わがままシャルロッタ
シャルロッタと愛華の間隔が徐々に開き始めた。愛華が極端に遅くなった訳ではなかったが、その走りが変わったのは、後方にいたラニーニたちもすぐに気づいた。
愛華だけが、明らかにタイヤの消耗をセーブする乗り方にシフトした。やはりあのペースではもたないと判断したらしい。そしてシャルロッタと愛華の間になにがあるのかも、ラニーニには大方想像出来た。
シャルロッタは昨日からの不満をまだ引き摺っているらしい。彼女がへそ曲げたのも、少なからず自分にも一端があるかも、とラニーニは責任を感じていたが、はっきり言ってシャルロッタの勝手な言いがかりである。愛華もラニーニも優しすぎる。
(アイカちゃん、たいへんそう)
愛華に同情はしても、レースはレースだとラニーニは割り切ろうとした。愛華もそれを望んでいるはずだ。現に今愛華は、ラニーニを勝たせない為にシャルロッタから距離を取った。
(手なんて抜いたら、シャルロッタさんだけでなく、アイカちゃんにも恨まれる)
逆の立場なら、そう望むと思った。
今の愛華のペースと残りの周回数を考えれば、十分追いつける差だ。しかしシャルロッタの状態が不確かな事と追い込まれた時の愛華の粘り強さを考えると、あまり余裕はない。
「ナオミさん、少し早いですけどスパートいきます!」
「了解」
ラニーニとナオミは、ペースをあげた。
愛華を引き離して単独首位になったシャルロッタであったが、心の中ではずっとモヤモヤした気持ちが消えないでいた。
愛華とラニーニ、それにエレーナ様に自分の速さを見せつければ、すっきりするはずだったのに……。
愛華からの呼び掛けもすべて聞こえていた。愛華が本当に自分のことを心配しているのもわかっている。
(あたしって、なんてひどい女なの?アイカの気持ちわかっているくせに、あんなひどいこと言って、謝りもしないで無視してる。とうとう見放されちゃった……)
唯我独尊のシャルロッタが、前代未聞の自己嫌悪に陥っていた。
ペース配分も滅茶苦茶にとばしたため、タイヤはもうボロボロになっている。このままだと最後まで走りきれない。と言って今からペース配分しても、ラニーニから逃げ切れないところまで来ている。それに愛華にどう顔向けしたらいいのかわからない。
(エレーナ様に叱られるのは慣れてるけど、アイカに見放されたのは嫌だなぁ……)
シャルロッタは、いっそこのまま全開で走って、どこかで飛んでしまおうかと思った。
(そしたらみんなも心配してくれるかも?)
ライディング中に最悪な場面を浮かべてはならない。ネガティブな思考は、催眠術のように脳に潜り込み、勝手に筋肉に命令を下す。
深いバンク角の中、辛うじて遠心力に耐えていたフロントタイヤが突然外に流れた。舗装の継ぎ目の僅かな膨らみに乗ったらしい。
いつものシャルロッタなら、何事もなくリカバリーしている些細な振れだった。
しかしこの時、身体の反応が一瞬だけ遅れた。
フロントの支えを失った車体は、重心を残して外へ逃げていく。イン側の路面に触れていた膝に、体重と車重のほとんどが架かり、ほぼ転倒を免れられない姿勢に陥った。
ここでシャルロッタの本能がようやく目を覚ました。咄嗟に膝と肘で路面を押し返し、体重を支えながらアクセルを煽る。トラクションが抜け、リアがフロントと同じように流れ始めたところでバイクを起こそうとした。ここまでの反応は、ある程度のレベルのライダーなら無意識に行えるかもしれない。そして大抵さらにダメージを大きくする。
浮きかけていたタイヤを路面に押しつけた瞬間、ほぼ倒れていたバイクは跳ね上がるように起きた。シートの縁に引っ掛かっていた外側の膝裏に強烈な力が掛かり、体ごと跳ね上げようとする。
体が宙に浮いた。バイクとつながっているのはグリップを握る左右の手だけだ。
