とある魔術の溝無輪胎(スリックタイヤ)
Motoミニモでは、MotoGP同様にフラッグ・トゥ・フラッグというルールが採用されている。
細かいルールは省いて簡単に説明すれば、レインレース宣言がされると天候などのコンディションが変化してもレースは中断せず、ライダーはピットに入り、異なるタイヤを履いて用意しておいたマシンに乗り換える事が出来る。
まあいろいろ問題もあるが、以前は、レース中に雨が降り出した時などは、先頭のライダーが危険と判断すれば、そこでレースが中断された。その時点でレースが2/3消化していれば、そこでレースは成立、達していなければ残りの周回数で再レースとなっていた。何度もルール改正が行われ、年によって違うが、基本トップのライダーに決定権があり、圧倒的に優位なのに変わりなかった。
その当時のあるレースで、バレンティーナがトップを走っていた時、急に雨が降り出したが彼女はそのまま走り続け、2/3終了した時点でこれ以上は危険とレースを止め、再レースなしでレースを成立させた事があった。それから一気にアンフェアだと声が高まり、いろいろな試行錯誤を経て、完璧な解決策のないまま現在のルールに至っている。TV中継の時間的制約も影響しているのだろう。
このイギリスGPMotoミニモ決勝も、スタート時にウェットレース宣言がなされていた。つまりレース中にマシンを乗り換える事が可能となっている。
雲が流れ、雨粒も感じられなくなってくると、大勢のライダーが通るライン上は、周回を重ねる度に乾いた部分が拡がっていった。
各チームのピットは、大急ぎでスリックタイヤのマシンを用意し始めていた。
コース上には、まだ乾ききらない部分もあるが、この程度ならスリックタイヤでも走れる。さらに乾けば、ピットインのロスタイムを差し引いても、スリックの方が速くなるだろう。何よりインターミディエイトタイヤは、基本濡れた路面を走るためのものだ。ドライの路面をハイスピードで走らせ続ければ、たちまちボロボロになってしまう。
まずセカンドグループがバラけ始めた。どのみち乗り換えるなら、早めにピットに入り、少しでも早くコースに復帰した方が、優位なポジションに立てる。タイミングは賭けでもあるが、そう判断したライダーたちが、次々にピットに入って行く。おかげで愛華とラニーニは、随分走り易くなった。二人とも今のうちにポジションをあげようと、脇目も振らず走り続けた。
先頭集団では、失うもののないセカンドグループのライダーたちと違い、そう安易に賭けに出られない。
空は明るくなってきているが、雲が切れた訳ではない。気まぐれなシルバーストーンの空は、いつまた雨足が強くなるとも知れない。
チャンスである反面、致命的にもなりかねない。少なくとも、皆が同じ条件なら多少の変動はあっても、現状は維持されるだろう。慎重にならざる得なかった。
鍵を握るのは、最もタイトルに近いライダー。
ラニーニを欠いたハンナも、フレデリカに不安を抱くケリーも、シャルロッタの動きを伺った。
エレーナにも、天気ばかりは判断がつきかねない。天候は本当に回復するのか?英国名物でもあるジトジト雨、特にシルバーストーンは、ツェツィーリアと同じ遮るもののない飛行場の跡地。風が出れば、遠くにあった雲が、あっという間に真上にくる。判断を誤れば、入賞すら危うくなる。
入賞にはこだわってないが問題はラニーニだ。彼女が今、アイカと共にセカンドグループ半ばまで追い上げていることは、ピットからサインボードで知らされていた。交換のタイミングと選択によっては、タイトルの行方を左右する大きなポイント差となりえる。
「クッ、クッ、クッ、あたしの魔力が、ようやく天を動かしたようね。濡れるの嫌だから、ずっと雨止むように魔導力を送り続けていたのよ」
シャルロッタは余程雨が嫌いらしい。まあ雨のレースが好きなライダーは少ないだろうが、アニメのキャラか何かの口調を真似て、唐突に歓びを表しはじめた。
「エレーナ様、マシン交換の御指示を。スリックタイヤさえ履けば、疾風カルロスカヤの名にかけて、アルテミスの矢となり表彰台の頂点に突き刺さって見せましょう」
「疾風カルロスカヤって誰だ?アルテミスの矢?」
また意味不明なことを言っている。最近ハマってるアニメかコミックの影響だろう。コイツは能天気でいい。
だがその能天気さも、時には必要な事かも知れない。判断する材料がない以上、直感に頼るしかない。
「確かにスリックタイヤを履けば、おまえは(私を除けば)誰より速い。いいだろう!どんなイカれた頭でも、迷ってタイミングを逃すよりマシだ。今の我々には、天気を予測する知識も情報もない。おまえの魔術とやらに賭けてみるのもアリだ」
「魔術ではなく、魔導力です!その前に小声であたしより速い人いるみたいに言いませんでした!?」
「次の周ピットに入るぞ」
