カモメのジョナサンからの贈り物
「おはようございます」
オーストラリアGP決勝の朝、愛華はいつも通りランニングと柔軟体操をしていると、潮騒とカモメの鳴き声に混じって日本語の挨拶が聞こえてきた。振り返るとヤマダのテストライダーでフレデリカの代役として出場している琴音が立っていた。
「あっ、琴音さん、おはようございます!」
「愛華さんはフィジカルのトレーニングも欠かさないと聞いていましたが、決勝当日でも怠らないんですね」
そういう琴音も朝早くからトレーニングウェア姿で外にいる。
「選手なら、ベストな状態で試合に臨むのは当然だと思います。わたしだけでなく、エレーナさんもやっていますし、シャルロッタさんとスターシアさんは……(二人とも朝は弱いんだ)、みんなそれぞれのやり方があると思います。琴音さんもそうですよね?」
愛華が言葉を濁したのを、琴音は自分が読み取れなかったと思ったらしかったが、訊きなおしたりせず、そのまま話を進めてくれた。
「愛華さんもシャルロッタさんも、今回も調子良さそうですね」
愛華は少し申し訳なく思いつつも、琴音に合わせた。
「調子はいいですけど、わたしの予選タイムが良かったのは運もあったと思います」
今度は琴音にわかりやすいよう体を動かすのを中断して、なるべくはっきりとしゃべった。
「柔軟体操を続けてください。動いていてもある程度わかりますから」
琴音は愛華に気を使わないように言い、自分も話し続けた。
「運も実力のうちです。それに上位グリッドに並んでいるのは、みんなほぼランキング通りの順なのですから、愛華さんも運を味方にするだけの実力があるということです」
ランキングの下位からタイムアタックする予選では、実績のない琴音は風の強かった一番最初にアタックし、その影響で5列目スタートになった。愛華が初めてGPに出場した時は、同じ一番スタートながら幸運に恵まれていきなりポールポジションだった事と比べると、怨み言の一つも言いたくなりそうだが、嫌味な印象をまったく感じさせないのは彼女の人柄だろうか。
同じヤマダの日本人ライダー片部範子とはだいぶ印象が違う。真面目な人だとは思っていたが、レースに対しても真摯に向き合っていると感じた。
我の強い人が多いこの世界で、ちょっと自分やラニーニちゃんと似ているかも知れない。
「運がつくのはいいんですけど、糞がつくのは勘弁してほしいですね」
「……?」
愛華も気をゆるして、しょうもないダジャレを言ってみた。日本人ならわかってくれると思ったが、琴音には(ウン)と(フン)の聞き分けが出来なかったようだ。それにシャルロッタに降りかかった『カモメのジョナサンからの贈り物』を知らないようだ。
愛華は予選でのシャルロッタの不運をはじめから説明した。大抵ダジャレなんてものは一々説明しているとシラケてしまうのだが、琴音は楽しそうに笑ってくれたので愛華も楽しくなった。
笑いのネタにされているなんて、シャルロッタが知ったらまた機嫌悪くなりそうだけど、日本語のダジャレが通じるのは嬉しい。
実は昨日から誰かに話したくて堪らなかったのだ。さすがにテレビの取材の人に話す訳にはいかなかったので、ずっと我慢していた。
性格悪いと言われそうだが、本来なら愛華はまだ高校に通っている年頃の少女だ。くだらないネタが可笑しくて堪らない。普通女子高生なんてそんなものだろう。ましてずっと外国を転戦していて、日本人の若い女の子とのコミュニケーションに餓えていたのだ。それくらい大目に見てあげて欲しい。
「こんなに笑ったの久しぶり。愛華さんって面白いですね。シャルロッタさんも愉しそうな人みたいですね」
「愉しいというより、困った人です」
愛華の偽らざる本音である。
琴音のクスクスと笑いを堪える仕草は、愛華よりだいぶ歳上なのに可愛いと思った。
「でも本当に凄い人ですね、シャルロッタさん」
「それは間違いないです!エレーナさんも一目置く、常識はずれの天才ですから」
