レースは弱肉強食
ラニーニは、自分がシマウマになったような気分だった。いつか観た野生動物のドキュメンタリー映像の中の、二頭のライオンに追われて必死で逃げるシマウマの姿が、自分と重なって思えた。群れの仲間たちは、助けたくても助けようもない。あわや捕らえられる直前で、向きを変えて辛うじて捕食者の爪を逃れる。それでも尚、執拗に追われ続けるシマウマ。自分は今、アフリカの草原でなく、近代的なサーキットをバイクで走っているのに……。
コーナーで追いついたスターシアは、圧倒するスピードでラニーニの外側から抜きに掛かったが、限界に近づいていたタイヤが滑り、間一髪のところで取り逃がした。
スターシアが思うように曲がることが出来ず、コースいっぱいまで膨らんだその隙に、ラニーニは再び引き離しそうと試みるが、ホッとする間もなく、今度はエレーナが襲い掛かって来る。
スターシアも狙った獲物を諦めず、タイヤが悲鳴をあげるのも構わず立て直すと、執拗に追いあげて来る。
ラニーニは、これほどの怖い思いをした事がなかった。コーナー毎に襲い掛かって来る恐怖を皮一枚で逃れ、それでも直後に新たな恐怖が襲い掛かる。
バイクレースでは、命に関わるような危険なアクシデントも少なからずある。レースをする以上、それも承知しているつもりだ。
エレーナとスターシアとは、バレンティーナのアシスト時代から、何度も対決してきた。まさか本当に殺そうとしていないのはわかっているが、どうしようもない恐怖から、ただ必死で逃げるしかない。
レースを棄てて、先を譲ったとしても赦してもらえない、生き残るには逃げ切るしかない!と、本能が悲鳴のように叫んでいる。
緩やかな高速コーナーを、ライン取りもなにもなく、とにかく早く駆け抜けようと最短距離でインをめざす。しかしエレーナは、更にそのインへと頭を捩じ込んで来た。ラニーニは夢中で突き進んだ。自分の肘が、エレーナの肘に触った感触がプロテクター越しに伝わる。心臓が破裂しそうな恐怖を味わいながらも、そのまま走り続ける。アクセルを緩めたら終わりだ。
エレーナは内側の芝に押しやられても、土埃と戦慄を舞い上げながらラニーニを追いかけて来る。
永遠に続くんじゃないかと思える恐怖に、絶望的な気分になる。
───わたしが敵うはずがないよ。助けてくれる人も、もういないんだから……
───シマウマは、絶対にライオンには勝てないから……
───どうせ食べられるなら、早く楽になりたい。全部終わりにしよう………
もうどうなってもいい……ラニーニはとうとう諦めて顔をあげた。まわりの景色を見渡すと、草原のように広々としているのに今さら気づいた。そこでちょうど、この先のヘアピンになった14コーナーを折り返して、自分と反対方向に進むシャルロッタと愛華が見えた。彼女たちは、あとコーナー二つクリアすればゴールだ。もう優勝は間違いない。ストロベリーナイツは強すぎるよ。
(あれ?ちょっと待って……、ということは、わたしもあとコーナー三つで終わりってこと?)
ここまで来て諦めるなんて、馬鹿みたいじゃないの!どうせ負けるにしたって、最後まで全力で走って負けよう。そうしないと、ここまでわたしを連れて来てくれたみんなにも、会わせる顔がないじゃない!
エレーナさんもスターシアさんも、取って食ったりしないよ、たぶん……。
ラニーニは、溢れかけていた涙を堪えて、あと三つのコーナーだけ頑張ろうと、再びカウルに頭を臥せた。
『精神力だけでは勝てない』とはよく使われる運動用具やサプリメント宣伝の常套句。きっと間違っていないと思う。競技は、才能、意欲、環境、体力、技術、マテリアルの総合力で争われる。特にモータースポーツは、環境とマテリアルの比率が大きい。
でも「最後に勝敗を決めるのは、勝とうとする意思だ」と誰だか忘れたけど有名なスポーツ選手が言ってたと教えてくれたのはアイカちゃんだった。アレクセイ監督も似たようなことを言っていた。
ラニーニは、エレーナとスターシアを従えて、深く回り込んだ14コーナーに入って行く。思いきり寝かせても、タイヤはしっかり路面を捉えてくれている。エレーナが真横に被せて来た。ジリジリと前へと進んで行くが、タイヤがぶるぶると震えているのが見える。ラニーニは更にインに寄せて、エレーナより短い距離でコーナーを抜けようとする。
エレーナも執拗に追随してきたが、リアタイヤが大きく暴れ、ハイサイドしかけた。すぐに立て直したようだが、取り敢えず生き延びた。
しかし息つく暇もなく、スターシアに並ばれる。ラニーニはインベタで回っていたので加速が遅れていた。
並んで15コーナーを通過して行く。スターシアのマシンがぐらぐらと揺れているのが目に入った。彼女のタイヤも、もうボロボロのようだ。
そして最終コーナーが迫る。
テクニックだったら負けてるかも知れないけど、マテリアルならこちらが断然優位。あとは勝ちたい気持ちの勝負!!
