レースは静かに進んだ
マレーシアでのMotoミニモ人気は、欧州でのそれと些か違いがある。
本場ヨーロッパで人気の理由の一つには、自転車レースのような集団による駆け引きがある。
しかし自転車ロードレース自体があまり浸透していないこの地では、高度なチーム戦術よりも、自分たちが普段乗っているものに近い排気量のオートバイで行われるレース、という面が大きい。主役が女性のライダーというのも人気の大きな理由ではあるが、これは他の地域でも同じだ。むしろライダーより、自分の乗っているバイクメーカーを応援する傾向が強い。
一旦、エレーナたちに抜かれ脱落した琴音が、バレンティーナたちを引っ張って再び先頭集団に迫っている意味を、正確に理解している観客はそれほど多くはなかったが、トップグループの中心であるストロベリーナイツのペースが落ちたと思い、この地域でトップシェアを誇るヤマダユーザーたちからは、期待の歓声があがった。
実際には、愛華とスターシアに牽引された先頭集団は、ベストに近いタイムでずっと周回を重ねている。
シャルロッタの真後ろに入り込み、集団の中で最も負担の少ないポジションを陣取っていたラニーニとナオミにとっても、決して気を抜けないほどのハイペースだ。もっとも彼女たちはこの集団の中では部外者であり、ペースがどうあろうと気を抜く事は出来ない。突然のスパートで置き去りにされる心配がないだけ、安心して走れるとも言えるのだが。
典型的なアシスト職人であるマリアローザとテストライダーをしていた琴音の走りは、はっきり言って地味で、Motoミニモのレースをあまり見慣れていない素人目にはあまり速いライダーには見えない。
それに比べ、スターシアの思わず見惚れてしまうライディングや、それに一生懸命合わせて走る愛華の新鮮さは、詳しくない者でも心踊るものがある。
それだけにヤマダがストレートスピードで上回っている事には、ヤマダの性能の高さが強調された。
だが、先頭集団の一番後方で追い上げを警戒していたエレーナは、単にヤマダのマシンが速いだけではないのを承知していた。
速いバイクを速く走らせる。
あたり前の事だが、それはある意味遅いバイクを目一杯走らせるより大変な事だ。
大きなエネルギーをコントロールするには、より繊細なテクニックが求められる。
ストレートを速く駆け抜けるには、コーナーリングから緻密な組み立てをしなくてはならない。
速度が速くなれば、ブレーキングもハードになる。
どんなバイクでも限界まで突き詰めるには、それぞれの難しさがある。
今スターシアは、スミホーイが安定して走れるぎりきりのラインで走っている。
愛華は少し無理をしているかも知れない。だが彼女の集中力なら心配ない。
シャルロッタを前に出せば、もっと速く走れるだろうが、あいつの集中力がどこまで続くか?追う相手がいなければ、やつのモチベーションはすぐに途切れ、自爆しかねない。
エレーナは、自分とスターシアで先頭を引っ張ることも考えたが、愛華を後ろに下げた場合、追いつかれた時に心許ない。後方には、まだバレンティーナとケリーという古狐が控えている。
バイクの性能を含めた総合的な戦力は、ほぼ互角とみていいだろう。
(これでフレデリカまで居たら、やばい事になってたな)
エレーナは独り苦笑いをしたが、レースに「~たら、」「~れば、」はない、と打ち消した。
フレデリカがい居たら居たで、向こうにも別の問題が生まれたろう。
居ない敵よりも、もう一つの厄介な敵がいる。ブルーストライプスだ。
ラニーニとナオミは自分たちの間に入り込み、ハンナとリンダはヤマダの後ろにへばりついて、虎視眈々としている。
確かに戦力的には一歩劣るが、ごちゃごちゃとやり合っている間に漁夫の利を攫われかねない。
(やはりハンナは抜け目がないな)
エレーナは、この段階でリスクの高い賭けは避けたかった。
トップグループは、三つのチーム12人という大集団になっていた。
セパンサーキットは、二本のストレートが背中合わせのように平行して並んでいる。長いバックストレートから180度方向転換してメインストレートに帰ってくるというゴール前に直線が連続する特異なレイアウトだ。
つまりゴール直前の競い合いになった場合、ハイパワーでトップスピードに優るヤマダが圧倒的に有利となる。スミホーイも前戦から導入した新型カウルのおかげで、トップスピードの差は小さくなっているが、この密集集団ではやはりパワーの差がものをいうだろう。
