純潔のアイカ
エレーナとシャルロッタがようやくピットに辿り着いた時には、そこは怒声と罵声が飛び交う修羅場と化していた。
各チームのピットでは、スリックタイヤを装着して準備していた交換用マシンを慌ててレインタイヤに嵌め直すメカニックたち、「早く作業を進めて!」とかな切り声をあげるライダー。中には待ち切れなくて、そのままもう一度コースに戻るライダーもいる。そこへエレーナたちのように、数周前にスリックに代えたばかりのライダーたちまでが、神経をすり減らした状態で次々に入って来る。
係リの制止を無視して発進したライダーが、なんとか辿り着いてきたライダーと接触した。
ピットロードに二台のバイクが転がり、ぶつけられたライダーが相手に取っ組み掛かる。ぶつけたライダーはそれを振り払い、自分のバイクだけ起こして走り去ろうとするのを、もう一方がハンドルを蹴って再び転ばせた。
メカニックたちがとび出して両者を抑えつけるが、二人とも相手を罵り続けている。
こんなところでリタイヤさせられたんでは堪らない。エレーナはシャルロッタに近づくマシンがいれば、ぶつけてでもガードする覚悟で自分のピットまで辿り着いた。
「一応雨用のセッティングをしましたが、細部のチェックが終わってません。気をつけてください」
ニコライが注意を促しながら、レインタイヤに履き替えた汚れの残るマシンをエレーナに託した。
ニコライの仕事は信用している。それに先ほどまで走らせていたマシンだ。大きな問題はないだろう。野戦病院のようなピットで完璧を求めても始まらない。どんなに細かくチェックしたつもりでも、見落しのリスクはゼロには出来ない。
「わかっている。スターシアとアイカは?!」
「ハンナとラニーニと同時に出て行きました。トップはフレデリカとケリーです。出て行く時は20秒ほど差がありましたが、どんどん追い上げています」
「ハンナたちも一緒か?」
「四人とも固まって走ってます。モニターで見る限り、まだバトルは始めてないようです」
ニコライの表情は、どこか愉しそうに見えた。
(スターシアのやつ、大事な目的を忘れているようだな。まあ、私でもそうするだろうが……)
本音を言えば、自分が代わりたいくらいだ。しかしエレーナには、チーム監督としての大事な仕事がある。
「シャルロッタ!行くぞ。濡れるのが嫌だとか泣き言は許さんからな!」
「ダァーッ!」
八つ当たり気味のエレーナの怒鳴り声に、奇妙な返事が返ってきた。シャルロッタも下僕の活躍を聞いて、居ても立ってもいられないのだろう。
だが発音が悪い。『だあっ!』と言え!それでは日本のプロレスラーだ。
エレーナまでロシア語の発音から離れていた。
フレデリカとケリーは、共にアメリカのダートトラック出身で、滑る路面には慣れている。ダートとウェットアスファルトとでは、滑り方が違うので若干感覚の修正を必要としたが、類い稀な才能で、すぐに順応した。
二人は、ダートトラックレースよろしく、コーナー入り口で揃ってイン側の脚を突き出し、バランスと突然のスリップダウンに対処した。
「GPに来てまでこんなクレージーな走り方させられるなんて、思ってもみなかったわ」
「なかなか様になってるじゃない。最近はMotoGPでもこういうの、流行ってるらしいよ」
ダートレースの経験も、遥かにフレデリカを上回っているケリーであったが、ロードレース本番でダート乗りするのは初めてだ。MotoGPで脚を出すのとは、理屈が違う。
(それにしてもこのコの常識はずれの才能には、いつも驚かされるわね。大事に育てれば、本当にシャルロッタの対抗馬になれるわ)
ケリーの悩みは、彼女が余りにも才能が有りすぎる事にあった。フレデリカの器は ケリーの唱えてきたライディング理論からはみ出すものだった。
それならそれでいい。技術に絶対はあり得ない。より速い技術を解析し、新しい理論を打ち立てるだけだ。
しかしフレデリカのライディングは、彼女の才能あってのものだ。より速く走らせようとすれば、彼女専用のバイクを必要とする。現在でも、彼女しか乗れないフレデリカスペシャルと呼ばれるマシンになってしまっている。
マシン開発を彼女に合わせれば、アシストたちは置き去りにされる。しかもフレデリカは、手首に爆弾を抱えている。開発は、彼女一代限りで終わってしまうだろう。フレデリカのテクニックは、決して主流にはなり得ない。
常識からとび出した才能の為に、膨大な時間と資金と労力を費やしていいのか、彼女が居なくなったあと、ヤマダの技術は方向違いに向いている可能性がある。