インを奪ったスターシアに並んで、最終コーナーに入った。
スターシアのタイヤが、フロントもリアもズルズルと流れる。それを強引にリカバリーし、一歩も譲ろうとしない。芸術的な走りでなく、なりふり構わない力づくのライディングだ。ラニーニはそれを「美しい」と思った。
互いに退かず、並んだままコーナーの頂点を抜ける。スターシアのマシンが、小刻みに揺れながら孕んで来る。ラニーニなど、まるで眼中にないかのように前だけを見つめて。
正直怖い。でもここで退いたらおしまい、ゴールはもうすぐそこ!
最後の勇気を振り絞ってスロットルグリップを捻った。
突然スターシアが下がった。ラニーニは理由も解らぬままストレートを駆け抜け、先にチェッカーフラッグを受けた。シャルロッタ、愛華に続いての三位表彰台に滑り込んだ。
速度を落とすと、スターシアが近づいて来て、握手を求めた。ラニーニもグリップから手を放してそれに応える。
「いいレースでしたね。見事な走りでした」
いつもの優しいスターシアだった。しかしラニーニには、素直に受け入れられない。迷ったが、やっぱりはっきり訊いておきたかった。
「あの……、最後は譲ってくれましたよね。どうしてですか?」
スターシアは一瞬きょとんとしたが、思い当たったのかニコリとする。
「譲ってなんていませんよ。あなたが実力で私に勝ったんです」
「嘘です。あのままアクセルを開け続けてたら、わたしはアウトに押しやられ、行き場を失っていました。スターシアさんはわざと負けてくれました。そんなの……」
そんな勝ち方望んでいなかったと言おうとして言葉につまった。情けをかけられたのも惨めだったが、途中心が折れかけたのも事実だ。
「あのままアウトに押しやられたら、あなたは退きましたか?」
「それは……」
ラニーニは首を横に振った。あの時はもう、たとえコースの外に飛び出してもアクセルを緩めない覚悟をしていた。
「私のタイヤは、もうまともに曲がるのも儘ならないほど酷い状態でした。立ち上がりの加速競争になれば、負けるのは確実です。だから最終コーナーで、あなたを怯ませるのに勝負を賭けたのです。でもあなたは退きませんでしたね。その時点で私の負けは決定したのです。それ以上危険を侵す必要はありませんでしょう?」
ラニーニの胸に、熱いものが込み上げてきた。
「………本当にそう思いますか」
確かにスターシアさんのタイヤは終わっていた。
それでもあの厳しい状況の中で、あれほど自分を追いつめた。そして最後は潔く負けを認め、わたしの安全まで気づかってくれた。ライダーとしても人としても、レベルがちがいすぎる。そんな人に勝てたなんて、やっぱり信じられない。
「私の完敗です。負けた者に何度も言わせるなんて、よくない趣味ですよ」
スターシアがいたずらっぽく微笑む。その笑顔に、嘘やおだては感じられなかった。
ラニーニの瞳から、ずっと堪えていた大粒の涙が零れた。
そこへエレーナもやって来る。
エレーナもラニーニに握手をしようとして、彼女の頬が濡れているのに気づいた。しかもなんか、負けたのに、スターシアだけいい雰囲気を出している。ちょっと面白くない。
「スターシア!負けた腹いせに、ネチネチと言い掛かりをつけてイジメていたのか!」
「ちがいます!」
スターシアが即反論する。彼女がそのような人間でないのは、エレーナが一番よく知っているはずだ。明らかな言い掛かりである。
「情けないにも程がある。恥を知れ!そしてラニーニに謝れ」
ラニーニだけが戸惑って、おろおろした。なにかスターシアさんのために弁明しなければと思うのだが、なんと説明すればいいのかわからない。
「まったく、バカはシャルロッタだけで沢山だ。すまない、ラニーニ。私からもお詫びする。それから、今日のラニーニは、本当に強かった」
「………」
ラニーニは、涙に濡れた頬を緩ませて、最高の笑顔を二人に向けた。
「二人とも、ありがとうございましたッ!」
一番素直な気持ちが、声になった。




