共通の言語
路面を滑りながらも愛華は自分の向かう先を視認していた。
ドイツ国旗と同じ色で塗り分けられたよく目立つゼブラの向こうは、十分に広いエスケープゾーンが確保されている。ぶつかるものが無ければダメージは少ない。コースの外に出てしまえば、後続に轢かれる心配もない。もう少しでコースから外れる所で、視線を走って来た方に向けた。
「うわっ!」
ナオミのバイクが自分に向かって来ていた。
滑るに任せるしかない愛華には、どうする事も出来ない。ナオミが懸命に回避しようとしているのがわかる。しかし彼女もこれ以上インに進路を向けられない状況だ。そして愛華と交差する地点へと向かっていた。
ナオミと視線が交わる。そしてみるみる迫るフロントタイヤしか、目に入らなくなった。
愛華は、少しでも外へ逃れようと咄嗟に体を捻った。ナオミさんがインに向けてくれることを願って。
ナオミは、愛華が外へ逃げてくれる事に賭けた。フロントを無理やりインに向ける。
愛華はブーツの踵の辺りが何かに当たったのを感じた。しかし体を捻ったことで、激しく全身で転がり始めたので、もうよくわからない。
バランスを崩しながらも、フロントタイヤを辛うじて愛華の頭から逸らしたナオミは、アンダーカウルに何かが当たったのを感じたが、衝撃というほどのものではない。それよりバランスを崩したバイクの姿勢を、なんとか立て直そうと必死だ。
愛華のバイクが砂地に突っ込み跳ね上がった。砂塵を巻き上げ、派手に躍るバイクの数メートル離れたところを、愛華がコロコロ転がっていった。
バイクが舞い上がったので衝撃的に見えたが、愛華自身のダメージはたいしたことない。止まりきらないうちに立ち上がろうとして、躓くようによろけてまた転んでしまった。
座った状態で一度深呼吸をする。「7月14日ドイツGP決勝、残り三周でタイヤバースト転倒」と声に出して言う。記憶ははっきりしている。
「大丈夫、脳震盪とかはない」
手足の指を動かし、神経に異常がないのも確認。骨や関節なども確かめながらゆっくり立ち上がり、巻き込んでしまったナオミを探した。
ナオミはかなり先で、サンドトラップから脱け出し、コースに復帰しようとしていた。
ナオミが振り返ったので、愛華は手を挙げて自分が無事なのを示すと、ペコリと頭をさげておじぎをした。
「ごめんなさい。でもよかったぁ」
聞こえるはずはないが謝った。自分に怪我がない事より、ナオミが無事なのにホッとする。トップグループから離脱させたのは申し訳ないが、リタイヤさせたり、怪我させてたら大変だ。
ナオミが頷いてくれたように見えた。レースが終わったら、ちゃんと謝りにいこう。
ナオミが走り去るとすぐにエレーナたちのセカンドグループが通過する。コースマーシャルが黄旗を振って事故を伝えているので、ややスピードを落として通っていく。エレーナとスターシアがこちらを見たので、慌てて手を振って無事なのを伝えると同時に、応援をした。ハンナたちにも同じようにしていた。
愛華とナオミの脱落によって、単独でシャルロッタを追うことになったラニーニだが、愛華が無事か気になった。
転倒自体はそれほど危険な転び方ではなかった。体が宙に跳ね上げられることもなく、バイクと離れて滑っていた。そのあと、ラニーニからはナオミがぎりぎりでかわしたように見えた。しかし愛華が立ち上がるところまでは見ていない。
シャルロッタも、追い上げてきたのがラニーニだけであることから、愛華がリタイヤしたとすぐに理解した。愛華が簡単に引き離されるはずがない。物理的にもう走れなくなる以外、諦めたりしないコだ。おそらくタイヤだ。シャルロッタのタイヤも、かなりヤバい状態になっている。自分を逃がすために、愛華は最後までラニーニを抑えてくれた。気になるのは、ナオミもいないことだ。単独でリタイヤしたんじゃないとしたら、多重クラッシュした可能性が浮かんだ。
トップを走るシャルロッタに、ぴったりとつけるラニーニ。激しいデットヒートが期待されたが、どちらも走りに精彩を欠いていた。シャルロッタがタイヤを庇っているのは、誰の目にも明らかとなっているが、彼女ならやってくれるという期待もあった。追うラニーニもどこか積極的にトップを奪おうとしていないように見える。
愛華はコースサイドのスポンジバリアの外で、トップが来るのを待っていた。会場のアナウンスはドイツ語で、まだシャルロッタがトップをキープしていると言っているらしいけど、ドイツ語がわからないのと爆音でよく聞き取れない。
トップの二人がやって来た!シャルロッタが前だ。
しかし愛華にも、二人が本気で走っているように見えない。シャルロッタはタイヤを気にしているにしても、まるで集中力のない走りだ。ラニーニも遠慮しているのか、後ろについているだけみたいに見えた。
ちょっとイラついた。
そんなんなら、自分が初優勝めざした方がよかったんじゃないの?
