ラニーニの意地
ラニーニとシャルロッタは、同じイタリア人、同じ世代ではあるものの大きく異なるレース人生を歩んできた。
ラニーニは、貧しくはないがそれほど裕福でもない、両親と兄のいる平凡な家庭に生まれた。
シャルロッタほどではないにしろ、かつてレーサーを夢見た父親の趣味と兄マルコの影響で、幼い頃からミニバイクに乗り始めている。平均的イタリア人の家庭にとって、ミニバイクとはいえ子供にレースをさせるのは、経済的に楽でなかったとは容易に想像できる。彼女には、女の子らしい服や人形を買ってもらった記憶がない。
いつも兄のお下がりの服を着て、お下がりのミニバイクに跨がっていたが、それを愚痴ったりした事は一度もなかった。子供たちのために両親が自分の欲しい物も我慢していることを理解していたし、何よりもバイクに夢中になっていた。
当初父親は、兄マルコの方に期待していたようだが、彼は競争の激しかった歳上のクラスで伸び悩み、代わってラニーニのトロフィーが増えるたびに、次第にラニーニへの出費の比重が増えていった。
幼い頃からマルコの背中を追っていたラニーニには、兄の気持ちを思うと複雑な心境だったが、兄マルコは既に自分の才能に見切りをつけており、むしろ父親の過度な期待から開放された事に安堵したようで、自分のレースよりラニーニのレースを積極的に手伝うようになっていった。
ラニーニは、家族の思いを背負って、必死に練習をした。貴重な走行時間は一瞬も気を抜かず真剣に走った。走るだけで家族のお金をすり減らしているのだから、寡黙にもなる。タイヤの消耗に気を使い、一滴のガソリンもムダにしないよう集中して練習した。
この頃、ラニーニは一度だけ、大きな大会でシャルロッタとバレンティーナに遭遇している。
ミニバイクのチームとは思えない本格的なトレーラーとプロのメカニック。市販車とはかけ離れたチューニングが施されたマシン。彼女たちだけでなく、強豪チームの多くのライダーは、なんらかのメーカーから支援を受けていた。
それに比べ、ラニーニのチームは父親のフィアットで引っ張るキャンピングカーに無理やりバイクを載せ、母親の手弁当で父と兄がメカニックからすべての雑用をこなしていた。母親は家計を助けるためのパートで、レース場に来られないことが多かった。マシンも世話になっているバイクショップの好意で、格安で譲ってもらった中古の市販車でしかない。
レース界の常識を知らなかったラニーニは、逆にまわりのワークスチームのような体制のライバルたちに威圧される事もなかったが、シャルロッタとバレンティーナは別格だった。特にシャルロッタは、魔王のように振舞い、コース上では羊の群れに放たれた獣のように、各地から集まった地区シリーズ上位者たちを抜き去っていく姿が鮮烈にやきついた。その走りを目の当たりにして、ラニーニの体は震えた。
こんな人が、世の中には本当にいるんだ……と。
それでもそのレースでラニーニは、シャルロッタとバレンティーナに次ぐ順位でフィニッシュして父と兄を大喜びさせる。シャルロッタは覚えていないだろうが、ラニーニにとっては忘れられない経験となった。
その後ラニーニは一度、レースをやめようとしている。本格的なマシンでレースをするには、父親の経済力では不可能だ。シャルロッタやバレンティーナは、別世界の人たちだと、もう現実のわかる歳になっていた。
しかし、兄マルコがジュリエッタのスカラシップに申請してくれていた。高い倍率の選抜試験にパスし、ジュリエッタジュニアチームに抜擢され、マシンの無償貸出しとタイヤと消耗パーツの供給というスカラシップでも最高クラスのサポートを受けられる事となる。ちょうどバレンティーナがジュリエッタから鮮烈なデビューを果たし、一躍時の人となっていた時期である。
やはりあの人たちは特別だったんだ。それなら自分は、アシストぐらいにはなれるかも知れない。もっともっと、バイクに乗り続けていたい。
ラニーニは純粋にレースを続けられることを、神様と家族に感謝した。
決勝当日、チームミーティングの前にアレクセイ監督はラニーニを呼びつけた。
彼は選手を気休めを言ったり、おだててやる気を引き出そうとしたりしないタイプの監督で、あまり女子選手から好かれるタイプではない。ラニーニも以前から苦手としていた。
彼は緊張するラニーニに向かって言った。
「シャルロッタは天才だ。おまえの才能とは比べ物にならない怪物だ。そしてアイカはオリンピッククラスの身体能力を持っている。こんな連中相手に勝てると思うか?」
いきなり容赦ない現実を突きつけられる。わかっているだけに返す言葉が出てこない。