両腕に力を込める。猫科を想わせる身のこなしで、ちょうど直立した瞬間のバイクに戻ろうとする。ぴったりのタイミングでタンクに胸からのし掛かった。
「っ!」
声にならない空気が漏れる。ブーツの底はステップを見失い、爪先が路面を蹴っていたが、必死にハンドルにしがみついてフロントタイヤをバイクの向かう方向に向けた。
バイクは何度か跳ねるように左右に振れ、ロデオの如くカウガールを振り落とそうと暴れるが、シャルロッタの身体は反射的にバランスをとり、不自然な体勢で必死にコントロールしていた。
マシンの暴れるのがようやく収束すると、足をステップにのせ、タンクに腹這いになっていた上体を起こした。薄い胸が痛かったが、空っぽの肺に大きく息を送り込んだ。
シャルロッタの信じられないテクニックを見るのは、何度めだろうか。
愛華は目を丸くして驚いた。
テクニックと言っていいのかわからないが、とても人間技とは思えない。後ろの愛華からは、完全に転倒していたように見えた。実際二つのタイヤは路面から離れ、身体で路面を滑っていた。そこから立て直したなんて、この目で見ても信じられない。
「す、すごい……」
やっぱりシャルロッタさんは、自分なんかとくらべものにならないくらい天才だ。
「大丈夫ですか!」
なんとか立て直したシャルロッタに、愛華が追いついて尋ねてくる。
「べつにどうってことないわよ!」
シャルロッタは思わず強がってしまった。愛華が本当に心配してくれているのがわかるだけに、自分がカッコ悪く思える。
「あっ、通話できるじゃないですか!さっきから何度も呼び掛けていたんですよ。どうして応答してくれなかったんですか!」
しまった!無視してたんだった。ますますカッコ悪いじゃないの!
「あら、ほんとね。さっきまで調子悪かったけど、今のショックで直ったみたいだわ。べつに無視してたとかじゃないんだから、『めんどくさい人』とか言ってんじゃないわよ!」
愛華のクスクス笑う声が聞こえた。自分からボロを出したと気づいたが、突っ込まれないのが逆に痛い。
レースはかなり厳しい状況に追い込まれていたが、ここで愛華に協力を求めれば、たとえ敗けたとしてもスッキリしただろう。
どんなに苦しい状態でも、愛華と走るのはめちゃくちゃテンションが上がる。もしかしたら奇跡がおきるかも知れない。
しかし転倒の危機を逃れた安堵と、疑いを知らないような純真無垢な愛華の声に、見栄っ張りで嫉妬深い闇シャルロッタが、悪魔のコスプレ姿で頭の中に現れた。
(それって、いつもと同じパターンじゃないの?)
それを天使のコスプレした善シャルロッタまで登場して引き戻そうとする。
(いつものパターンでもいいじゃない。アイカに『ごめん』って言いなさいよ)
善シャルロッタの言う通りだ。それですべてまるく収まる。
(それがアイカの狙いよ!チョロい奴って思われるわよ)
悪魔がそそのかす。
(あたしはチョロくなんかないわよ!)
天使まで興奮しはじめた。
(そうよ、あたしは強いのよ!一人でも勝てるって、証明してやるわ!)
シャルロッタの天使は弱かった。
「今のはわざとよ。あんまり独走だと観てる人が退屈でしょ。あんたの心配なんて、必要ないわ」
愛華に向かって口から出たのは、悪態だった。
(なんてこと言うの、あたしのバカ!)
「そうですか……。でもタイヤとか、だいぶ減っているみたいですから気をつけてください」
愛華の少しさみしそうな声が返ってくる。
「そんなのわかっているわよ!あたしを誰だと思っているの」
また心ないことを言ってしまう。完全に闇に支配されている。
さっきの転倒寸前のミスで、タイヤはもっと酷い事になっているのに……。一人で走りきる自信がない。
(あたしのバカ、バカ、バカ!)