はっきり言ってどうでもいい抗議を無視して、指示を伝えた。別にシャルロッタの魔術を信用した訳ではない。最悪のケースを想定して対策もたてる。
「スターシア、悪いがもう少しそのまま行ってくれ」
スターシアはすぐにエレーナの意図を理解した。
「わかりました。ご期待に添えるよう、全力を尽くします」
「出来ればそうならないよう願っている」
メインストレートを通過する時、エレーナがピットに何か合図をするのを、ハンナは見逃さなかった。
「次の周にピットインね」
タイヤウォーマーを外し、すぐに乗り換える準備をしておくようにとのサインに間違いない。
「私たちもマシン交換するわよ」
自分のピットへのサインは送れなかったが、アレクセイ監督ならストロベリーナイツのピットの動きを見て、すぐに準備してくれているはずだ。
ここでヤマダ勢の動きが、二つに分かれた。ケリーとフレデリカは、エレーナの前にいたため、彼女の動きを見逃していた。スターシアはピットインの素振りも見せていない。
ケリーもそろそろマシン交換の時期とは思っていたが、エレーナ同様、天候がこのまま回復するかは判断しかねていた。
(ストロベリーナイツがこのまま行くのなら、こちらも合わせよう)
レース結果より、フレデリカをシャルロッタと対決させてやりたかった。
もう一方のユーロヤマダのバレンティーナは、エレーナの動きをキャッチ、自分たちもピットインを決断した。ケリーたちと協力するつもりがあれば、知らせることもできたが、バレンティーナはそうしなかった。
ヤマダに唯一の勝ち星をもたらしているものの、いわく付の一勝だ。バレンティーナの立場は、ヤマダ内でも厳しいもののとなっている。契約は二年なので、来年のシートは確保されているが、ヤマダは今シーズンの失策から規模を縮小して、五人程度の単一チームに集約する方針らしい。人気も成績も低迷しているバレンティーナは、エースの座を保証する結果が是が非でも必要だった。
最終コーナーが近づき、エレーナとシャルロッタがピット入り口に向かうラインに寄せた。後続もそれに続く。
しかしハンナは、スターシアがフレデリカ、ケリーと共にそのまま走り続けようとしているのに気づき、咄嗟にラインを修正した。
「ナオミ、リンダ!私はもう少し走り続けるから、あなたたちはピットでマシン交換して!それからアレクセイに、私とラニーニのマシンを、レイン用に準備しておくように伝えて!」
二人ともすぐに速度を落とし、ピット誘導レーンに入っていったので、返事は聞き取れなかった。果たして最後まで伝わったのか、それより咄嗟の判断は正しかったのか、ストレートを四台になったトップグループ最後尾で駆け抜けながら、不安に襲われた。
ーーーー考えても無駄よね。神様しかわからないわ………
レースとは、すべて人の判断と行動によって結果がもたらされるものと考えるハンナだったが、この時ばかりは神に願った。
セカンドグループとかなり差をつけていたエレーナたちは、集団の半ば辺りの位置でレース復帰した。そのポジションのライダーたちは、まだマシン交換しておらず、インターミディエイトを履いたままなので、かなりの部分がドライとなったコースでは、まったく相手にならない。
シャルロッタは、まさしく本人曰くアルテミスの矢のような勢いで、集団を突き抜けて、たちまち集団先頭まで辿り着いていた愛華とラニーニにも追いついた。
「あんたたち、こんなところでまたイチャイチャしてたの?あんたもさっさとスリックに代えて来なさいよ!」
「わっ!シャルロッタさん。みんなもうマシン交換したんですか。わたしもすぐにピットインします」
その時、遠くの空が光るのをエレーナは見た。
「ちっ!」
何十台ものレーシングバイクの轟音で、雷鳴は聞こえなかったが間違いなく雷だ。シャルロッタも愛華も、気づいていない様子だった。
天候はまだ回復していない!
しかし、いつ降り出すかはわからない。本当に降る確証もない。エレーナは愛華を生贄に捧げる心境で指示をする。
「アイカ!そのまま走り続けろ。レースを捨てることになるかも知れんが、おまえが最後の命綱だ」
生贄となるのは、自分とシャルロッタかも知れない。
「……?だぁ、」
愛華は訳もわからず返事をした。
今、突然降り出されたら、スリックではまともに走れない。ニコライに指示はしておいたが、慌ただしいピットでは、乗り換えたばかりのマシンをレインに交換するのもある程度時間が必要だろう。彼らを信用しているが、こういう時は思わぬトラブルが起こるものだ。ジンクスなどの類は、笑い飛ばすエレーナであったが、笑えないものができた。
シャルロッタの魔導力とやらは、逆の効果があるらしい。
そして、自分の悪い予想がはずれることを願いながらも、愛華という少女には、人知を超えた、ドラマチックな運命を感じずにはいられなかった。