ストロベリーナイツとしては、ラストラップを待たずにスパートをかけ、一気に勝負をつけたかった。あまり早すぎても今回のヤマダの好調さを考えると、巻き返される恐れがある。逃げに失敗すれば、マシンもメンタルも消耗させられるだけだ。特にシャルロッタのメンタルは、粘りがない。
ヤマダ側にしても、計らずもエレーナと同じ目論みをしていた。
あまり速い段階で仕掛けても、簡単には逆転出来ないだろう事はわかりきっている。混戦になれば、即席のチームである自分たちが不利となるのは目に見えている。それはバレンティーナも強く主張した。
バレンティーナは、泥試合になった時の愛華のしつこさを、畏れとも言える感情で警戒していた。
愛華に対して特に拘りを持っていないケリーも、ハンナたちブルーストライプスの動きまで考慮すれば、勝負は一瞬で決めたいところだ。
望ましいのはゴール直前のストレート勝負であったが、その前にストロベリーナイツがスパートするのは間違いない。シャルロッタのスピードであれば、残り一周でも逃げ切られる可能性がある。おそらくエレーナはラスト2ラップ辺りで勝負に出るとケリーは読んだ。それまではこちらも出来るだけ消耗は避けたい。そこから混戦になっても、最後のバックストレートまで射程圏内のポジションさえ確保していれば、十分勝算はある。
ヤマダのライダーであれば誰がトップであろうと構わない。ケリーにとっては、ヤマダの強さをアピールする事が目的であるのだから。
琴音は、周囲のライダーを注意深く観察し、彼女たちの心理を探っていた。
生まれてすぐに重い病気に感染し、聴覚を失った琴音は、人が何を考えているのか、絶えず想像するのが習慣になっていた。
読唇術をいくら覚えても、言ってることのすべてが解るものではない。解るのはせいぜい半分程度だ。彼女は足りない部分を、前後の脈絡、相手の表情やしぐさから心理を読んで補っていた。
表情や体の端々に表れる感情は、言葉以上に正直だ。ライディング中は顔の表情は見えないが、体の動きや位置関係などから、ある程度予想する事が出来た。
まわりにいるライダーたちは何度もビデオで繰り返し研究してきた。実際のレースも観ている。実際に対戦するのは初めてだが、頭の中では何百回と手を合わせてきた。
次の動きが予想出来れば、すべき事がわかる。
琴音にとってレースは、将棋やチェスと同じだ。何手も先を読み、詰んでいく……。
自分は駒の一つ。でも只の捨て駒じゃない……。
レースを引っ張る大集団は、序盤からの隊列を維持したまま終盤へと入っていく。
「シャルロッタ、少し早いがおまえの出番だ。ゴールまで余計なこと考えず、思いきりぶっ飛ばせ。アイカはシャルロッタのサポートを。スターシアは私と後ろの連中を足止めする」
ラスト5ラップの表示が示されたメインストレートで、エレーナの指示が飛んだ。ケリーたちがまだスパートしないと見ている今がチャンスだ。
「待ってましたぁ!」
「だあっ!」
「任せましたよシャルロッタさん。でもアイカちゃんにあまり無理させちゃダメよ」
待ち侘びていた言葉に、それぞれが嬉々として答えた。
1コーナーへ、アイカとシャルロッタがこれまで以上の速度で進入していく。スターシアは二人にコースを空けた。ラニーニとナオミもそれに気づいて、スターシアの空けたラインを、後れまいと必死に飛び込む。いや、もう一人いる!
「シャルロッタ、アイカ!ラニーニとナオミ、それにヤマダの日本人がついてるぞ。気をつけろ」
まるでスパートを予想していたかのような琴音の反応には、エレーナも不意を衝かれた。
他のライダーたちは完全にタイミングを逃し、慌ててエレーナに襲い掛かってくるが、スターシアの加わった壁は、体勢の整わないアタックでは容易に崩せない。
「ご安心を、エレーナ様。こんなやつら、楽勝で振り切って見せます!」
やっと思い切り走れる歓びに、爆ぜそうなシャルロッタの声が返ってきた。
(大丈夫だ。シャルロッタとアイカなら、あの連中が策を弄する隙も与えないだろう……)
そう自分に言い聞かせつつも、一抹の不安が拭えないエレーナであった。
琴音の反応は、只のテストライダーではないとGP最多タイトルの経験が警鐘を鳴らしていた。




