愛華の初体験
ゴールまでどうやって走ったのか、愛華自身あまりよく憶えていない。
スターシアたちの前に出てからゴールまでの、一周にも満たない距離が、すごく長い時間だったようにも、一瞬で終わってしまったようにも思えた。
初めての雨でのレースの不安も恐怖も、まったく消えていた。途中何台かの周回遅れをパスした記憶はある。ただそれもはっきり憶えてないほど、ラニーニとの競争に夢中になっていた。
チェカーフラッグが見えたとき、勝ち負けよりもこれで終わってしまうことがさみしかった。
愛華もラニーニも、可能な限り体を小さく折り畳んで、ほとんど下を向いたままフィニッシュラインを通過した。
速度を緩め上体を起こしたのも、二人揃っていた。互いに顔を向け、微笑んだ。
「………疲れたね」
「うん、すごく疲れた」
どちらが先にフィニッシュラインを通過したのか、二人にもわかっていなかった。知るのがなんだか怖い。その瞬間まで、絶対に勝ちたいと思っていたのに、ゴールした途端、相手の優勝を願っている自分に気づいた。
負けを認めるわけでも勝ちを譲りたいわけでもない。体操でオリンピックをめざしていた頃から「精一杯やったから負けたけど悔いはない」なんてのは、負け惜しみだと思っている。今でもそれは変わらない。
互いに一歩も譲らない、マシンも体もぶつかり合うぎりぎりの競争をした。どちらかがミスをすれば確実に自分も飛ぶ中での信頼関係。一歩間違えば、命にも関わる緊張感を共有した絆……。それもあるけど少し違う。シャルロッタさんやスターシアさんエレーナさんたち同じチームの仲間への信頼とは別の、負けたくない相手なのに、あたり前に信じているとでも言うんだろうか。
きっと上手く言い表すことなんか出来ないけど、ラニーニちゃんこそ表彰台の頂点に立つに相応しいんだ、と思う。
矛盾してると自分でも思う。愛華自身不思議な気持ちだ。
自分は能力のすべて、いや能力の限界を超えて走った。たぶん今までで一番の走りだったと思う。それなのにラニーニちゃんは一歩も遅れなかった。それどころか自分より上の走りをしていた。フィニッシュラインを越えた瞬間が一緒でも、ラニーニちゃんの方が強かった。
そしてラニーニも、愛華と同じことを考えていた。
どちらが先にゴールラインを通過したかより、アイカちゃんの方がすごい走りをしていたからアイカちゃんが称賛されるべきだと。
ハンナとスターシアが追いついて、どちらが勝ったのか尋ねようとしたが、二人の様子をみてやめた。そして二人に「お疲れ様」と言った。
大勢の観客が集まる観戦ポイントの何ヵ所かに、大型のスクリーンが設置されていたが、そこにもレース結果はまだ表示されていなかった。二人のタイムは百分の一秒まで同タイムで、それ以下は計測器の取りつけ位置などで誤差があるため写真判定中、と表示されていた。その後も優勝者のわからないままゆっくりとウィニングランをまわり、後続でゴールしたライダーたちが二人を称えては追い越していった。
とりあえず表彰台は確定なので係員に導かれ、愛華とラニーニ、三位争いでハンナに競り勝ったスターシアが三位までの入賞者エリアにマシンを入れたときアナウンスが入り、大型スクリーンに『WINNER Aika Kawai』の文字が映し出された。
一瞬の静寂のあと、サーキット中が歓声に包まれた。雨の中、ストロベリーナイツのファンだけでなく、ブルーストライプスやジュリエッタの旗を振るファンも一緒になって、拍手とホーンやバグパイプを鳴らして愛華の初優勝を祝した。ヤマダの関係者までもが、日の丸を翻して愛華の優勝を歓んでくれていた。日本人のGP優勝は久しぶりだ。
しかし愛華には未だ実感が湧かない。
「おめでとう、アイカちゃん!遂に初優勝だね」
ラニーニが、まるで自分が優勝したような嬉しそうな笑顔で声をかけてきた。愛華は胸がチクリと痛んだ。
「ラニーニちゃん……、わたし、勝っちゃたの?」
