみなかった感情と合わさって、突然恐くなったのだろう。これまでプレッシャーなどと無縁だっただけに、対処法も知らないのだ。
愛華にも、どうしたらいいのかわからなくなってきた。
確かにバレンティーナやフレデリカと、ガチのバトルをするのはリスクが高い。かと言って、安全圏でゴールをめざすような走りは、本人の言う通り、自滅しかねない。
(やっぱり、わたしからエレーナさんに相談しよう)
自分にできることは、たぶんそれしかない。そう思った時、
「アイカちゃん、シャルロッタさん、ちょっといい?」
突然声を掛けられ、二人揃って入り口の方に振り向くと、ラニーニが立っていた。
「ラニーニちゃん……いつからそこに?」
「わりと前から」
「盗み聞きなんて、ずいぶんセコい真似するわね」
シャルロッタが突っかかる。自分の弱味を見られたようで、カッコ悪いのだろう。
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりなんてなかったんだけど……。シャルロッタさんの具合が悪そうだったから、心配で見に来たんだけど、普通に入って来たんだけど二人とも気づかないし、声掛けづらかったから。本当に盗み聞きするつもりじゃなかったよ」
ラニーニだって心理戦がレースの一部なのは知っているし、それが卑怯とは思わない。しかしこの場合、本当にシャルロッタを心配して来たのは間違いないだろう。彼女はそういう娘だ。
「わかってるよ、ラニーニちゃん。シャルロッタさんは大丈夫だけど、ちょっと気が昂ってるからごめんね」
いくら信用している親友でも、他所のチームの人間に聞かせられる話ではない。愛華は申し訳なく思いながらもラニーニに席を外してくれるように促した。
「ちょっとだけ気になったから、一言だけ言わせて」
我の強い性格のライダーが多い中で、どちらかと言うと控え目なラニーニが喰いさがる。真剣な顔からは、シャルロッタまで反論を躊躇う強い決意が感じられた。
「二人とも、さっきから聞いてると、わたし負ける前提で話してるみたいだけど、優勝するのはわたしだから。わたしはヤマダなんか恐くないよ。もし万が一、わたしが負けるとしたら、それは世界最速のチャンピオンだけ。ヤマダのマシンが速いからって怖がってる人になんか、絶対に負けない」
シャルロッタの目が光った。今はカラーコンタクトをつけてないので、本物の目の光だ。
「言ったわね、あんた。今の一言で、あたしを本気にさせたわよ。後悔しなさい」
ラニーニも瞳を輝かせ、応える。
「わたしが逆転してチャンピオンになってから、言い訳なんて聞きたくないから。……えっと、でも正直すごくきびしいのはわかっているよ。でも絶対後悔はしない。勝っても負けても、本気のシャルロッタさんとアイカちゃんと競争したいの」
「ラニーニちゃん……」
「あんた、……ちょっと生意気ね」
シャルロッタも、愛華すらも、安全なレースなんてしないと決めた。それがラニーニの狙いだと言われるかも知れない。そうだったとしても、歓んでその作戦に乗ろう。
「来週、あんたにも特別に、苺大福食べさせてあげるわ」
シャルロッタが傲慢な態度で言い放った。