近くで羽を休めていたカモメが急に羽ばたいた。
少しの沈黙のあと、琴音が口を開く。
「ヤマダのマシンも、常識はずれのモンスターですよ」
声のトーンの違いに、琴音の顔を見ると笑顔は消えていた。
カモメが二人のすぐ上を掠め飛んでいく。
無駄を削ぎ落とした身体で空を自由自在に飛びまわる姿は、エレーナさんの言う通り、美しいと思った。
「どんなにすごいバイク持って来ても、シャルロッタさんは負けません。タイトルはストロベリーナイツのものです」
愛華も真顔で応えた。
「今シーズンは、ね。でもこれからは、ヤマダ以外では勝てなくなります。マレーシアであなたも気づいたでしょう?この私でも、あなた方に対抗できたぐらいですから」
愛華たちは前戦のマレーシアGPで琴音に迫られ、圧倒されたヤマダのパワーを思い出した。
───琴音さんだって凄く上手なライダーだけど、エレーナさんやスターシアさんたちと比べたら、やっぱりレベルは違う。それなのにシャルロッタさんと自分のコンビはぎりぎりまで追いつめられた。
もしバレンティーナさんやケリーさんがあのマシンを乗りこなしたら……、そして今欠場しているフレデリカさんが本調子で乗ったら……、
スミホーイやジュリエッタでは本当に勝てなくなるかも知れない……。
「そんなの認めません!バイクの性能は大事だけど、チームワークの方がもっと大事です。わたしはチームの力を信じます!」
愛華は自分に言い聞かせるように思わず強く言っていた。その剣幕に琴音は少し驚いたようだった。
「……ごめんなさい。随分失礼なこと言ってしまったようです」
琴音に謝られて、愛華も大声を出したことに気づいた。
「あっ、いえ、こちらこそ大きな声出してすいません」
「声の大きさは、私には関係ないから心配しないでください。愛華さんの言う通り、Motoミニモの魅力はチームで戦う事だと、私も思います。マシンの性能が進化していくのは当然の流れですが、マシン性能がチームの力を上回るようになったら、Motoミニモは終わりですから……」
琴音はどこかさみしそうに言った。
「愛華さんは私の思った通りの人ですね。こう見えても私も『女王エレーナ』さんに憧れていたんですよ。もちろん今でも尊敬しています」
愛華には、琴音の真意がよくわからなかった。ただ、本当に今のMotoミニモが好きなんだと伝わってきた。
「私はヤマダの栄光のために、全力を尽くします。だけど愛華さんも、私から言うのも変かもしれませんが、どうか負けないでください」
シャルロッタだったらケンカを売られたとぶち切れそうだが、愛華は素直に受けとめた。
「どんな秘密兵器持って来ても、絶対に負けません。こっちには合体必殺技があるんですから」
言いながら、自分の脳もだいぶシャルロッタに冒されてきてると思った。琴音がまたクスクスと笑う。
「お互い頑張りましょう。いつか愛華さんと、同じチームで走ってみたくなりました」
「わたしもです」
二人は握手をした。立場が違っても友だちになれる。ラニーニちゃんと同じように、琴音さんとも素敵なライバル関係になれるといいなぁ、と愛華は思った。
愛華が立ち去ろうと背中を向けると、もう一度琴音が呼び止めた。
「愛華さん、肩の後ろにカモメの……」
愛華が首を捻って肩越しに背中を見ると、シャルロッタのヘルメットに付いていたものと同じものがべっとりと付着していた。
「うわぁぁっ!」
たぶんあの時だ。会話がシリアスになった場面で、頭の上をカモメがかすめていったのを思い出す。シャルロッタを笑えない間抜けだ。
「琴音さん!このことは絶対に誰にも言わないでください!お願いです!」
もしシャルロッタの耳に入ったら、なにを言われるかわかったもんじゃない。間違いなく来年のオーストラリアGPまで笑いネタにされるだろう。
琴音は悪どそうな微笑みを浮かべて、懸命にお願いする愛華を眺めている。
「愛華さんにも運がついてますね」
琴音さんをいい人だと思ったのを、全部撤回しようと思った。