「そうだよ、初優勝だよ!………どうしたの?うれしくないの?」
「でも、わたしなんかよりラニーニちゃんの方が……、わたし、スタートでミスしたのに、雨とか、たまたま運がよかっただけで、」
「そんなのわたしも一緒だよ。ジャンプスタートでピットスルーのペナルティ受けたのが逆にツイてたんだから」
愛華はこの時初めてラニーニがペナルティを受けてたのを知った。
「そうなんだ。でもわたしラニーニちゃんがいなかったら、レース諦めてた」
「わたしだってアイカちゃんがいなかったらあんなに追い上げられなかったよ」
「でもやっぱり」
「いい加減にしなさい、アイカちゃん。日本では謙遜するのが美徳かも知れないけど、そこまで自分の勝利を否定するのは、ラニーニさんに失礼なだけでなく、アイカちゃんのために死力を尽くした私や采配したエレーナさん、完璧な仕事をしてくれたメカニックの皆さんをも否定することですよ」
二人の会話を横で聞いていたスターシアが、愛華を諭すように注意した。
「ご覧なさい」
スターシアが顔を向けた方向には、フェンスを乗り越えんばかりの大勢の人たち。その一番前で、ミーシャくんが、ニコライチーフもセルゲイおじさんも、チームスタッフみんなが早く愛華を祝福したくて待ち構えている。
「今日のレースは確かに神様の気まぐれもあったかも知れません。でもそれはみんな同じ条件です。幸運もあるでしょう。その中でアイカちゃんもラニーニさんも精一杯走りました。でもそれが出来たのは、いろんな人たちのおかげです。それを忘れていませんか?」
そうだった。自分一人で勝ったんじゃない。ライバルのラニーニちゃんを含め、みんなが自分を走らせてくれた。いつも自分が願っている思いを、みんなが自分に向けてくれたから勝てたんだ。みんなのために胸を張らなきゃいけない。
顔を上げると、スターシアが頷いた。堂々と胸を張って周りを見回す。たくさんの人たちが愛華を見てる。そしてコントロールタワーを見上げると、その上にある三本のポールをが目に入った。あの真ん中の一番高いところに日の丸が揚がるんだと思ったら、突然感激が込み上げてきた。目から涙が溢れてくる。それでも前を向き、涙を拭いもせずラニーニと向かい合った。
「ラニーニちゃん、今日はありがとう。ラニーニちゃんに勝てたのは、わたしの一番の誇りだよ!」
「わたしもアイカちゃんと競い合えたことは誇りだよ。でも次は絶対負けないから!」
「またわたしが勝つから!」
二人は固く握手をして再戦を誓った。
「ラニーニさんと称え合うの終わったら、皆さんにも挨拶しなさい」
「だあっ!でもその前に」
愛華はヘルメットを地面に置くとスターシアに抱きついた。
「スターシアさん、今日はありがとうございました。勝てたのはスターシアさんのおかげです。わたし、そのことは一生忘れません」
スターシアは一瞬戸惑ったが、幸せそうな笑みを浮かべて愛華の頭をやさしく撫でて心の中でつぶやいた。
(私も忘れないわ。アイカちゃんの初めての経験のパートナーを務めたのは私なのよ)
幸いスターシアの危ない心の声の聞こえなかった愛華は、チームスタッフの前に向かい、
「皆さん、ありがとうござい、わっ!」
愛華が言い終わらないうちにフェンスから上体を乗り出したニコライに抱きしめられた。ミーシャやセルゲイおじさんまでもが 「Поздравляю(おめでとう)!」 と言いながら愛華の肩や背中をぽんぽんと叩く。
男の人とこんなに密着したのは初めてだ。ニコライさんからは、革ツナギじゃなかったらヤバイんじゃないの?っていうほど強く抱きしめられ、セルゲイおじさんは愛華の髪をクシャクシャにする。ミーシャくんが顔を近づけたと思ったら、ほおに口を押しつけられた!えっ、今のって、もしかして初めての……?でも悪い気はしない。今日は特別だ。
今日は初めてが多すぎる。振り返ると、スターシアさんとラニーニちゃんが不満そうな顔で睨んでいた。




