沈黙の音色
シャルロッタにぴったりとマークしていたラニーニとナオミだったが、愛華が琴音をパスしたことによって、より厳しい状況に立たされた。旨くいけば、琴音が盾となって、シャルロッタを孤立させられるかも、と淡い期待を抱いたものの、やはりそう甘くはない。それどころか、エレーナとスターシアまでもが迫ってきていた。
「一旦、ハンナさんと合流した方がいいでしょうか?」
とにかく形勢は逆転した。このまま粘っても、ストロベリーナイツに挟まれた状況では勝ち目はない。ラニーニは先輩であるナオミの意見を伺った。
「ここで下がったら、たぶんもう追いつけない……。だからハンナさんとリンダが来るまで、なんとか粘ろう」
サンマリノでは、一旦は抜いたものの本気になったエレーナとスターシアに、手も足も出せずに抜き返されたナオミが答えた。
あの時の恐怖は忘れられない。でも一度はパスした。だから絶対に勝てないという訳ではないはず。勝てないにしても、ハンナさんとリンダが追いつく時間くらい稼げるはずだ。
「わかった、ナオミさん。わたしも怖いけど、あの時は、みんなのおかげでスターシアさんから逃げ切れたんだもんね。いつも無理言っちゃうけど、また今日もお願いします」
「大丈夫、ラニーニはわたしの命に代えても守る……」
ナオミの気持ちが嬉しかった。その思いに応えるためにも、絶対に負けたりしないと、ラニーニは心に誓った。たとえ女王でも、親友の愛華であっても……。
エレーナたちが先頭集団と繋がったのを見たハンナは、一刻も早く自分たちもラニーニとナオミに合流しなければと急いだ。おそらく四人揃ったストロベリーナイツは、一気にペースを上げて逃げ切りを計るだろう。
しかしハンナたちの前には、ケリー、バレンティーナ、マリアローザのヤマダ勢が立ちはだかっている。
決して遅いペースではないが、それが却って走りづらい。向こうは先頭グループとやや距離を保ちながら適当なポジションで、様子を見ているのかも知れない。しかし一刻も早くラニーニとナオミのサポートに向かいたいハンナとリンダにとっては、大きな障害となっていた。リンダと二人で突破するには、かなり厄介な相手だ。
そこにエレーナたちにパスされた琴音が下がってきた事で、強引にでも前に行かさせて貰おうと決断した時、ヤマダ勢の動きが突然変わった。
琴音がパスされるまではチョロチョロとエレーナたちにアタックしていたバレンティーナとケリーが下がり、琴音とマリアローザが前に出てペース上げ始めたのだ。
ハンナは読み違いをしていたかも知れない。琴音は脱落したのではなく、最初からチームと合流するつもりだったのだ。
シャルロッタについて行くだけでも必死なのに、後ろから愛華、スターシア、エレーナから迫られては、到底ラニーニとナオミの二人だけで太刀打ち出来るはずもない。それでもシャルロッタからは絶対に離されまいと死に物狂いで彼女の後ろのポジションだけはキープし続けていた。
愛華とスターシアが先頭に出て、シャルロッタの消耗を補いながらハイペースで飛ばす。
エレーナはシャルロッタからラニーニとナオミを引き離そうとするが、二人は頑として割り込ませない。特にナオミは、体当たりしてでもラニーニを守る意思を示していた。
「ちょっとアイカ、この二人なんとかしなさないよ!仕掛けるでもなく、ずっとあたしのあとついてきて、うっとしいくて仕方ないじゃない!」
シャルロッタは愛華に文句を垂れた。
「そんなこと言われても……エレーナさん、わたしもヘルプ入りますか?」
「構うことはない。スターシアと二人で、引っ張る事に集中しろ」
エレーナの技術と戦術なら、強引にでも割り込むことは可能であったが、今ここで無理なバトルを繰り広げるより、このまま二人を抱えたまま逃げに入った方が得策だと判断した。
ヤマダ勢もペースを上げたようだ。ラニーニたちに構っていれば、ハンナたちも追いつかれるだろう。今はシャルロッタを余計なバトルに巻き込みたくない。この二人だけなら、フル体制のストロベリーナイツであれば、ゴール直前まで粘られても、どうにでも出来る。単純な確率の判断だ。
琴音のアシストとしての能力は、長年バレンティーナのアシストを勤めてきたマリアローザからみても特筆すべきものがあった。それはフリー走行で初めて一緒に走った時点で、明らかになっていた。
彼女の後ろを走るのは、とにかく走り易い。彼女の走りに合わせるだけで、急にマシンが速くなったかと思うほどだ。彼女はYC213の性能を引き出す術を知っている。それはバレンティーナもすぐに認めた。
コミュニケーションの不自由を差し引いても、こと集団を引っ張る能力に於ては、GPでもトップクラスだと褒めあげていた。
琴音は、ヤマダYC213について、誰よりも熟知していた。エンジンや車体の特性は勿論、どうしたらフルスペックを発揮出来るか、どう乗ればタイヤの消耗を減らせるか、燃費の消費を抑えて速く走るには、等諸々・・・。
一般的なレベルの話ではない。YC213の乗り方の、コンマミリ単位の操作、荷重移動の差を知り尽くし、状況に応じた最適なライディングを具現化出来る。
一般にはYC21系の開発は、ケリーが主体となったと言われている。それは間違いない。但し当然ながらケリーだけで開発出来るものではない。
大勢の技術スタッフとテストライダー、中でも田中琴音の果たした役割は、チーフエンジニアと同等と言えるほど大きい。
まだ何も決定されていない段階、GP125のフレームに80ccのモトクロスバイク用エンジンを積んだお粗末なマシンでプロジェクトはスタートした。まだヤマダが本気でMotoミニモに参戦するか、決めかねていた頃だ。その開発ライダーに選ばれたのが、当時全日本の125クラスを走っていた田中琴音だった。抜擢と言うより、125でチャンピオン争いをするほどでもなく、体格が小柄で安定したライディングが出来るライダーというのが理由だった。
この時点でケリーはまだ参加しておらず、改良に改良を重ねて、ようやく茂木のコースでMotoミニモの予選通過タイムをきれるまでになった頃に、初めてケリーが跨がった。
勿論ケリーのアドバイスは的確で、彼女なしではこのYC21系が誕生しなかったであろう事は明らかだが、その後の開発においても、何千時間にも及ぶ地道な改良と熟成作業の大部分を、琴音が担ってきた。
琴音には、シャルロッタやフレデリカのような天才といわれる才能はない。
バレンティーナやスターシアのような華やかさも、ずば抜けた技術もない。
愛華のような身体能力も持ち合わせていなかった。
それどころか聴覚障害というハンディを背負い、全日本で上位に入ればよく頑張ったというレベルのライダーでしかなかった。
その琴音が天下のヤマダから必要とされ、世界一のバイクを作るスタッフの一人として役立つ事が出来るのが誇りであり、ライダー人生の全盛期を捧げて取り組んだ。
そして琴音のライディングも、熟成されていった。
我が子のように育ててきたこのバイクに跨がり、自らが世界の檜舞台に立っているこの悦びと誇りは、おそらく誰よりも大きなものだろう。
自分が頂点に立てる実力がないのはわかっている。だからこそ、このバイクが世界最高であることを誰かに証明してほしい。
自分のすべてを、成し遂げられる人に託して……。




