それぞれの戦い
見通しのよい曲がり込んだコーナーで、エレーナは後続を窺った。ちょうどブルーストライプスがケリーたちをパスしようとしていた。
「あらあら、バレンティーナさんたち、もう少し足止めしてくれると思ったんですけど。どうします、エレーナさん。迎え討ちますか?」
同じように後ろを確認したスターシアが尋ねる。自分たちはあっさり抜いておきながら、ブルーストライプスにだけは足止めを期待するとはずいぶん虫がいいとは思ったが、やはりそうはいかないようだ。
「ハンナたちはずっと力を温存してきている。エンジンもタイヤもこちらより優位だ。訊くまでもない、逃げるぞ」
逃げると言うと弱気に聞こえるが、積極的にバトルを挑む事だけが勝負ではない。自転車レースでも陸上競技の長距離でも、逃げを仕掛ける方が自信と勇気が必要だ。見えない背後から追われるより、相手をよく観察して、ゴール前で勝負を仕掛ける方が遥かに戦い易い。逃げを仕掛けるのは、余程地力に自信があるか、或はスプリント勝負が不利な場合だ。
エレーナが逃げを選択したのは後者の理由からである。ここまでエレーナとスターシアは、ヤマダの二人を追いつめ、激しいレースを繰り広げてきた。ペースこそ速くはなかったものの、かなりタイヤと燃料を消耗している。バトルは効率は悪い。燃費も悪くなる。これ以上無駄の多い走りをすれば、ゴールまで辿り着けない可能性もある。その上相手は万全のマシンで数も倍いる。囲まれたらどうにもならなくなる。
スターシアは少し残念そうな表情を浮かべたが、それをヘルメットの奥に隠し、一切の無駄を削ぎ落とした最高のテクニックでエレーナを引っ張り始めた。
「風避けは交替でする。あまり一人で張り切るな」
「まだゴールは先です。万全のハンナさんたちには、いずれ追いつかれるでしょう。そのときはエレーナさんががんばってください」
「私に押しつけるな。スターシアにもラニーニの前でゴールしてもらう」
「ラニーニさんを二人でいじめるのは気が進みません。それまでは私が頑張りますので、あとはよろしくお願いします」
「そんなしおらしいこと言って、また自分だけやさしいおねえさんキャラ狙っているんだろう。だいたい虐められるのは私らの方だ。スターシアが抜けたら四対一だぞ」
「それでもエレーナさんがいじめているようにしか見えないでしょうね」
会話だけ聞いていれば、まるで難儀な役割を押しつけ合って、真面目にレースしていないように思えるが、二人にとってはこれが平常運転、否、集中の高まっている証拠でもある。
二人とも意外と照れ屋だ。特にエレーナは、愛華やメカニックたちの前では、どんな厳しい状況にあっても熱い言葉でその気にさせるのだが、スターシアに対しては、熱く語るのが気恥ずかしくなる。長年連れ添った夫婦が今さら情熱的な言葉を口にできないようなものかも知れない。
(そういうところは、シャルロッタさんと同じでツンデレですね)
ツンデレは弄るのが楽しい。スターシアも敢えて憎まれ口で応える。そんな中でも、自分の役割への責任感と絶対的な信頼関係があるからこそ、最強と言われるコンビネーションが魅せられる。
「役に立てなくてゴメン。追いついたら死んでも道をつくるから二人とも頑張って!」
交替でチームを引っ張るラニーニとナオミに向かって、引っ張られるだけのリンダが呼びかけた。
「大丈夫です。エレーナさんたちのブロックを抉じ開けるには、リンダさんのパワーが必要ですから!頼りにしてます」
ナオミの後ろに廻ったラニーニが答える。理想はエースのラニーニは、最後の競り合いまで温存して置きたかったが、タイムを詰めるには、小柄なラニーニとナオミが前に出る必要があった。リンダもテクニックの劣るライダーではないが、スピードを稼げるタイプではない。残り少ない周回で、エレーナ&スターシアコンビに追いつくには、エースを温存してはいられない。届かなければすべて無意味だ。
ハンナも同様に、エースにまで先頭引きをさせざる得ないのが歯痒い。しかし若い二人は不平を言うことなく、淡々と前を交替しながらチームを引っ張り続けた。追っている最強コンビの壁を突破するには、リンダの突進力とハンナの指揮がなくては不可能なのは全員わかっている。一人一人の実力では、エレーナとスターシアに及ばない。ランキング首位となって実力も伴ってきたラニーニだが、二人には未だ勝てる気がしない。それでも四人がそれぞれのベストを尽くせば、必ず勝てるチャンスはあるはずだ。
優勝に届かないのはわかっている。しかしシャルロッタとの獲得ポイントの差は、最小限に抑えたい。
残り五周、終盤にしてナオミがレース中の最速タイムを記録した。四人ともトップのシャルロッタたちより速いタイムで差を詰めている。エレーナとスターシアに、じわじわと近づく。
ラニーニと共に先頭を引くナオミは、最後の力を振り絞っていた。
少しでも速く、少しでもラニーニの負担を減らそうと、より長く、実力以上のスピードでマシンを走らせてきた。
疲労を無視する。それでも汗が目に滲みると、たちまち意識が全身の疲労に呑み込まれそうになる。