「そうですよね、シャルロッタさんは天才ですもんね。でもなにかあったら言ってください。シャルロッタさんのテクニックにはぜんぜん及びませんけど、がんばって後ろについていきますから」
(『一緒に走って』って言いなさいよ。最期のチャンスかもしれないのよ)
「勝手にすれば?」
勝手に口が動いた。
自分は最低なライダーだ。もし勝てても、もうチームのみんなと苺のスイーツ食べる資格なんてない。エレーナ様に殺されるかも知れない。たぶん今度こそ本当にチームを追い出される。でもその前に、アイカに謝りたい。レースが終わったら絶対謝ろう。
残された最期の願いを胸に、ゴールをめざした。
そこからは、さすがのシャルロッタもタイヤを庇う走りに変えざる得なかった。それでもシャルロッタの走りは、愛華が驚くほどスムーズで、それほどラップタイムも落ちない。タイヤにまで神経がつながっていると言われるテクニックは、エコな走りもやればできる。繊細で一切の無駄がない走りは、スターシャと比べても遜色ない。
(シャルロッタさんは本当にすごいなぁ。タイヤに無理をかけないでも、あんなに速く走れるんだ)
愛華は後ろからシャルロッタの走りを観察し、その走りに倣ってついていく。
シャルロッタに言われたことは、全然気にしてない。いつものことだ。それよりシャルロッタのテクニックを学べることの方がうれしい。そして絶対シャルロッタを勝たせたかった。
シャルロッタと愛華は、安定したペースを保っていたが、最初からペース配分を考えて、ラストスパートをかけてきたラニーニとナオミが急速に迫っていた。
ラニーニは、残り5周でとうとうシャルロッタと愛華を捉えた。如何にこの二人でも、5周もあれば確実にパス出来る。どちらもゴールまで辿り着くのが精一杯な様子だ。慎重に愛華に近づく。
愛華がブロックするラインに切り替わった。シャルロッタを逃がそうと時間稼ぎをするつもりだ。たぶん、完走できない覚悟をしたのだろう。
(ごめんねアイカちゃん。レースだから……)
出来れば同じ条件で競いたかった。そしてチェッカーフラッグで勝敗を決したかった。でもこれがレース。お互いチームを背負っている。ラニーニも覚悟を決めたとき、ナオミの声が聞こえてきた。
「一周だけ、私は目を閉じてるから」
一瞬なんの事だかわからなかった。振り返るとナオミがシールドの奥でウィンクするのが見えた。
「監督には内緒」
ナオミがニヤリとした。
ラニーニは昨年ここで、バレンティーナと二人がかりで愛華をいじめた記憶が負い目になっている。ナオミは直接関わっていなかったが、アンフェアな条件で愛華を攻めるのは気持ちいい事ではない。今はラニーニと愛華がよいライバル関係なのも承知している。平等とはいかないまでも、一対一で競わせてあげようと気をつかってくれていた。
「ありがとうございますっ!」
「でも一周だけ。もし一周でパス出来なかったら、私がアイカを潰すから」
非情なアレクセイを誤魔化せるのは、一周が限度だ。それにそれ以上かかっては、シャルロッタを逃してしまう危険性が高い。
左に大きく180度以上曲がり込んだコーナーへ、愛華がインを塞いだまま入っていく。
ラニーニは外側から被せていった。
深くバンクさせた二台が、ピッタリと並んで曲がり続ける。インで粘る愛華のタイヤが、コーナーリングGを受けてぶるぶると震えている。少しでもグリップを失えば、そのままラニーニとぶつかって、転倒に巻き込まれるのは避けられない。それでも愛華は粘り、ラニーニも引かない。
徐々に膨らんでいき、並んだままアウト側の端までいく。ラニーニがゼブラに押しやられ、そこで退かざる得なくなった。
愛華は一歩も退かないことを誇示している。かと言って、決して弾き出すようなダーティーなブロックではない。ラニーニもそれに応えるように、今度は逆の右コーナーのインへ、思いきりとび込んでいった。
たとえタイヤコンディションの差があっても、ブロックに徹した愛華をパスするのは、なかなか容易でない。
ナオミが見逃してくれるのは、ワンラップだけだ。おそらく愛華も、何周も走るつもりはないらしい。ただタイヤが終わる瞬間まで、絶対シャルロッタを守ろうとする気迫を感じる。
ラニーニは、自分がアクシデントに巻き込まれるのはもちろんだが、出来るだけ愛華も危険に晒したくはない。慎重に、そして手加減などせず、確実に一周で愛華を抜くつもりだ。
シャルロッタも、後ろで始まったバトルに気づいていた。
愛華がボロタイヤで自分を守ろうとしている。
(このまま、自分だけ逃げてもいいの?)