思わずピョンとスポンジバリアの上に跳び乗り、拳を握りしめて叫んだ。
「もう!なにやってるのッ!二人ともそんな走りしかできないんですか!あたしの初優勝を返して!」
エレーナを真似てグーでパンチするポーズをした。
「なによッ!あんたを心配してやってたのに!心配して損したわ。いいわ、あたしのホントの本気のスーパーウルトラバーニングライド、スペシャルエコロジーバージョン魅せてあげるから、そこで指くわえて見てなさい」
「よかったアイカちゃん、ぴんぴんしてる!それなら遠慮なく優勝させていただくからね」
シャルロッタとラニーニは、同時にスポンジバリアの上でぴょんぴょん跳び跳ね、腕をぐるぐる回している愛華に向かって叫んでいた。
シャルロッタのスーパーウルトラバーニングライド・スペシャルエコロジーバージョンは、驚くべきものであった。いつ終わっても不思議でないタイヤで、まるで濡れた和紙の上を歩くような繊細さでバイクを走らせた。
余談だがオフシーズン、シャルロッタは、ツェツィーリアのテストコースに兵舎のトイレから持ってきたトイレットペーパーを敷き、愛華の前でその上を走ってみせた。おそらく何かのコミックかアニメで感化されたのだろうが、トイレットペーパーは見事飛び散り、エレーナにどつかれていたが、今はまあ忘れよう。喩えとしてそれくらい繊細だということだ。本当に余談だ。
本当の驚きは、ラニーニがぴったり後ろにつけているのに、その走りを変えなかったことにある。如何にシャルロッタがペースダウンを最小限に抑えても、タイヤに余裕のあるラニーニをブロックしきれるはずもない。普段のシャルロッタならムキになって自滅していたであろうが、なんとストレート立ち上がりでラニーニにパスされても、ひたすらスペシャルエコロジーバージョンを保ち続けたのだ!
もしやの奇跡を、或いは派手に飛ぶシーンを期待していたファンたちを落胆させはしたが、現実的なストロベリーナイツのファン、そしてシャルロッタの性格を知る者たちにとっては、まるで信じられない光景だった。唯一シャルロッタ語を理解するメカニックと言われるセルゲイすら、タイヤ以外の、おそらくシャルロッタの頭にトラブルが発生したと思ったほどだ。現実的に正しい選択をしただけで、ここまで驚かれたり、落胆されたり、異常と思われたりと、酷い扱いである。すべて普段の彼女の行動が原因なので同情にはあたらない。
シャルロッタは残りの周回を、ひたすら辛抱のスーパーウルトラバーニングライド・スペシャルエコロジーバージョンを保ち続け、ゴール手前でナオミに追い上げられたが、なんとか逃げ切り二位で完走を果たした。
ゴール後、ラニーニとナオミとともに、愛華のリタイヤしたコーナーまでやってきたシャルロッタは、愛華に向かってドヤ顔でVサインを示した。愛華はコースにとび出してシャルロッタに駆け寄った。
「すごいです、シャルロッタさん!やればできるじゃないですか!」
シャルロッタのタイヤを見ると、よくこれで走りきったと、もう一度驚く。所々、スチールのワイヤーが露出していた。
「ラニーニちゃんも、優勝おめでとう!」
唖然としていたが、慌てて優勝したラニーニを祝福する。
「ありがとう。でもシャルロッタさんの本当の強さを知ったよ。どんなにリードしていても、安心できないね、やっぱり」
「だったらどうしてストレートまで抜かなかったの?どこでもパス出来たはずでしょ?」
シャルロッタが不満気にラニーニに訊いた。
「コーナーじゃなかなか抜けなかったから。ストレートならわたしでも確実に抜けると思っただけ」
「ふーん……、あとで恩着せがましくしないでね」
「勝たせてもらいましたから」
愛華にはどういう意味かよくわからなかったが、そのとき同じ空間を走っていた者同士にしか理解出来ない言葉が交わされていた。
シャルロッタには、もしコーナーで仕掛けてられていたら、冷静でいられなかった自信がある。たぶん熱くなって飛んでいたと思う。
ラニーニが望んだのは、勝つことだけだ。シャルロッタを潰そうとはしなかった。
「今度はちゃんと勝負してあげるわ」
「また勝たせてください」
意味ありにニヤニヤするシャルロッタとラニーニに、加われない愛華はちょっとさみしかった。
四位争いを制したエレーナとスターシアたちが近づいてくる。コースマーシャルが早くウィニングランに戻るよう促した。
「乗せていってあげるわ、乗りなさい」
さみしげな表情の愛華に、シャルロッタがお尻をタンクの上に乗せて、シートを空けた。しかしそのタイヤを見れば、とても乗る気になれない。
「わたしはバイクと一緒に回収車に拾ってもらいます。みんなシャルロッタさんを待ってますから、気をつけて行ってください」
「そう……、今日はよくやってくれたわ、あんたもそのコも。大事に連れて帰ってあげなさい」
「もう、誰のせいで苦労したと思って」
愛華が言い終わらないうちに、シャルロッタはヒョイとフロントを浮かせて、ウイリーでエレーナたちを追いかけていった。愛華とラニーニは、肩をすくめて微笑みあった。
「わたしも行くね、またあとでね」
そう言い残してバイクを発進させたラニーニとナオミを、手を振って見送りながらナオミに謝り損ねたらことに気づいた。