「だが逆の見方をすれば、おまえはシャルロッタより真剣にレースに取り組んできた。アイカよりマシンの扱いに長けているのも事実だ」
気休め?否、彼は気休めなど言わない。
徹底した現実主義者のアレクセイの言葉が、これほど心強くしてくれるとは思わなかった。
「レースに番狂わせは付き物だ。狂わせてやれ」
具体的な指示はなかった。自分の判断で走れという事だ。アレクセイが指揮を放棄した訳ではない。今日のレースに確実な作戦などありえない。レースが始まれば、ピットからの指示はほとんど出来ない。ハンナたちからの組織的な支援も望めないだろう。その場の状況に応じて、ラニーニが一人で決めなくてはならなくないのだ。
ラニーニは真剣にレースに取り組み、苦労しながらここまでたどり着いた。幸運だけでなく、真面目に努力し、チャンスを確実にものにしてきたのは、誰もが知っている。だがバレンティーナの勝つための執念、戦術、ときには奇策をも擁するのも間近で見てきているのは、意外と見落とされている。それもラニーニの資産になっているはずだ。
バレンティーナの勝ちへの拘りが是か否かはともかく、彼女から何も学んでいなかったら、チャンピオンなど夢のまた夢だろう。
アレクセイは、ラニーニの勝利への執着を試そうとしていた。いやそれは正確にアレクセイの心境を表していない。正しくはラニーニの経験に賭けていたと言うべきだろう。
決勝スタートの時間が迫ってきた。
メカニックたちは、タイヤを温め、マシンの最終チェックに余念がない。
慌ただしいピットの片隅で、ラニーニはチームメイトから離れ、ひとりレースに集中しようとしていた。
チームメイトたちは、レースに向けての最終打ち合わせをしていたが、誰も彼女を咎める者はいない。
ラニーニは、いま最も調子に乗っているペアに、たった一人で挑む覚悟をしていた。ハンナたちにできることは、他のライダーに邪魔をさせないようにする事だけだ。
目を閉じて、頭の中でレースをシュミレーションする。
―――スタートで遅れたらそれでおしまい。シャルロッタさんとアイカちゃんに、絶対に遅れちゃいけない。
スタートシグナルのタイミングをイメージし、実際にクラッチとアクセル操作するかのように指と手首を動かす。イメージは第一コーナーへと向かい、右手首を繰り返し反らし、それに合わせて左足はシフトダウンの動作をする。お尻を横にずらして上体を傾ける。
―――フレデリカさんが前に出たら、スリップに潜り込む……。
おそらくシャルロッタたちは、フレデリカに構わないで自分たちのペースを維持するだろうとは、ラニーニも予想していた。愛華ならシャルロッタにペースを守らせられると思っていた。
フレデリカは今回も途中でリタイヤするというのも皆と同じ考えだ。前回のインディから一週間しかたっていない。彼女の腱鞘炎が短期間でよくなっている可能性は低い。
ゴールする気もないラビットを追いかけるなど、馬鹿げているかも知れない。しかしラニーニにとって、シャルロッタと愛華のコンビに挑むこと自体、無謀な挑戦だ。
ラグナセカでもインディでも、ラニーニはあの二人にまったく届かなかった。彼女がゴールしたときには後ろ姿すら見えなかったほどの惨敗だった。
―――まともに挑んでも勝ち目はない。わたしの常識はずれの動きに、少しでもアイカちゃんが戸惑ってくれたら……。
遅いペースに持ち込めば、ハンナたちの支援も受けられるが、エレーナたちにも追いつかれる。結局最後はスプリント勝負になって、スピードのあるシャルロッタに逃げられるだろう。
―――たぶんエレーナさんもアイカちゃんも、わたしがこんな大胆な作戦にでるなんて思っていない。いきなりわたしがチームから離れ、フレデリカさんと逃げに入ったら、シャルロッタさんだって冷静じゃいられないはず。
もしシャルロッタが冷静にペースを保ったら、前半に消耗したラニーニには為すすべがなくなる。
―――どっちみち為すすべなんてないよ。でも、もしかしてシャルロッタさんとアイカちゃんの間にすれ違いが生じたら………、あとは出たとこ勝負!つけ入る隙はきっとある。
ラニーニの体が震える。ミニバイクレースで、魔王のように速さを見せつけたあの少女は、今もラニーニを震えさせる。
しかし今、シャルロッタと同じ位置にいる。いや、ポイントの上ではラニーニの方が上だ。たまたま偶然が重なっただけかも知れない。実際現実は、追いつめられているのはラニーニの方で、圧倒的に不利な状況にある。でも簡単には譲れない。ここで逆転される訳にはいかない。
アイカちゃんを驚かし、シャルロッタさんに勝ったら、きっとお父さんとお兄ちゃん、大喜びするだろうなぁ。
昔と違うのは、ラニーニの体の震えが、武者震いになっていたことだ。