再び天使のコスプレした善シャルロッタが問いかけてくる。
(今さらいいコぶってもムダよ。そんなことしても、どうせ褒められるのはアイカだけ。どっちみちエレーナ様はあたしをどつくから)
悪魔コスプレの闇シャルロッタが囁く。
頭の中で天使と悪魔が綱引きをはじめた。
なにこれ?昔のアニメ?今どき流行んないわよ!
もう我慢出来ない。あたしのキャラじゃないと、シャルロッタに流れる自称チェンタウロの血が沸騰した。
「さっきからゴチャゴチャとうるさいわね!あたしは誇り高いチェンタウロ族の末裔よ!エレーナ様にどつかれるのなんて、三度の食事みたいなもんよ!パートナーを見棄てて逃げるとか、そんな卑怯な真似できるわけないでしょ!」
突然聞こえてきたシャルロッタの怒鳴り声に、驚いたのは愛華だ。見ればシャルロッタが、愛華とラニーニのペースに合わせてくる。
「シャルロッタさん、なに言ってるんですか!わたしが時間稼いでいるうちに差を拡げてください」
せっかく遅らせたペースを、自分で詰めるとか信じられない。
「アイカ、いろいろと……ゴメン。……とにかく、一緒にゴールにいくから、ついて来なさい」
もう一度驚いた。シャルロッタさんが謝っている。愛華はうれしかったが、今はそれどころじゃない!なんでここで心を入れ替えたのか意味わからないけど、とにかく早く行ってほしい。なんのためにがんばっているのか、でもそんなこと言ったら、余計にからまれそうだ。
天使でも悪魔でも、めんどくさいシャルロッタだ。
「謝るんだったら、勝ってからにしてください。あたし今、ラニーニちゃんとバトル楽しんでいるんで、邪魔しないでほしいです」
ちょっとわるいかな?と思ったが、もうやけくそだ。怒ったらそれはそれでちょうどいい。あとでわたしも謝ろう。
「下僕のくせに生意気よ。でもいいわ、わかった。結果で示せってことね。優勝したら告白するから、あんたもちゃんとゴールしなさい、わかったわね!」
「???」
意味がわからない。あの人、本当にわかって言っているの?なんかゴールまで行くのが怖い。
まあとりあえずペースを戻してくれたので、ラニーニを抑えるのに集中する。タイヤも本格的に危なくなっている。
「ラニーニ、もうタイムリミット」
ナオミがラニーニに並んだ。
一周で愛華のブロックを崩せなかった。ここからナオミも加わって追い込むことを宣言した。仕方ない。いつまでもわがままは許されない。
インベタのラインをいく愛華とラニーニを、大きくアウトから見おろす。立ち上がりでクロスして抜くラインを狙っている。
その時、ラニーニのシールドにベチベチと黒いものが当たった。タイヤのゴムだ。愛華のタイヤのコンパウンドが、剥がれて飛んできている!
愛華のタイヤが、ついに限界に至った。
「危ない!アイカちゃん!!!」
ラニーニが叫んだのと同時に、愛華の体が路面に貼りついた。バイクがアスファルトに擦れて火花が飛ぶ。
愛華とバイクは、離ればなれになりながら外側に滑っていく。そのままコース外まで滑れば、エスケープゾーンは広いから大怪我はしないはずだ。
「っ!」
しかし愛華の体は、アウトから切れ込もうとしていたナオミのライン上に向かっていた。
ナオミは即座に回避する方法を探る。このまま進めば、愛華を轢いてしまう。内側にラインを変えれば、滑ってくる愛華のバイクにぶつかる。
ナオミは減速しながらバイクを起こす。外側に避けようとするが、それを追うように愛華も同じ方向に滑ってくる。仰向けで路面を滑る愛華と目が合った。
神様に祈りながら逃れる方向を予測した。