ケリーの悩みは、かつてエレーナがシャルロッタに抱いていたものと共通していた。
(今後の事は、今考えるべきでないわね。今はこのレースに集中すべきだわ)
シャルロッタが脱落した今、このコンディションでヤマダのパワーは生かせないにしても、自分たちに届く相手がいるとは思えない。だが好事魔多し、転がり込んだ優勝のチャンスを危うくするのは、競い合える相手のいなくなったフレデリカの散漫だ。
ケリーは彼女の競争心を刺激し続けようと全神経を集中してプッシュした。
この瞬間にも、フレデリカやシャルロッタとはまったく違うタイプの才能が、じわじわと迫っているとは想像もしていなかった。
ラニーニとハンナ、愛華とスターシアの四人は、まるで同じチームのようにぴったり揃って走っていた。いや同じチーム以上と言える。雨のレースは、前車のあげる水飛沫で視界が悪く、同じチームでもスリップストリームは余り使われない。しかし彼女たちは、ヘルメットをカウルに押し込み、レースのカーテンをひいたようなスクリーン越しに、ぴったりと前のシルエットを追っていた。
フレデリカやシャルロッタとは対極の、完成されたライディングは雨の中でも安定している。互いに知り尽くし、そのテクニックを信じあっている者同士だからこそ出来る雨の中の特急列車。
ハンナは水煙を巻き上げて走るフレデリカとケリーの姿を、ついに捉えた。
(どうやらここで、私は特急列車から途中下車させられそうね)
シャルロッタ並みの才能と変則的ライディングのフレデリカ、現役ではエレーナに次ぐ経験と優れた技術を持つケリーの二人を相手に、真っ直ぐなラニーニと二人で挑むだけでも大変だ。その上アイカとスターシアも、ここからは自分たちに本気で仕掛けて来るでしょう。シャルロッタのラニーニとのポイント差を低く抑えるには、ラニーニの順位を落とすのがセオリーなのだから。
(貴女たちにも降りてもらうから)
ハンナは、自分を盾にラニーニを前に行かせる覚悟をした。上手くいけば、ラニーニだけ単独で逃がせる。
隙の多いフレデリカを狙ってアタックを始める。しかしフレデリカのライディングは、上手くタイミングが掴めない。更にはケリーがそれを予測して割って入って来る。只でさえ守る方が有利な雨の中の攻防。やはり一筋縄ではいかない。
ケリーは些か驚かされていた。シャルロッタでもエレーナでもなく、この四人に追いつかれるとは思っていなかったからだ。
驚きはしたが、脅威とはならない。両チームの事情はわかっている。
少なくともストロベリーナイツの敵は自分たちではない。ラニーニの前にいる限り、むしろ味方してくれるはずだ。
ハンナが、もう一度仕掛ける。素早くケリーがハンナのラインに寄せてきた。
(やはり読まれてるわね)
そう思った時、愛華が空いたケリーのインにとび込んで行くのが見えた。予想外の愛華の行動には、ケリーも本気で慌てたようだった。その隙にラニーニも、ハンナとケリーの間をすり抜けてフレデリカに迫った。愛華とラニーニに挟まれたフレデリカは、一時的にパニクった。ケリーが落ち着かせようと気をとられ、後方への注意が逸れたのをハンナも見逃さない。気がつけば一気に四台をパスしていた。
(いけない!出すぎたわ)
慌てて振り返ると、スターシアが真後ろに付いて、愛華とラニーニを従えていた。
愛華とスターシアと一緒にトップを追っている時はハンナも楽しかった。スターシアのライディングは芸術的で、愛華もすばらしいライダーに成長した。一緒に走っていて気持ちよかった。
しかしこれはレースだ。誰もが勝ちたいと願うが、競争である以上、勝者と敗者に分かれる。どんなに美辞麗句で飾っても、勝つ事は、相手の願いを打ち砕く事である。
(エレーナさんのチームにいるわりに、意外と覚悟が足りないわね)
愛華とスターシアの甘さに感謝して、もう一度振り返って自分の過ちに気づいた。
スターシアからは、いつもの穏やかな雰囲気は感じられない。それどころか、並んで走る愛華とラニーニの二人からは、純粋な瞳を輝かせながらも、ぞわりとするような緊張感を漂わせている。
馴れ合いじゃない。この子たち、闘う事を楽しみにしてる!
(そういうこと?私たちだけで決着つけましょうって事ね。困ったものね、アイカさんもラニーニさんも。教えたはずでしょ?こういう場合は、余所のチームも利用しなさいって。スターシアさんまで熱くなって……、エレーナさんの影響かしら?いいわ、貴女たちに特別授業をしてあげましょう。身をもって学びなさい)
ハンナのヘルメットの奥から、微笑みが洩れた。