───速く走ろうとしてはだめ……
バイクに乗り始めた頃、父親に言われたことを思い出す。
───無駄な動き、無駄な力を取り去っていきなさい……
彼女は全身の筋肉を意識して、彫刻を彫るように余計な動きを削っていく。
そしてその意識すら消えたら、タイヤを感じるんだ……
しかし実際にはその域まで辿り着けない。もう一度ゆっくり呼吸をしながら父親の教えを反芻した。
ナオミの父親は、日本文化が大好きだった。欧米のバイク好きの中には、日本製のバイクから日本文化全般にまで興味をもつ者も少なくない。彼女の父親もそんな一人だった。オートバイから始まり、お酒、盆栽、武道、……、禅へと、少し怪しげな、それでも日本人より深く日本文化にのめり込んでいった。彼のたどり着いた結論は、「日本のバイクが優れているのは、禅の精神が宿っているから」だった。ナオミという名前も、日本人っぽいという理由で娘につけた。欧米でもある名前だが、スペインではなかなか珍しい。恥ずかしいと思った時期もあったが、今では父親に感謝している。ナオミも神秘的な日本が大好きになっていた。
愛華に初めて出会ったとき、欧米人にありがちな、妙なフィルターのかかった日本女性のイメージとの違いにがっかりした。しかし愛華のレースぶりを見るたびに、父親から聞かされていた「サムライ」のイメージと重なってドキドキした。愛華は「武士道」も「禅」も、“ぜんぜん”わかっていないようだったが、紛れもなく彼女は「サムライ」の血をひいていると感じた。誰にも言ってないが、カッコいいと思った。
───わたしは青い眼をしたサムライ。日本のサムライにだって負けない本物のサムライになる!
バレンティーナとシャルロッタに挟まれた世代は、どうしても評価が低くみられがちだ。二人が余りに目立っていたので、他のライダーの名前が取り上げられる機会がほとんどなかったからだ。ラニーニもナオミも、これまで決して高い評価はされてこなかった。
評価というのはあくまでも主観であり、本当の実力を正しく表すものではない。それがわかっているアレクセイ監督は、正確に資質を見抜き、無名だったナオミを、翌年にはラニーニを名門ブルーストライプスに加えた。
ストロベリーナイツに唯一対抗できる強豪チームに入っても、二人の評価はなかなか上がる事はなかった。むしろバレンティーナの陰に隠れて、手堅く仕事を果たしてもほとんど注目される事はなかった。二人とも自分の仕事をこなす事に専念し、他人を押し退けてまでステージ中央に立とうとしなかった。
しかし今シーズン、大方の予想を裏切りラニーニは今、チャンピオンに一番近い位置にいる。そしてナオミもまた、ようやくバレンティーナの陰から抜け出し、その実力を一般の人々にも見せつけようとしていた。
二人の飛躍に、愛華の存在が大きく影響していることは、当の愛華はまったく気づいていないのだが。
愛華はここにきて、フレデリカの立ち上がりが遅れがちになってきているのをチャンスと捉えた。いつまでもフレデリカと一緒に走っていては、いつシャルロッタが対抗心を燃やしはじめるかわからない。やはりフレデリカには危険なものを感じる。ここで一気に突き放してしまいたい。
「シャルロッタさん、あと三周でゴールです。ラストスパートいけますか」
サインボードの情報では、四位のスターシアさんたちとは20秒以上の差が開いている。合流はできないが、ラニーニちゃんに追いつかれる心配もない。唯一の不安は、シャルロッタさんのおバカな顔が出てくることだけだ。彼女が余計なことを考える暇がないほど急き立てるのが、最大の安全策に思える。
「あたり前よ!あんたこそ、ちゃんとついてくるのよ!」
愛華は絶対について行くと誓った。
エレーナが8コーナーに差し掛かると、コースの外側でフレデリカがスポンジバリアにマシンを立て掛け、コースマーシャルに促されてフェンスの外側へと歩いていくのが見えた。マシンもライダーも、転倒した様子はない。
どういう理由かは知らなが、これで絶対にラニーニを前に行かせる訳にはいかなくなった。自分たちが抜かれれば、ラニーニは表彰台だ。たとえシャルロッタが優勝しても、手放しで歓べない。もちろんシャルロッタと愛華はよくやったと褒めてやりたい。しかし自分たちが抜かれたのでは、二人に会わせる顔がない。
「スターシア、なんとしてもこのポジションを守り切らなくては、シャルロッタになに言われるかわからないぞ」
「そうですね。どうやら手加減していられないようです」
スターシアのすぐ後ろにまで、ナオミとラニーニが迫っていた。その背後には、ヘルメット越しにも伝わるやる気をたぎらせたリンダと、冷静にこちらを観察するハンナがいる。
「こんなに早く追いつかれるとは、彼女たちのスピードを過小評価していたようだ。ラニーニだけでなく、ナオミも速くなってる。手加減なんてしていられないぞ」
「だからそう言いました」
エレーナとしては、愛華みたいに「だあぁ!」と答えて欲しかった。
残り二周半、エレーナは守り切ると決意し、ハンナはラニーニを絶対に突破させる覚悟をした。




