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最速の女神たち   作者: YASSI
デビュー
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MOTOminimo 最軽量の世界GP



 残り二周に入ったところで、先頭を走っていたエレーナのマシンのエンジンが息継ぎをした。素早くクラッチを握りスロットルを煽ったが、回転計の針はストンと落ち込み、動かなくなった。


(ガス欠か?)


 エレーナと競り合っていたライバルチームのライダーが、あっという間に前に出た。それと同時にエレーナの真後ろにいたチームメイトが猛然と飛び出し、次のコーナーではインを奪って進入していくのを見届けた。


(まあ、うちのエースなら余程バカな真似でもしない限り、ぶっちぎれる相手だろう)


  決して相手を見下している訳ではない。相手はレース序盤からエレーナたちを抑え込もうと、激しくエレーナとバトルを繰り広げてきた。それに対し、エレーナのチームのエースライダーは、ずっと彼女のスリップストリームに入って、力を温存していた。燃料もタイヤも十分に残っている。

 観客もエレーナが仕事を果たした事をわかっており、惰性でエスケープゾーンにマシンを入れたエレーナに拍手を送った。彼女は客席を振り返り、手を振って応えた。



二輪の世界最速を決める舞台、WGP。


 現在行われているのは、オートバイメーカーが莫大な資金と技術を注ぎ込んだマシンをスターライダーが駆るMOTOGPを頂点に、MOTO2、MOTO3と続く。最高峰クラス以外も、かつては中・小排気量クラスとして独自のステイタスがあったが、現在、MOTO2はMOTOGPへの登龍門クラス、MOTO3は年齢制限の設けられたジュニアクラスという位置づけに変わってしまった。

 そしてこれらのクラスとは別のポジションを現在も確立しているのが、排気量80ccのマシンで争われるMOTOminimo(モトミニモ)とサイドカーのクラスである。

 共に日本では馴染みが薄いが、伝統あるカテゴリーで、サイドカーレースはGP発祥当時からあり、80ccのモトミニモは、当初50ccで行われていたが、1960年代から最小排気量クラスとしてタイトルを争われてきた。

 小さく繊細な車体と極端にピーキーなエンジンのマシンを操るには、職人芸とも言える独特のライディングテクニックを必要とし、欧州では昔から目の肥えたファンからの支持を得ていた。


 しかし1980年代に、日本のメーカーが500ccなどの大排気クラスへワークスチームとして復帰しはじめると、人気は大排気量クラスに集中し、小排気量クラスの人気は低迷していった。当時50ccだった排気量を80ccにスケールアップするなどされたが、人気回復の決め手には至らなかった。

 

 元々大規模なメーカーは、このクラスに参戦していなかったが、人気低迷によるスポンサーの減少は、昔から活躍していたヨーロッパの小規模なバイクメーカーの多くをも撤退に追い込み、出走台数の減少と、残ったチームも少ない資金で古いマシンに自分たちで手を加えながら参戦するという状況が、さらに人気の低迷を招くという悪循環に陥っていた。

 

 しかし、ちょうどその時期、あるチームの参戦により再び脚光を浴びる事となる。同時にそれは、このクラスのレース形態をも変えていく事になっていった。

 

 その変革をもたらしたチームこそ、当時の社会主義の超大国、ソビエトの国家プロジェクトチームであった。


 東西冷戦の真っ只中の時代、東西の超大国は軍事力や宇宙開発、そしてあらゆる分野で覇を競い合っていた。

 それはスポーツの分野でも、オリンピックや世界選手権でメダル獲得のために、互いに国の威信をかけて張り合っていた。

 

 そのソ連が、社会主義体制の優位性と工業力を証明する為に、威信を賭けて最も資本主義的スポーツとも言えるモータースポーツの世界へと、国家計画として乗り込んできた。

 当然、いくら国家事業とは言え、いきなりF1やGP500という頂点に挑む事が無謀なのは明白である。当面の目標として比較的西側の大企業が本格参戦していないカテゴリー、四輪ならパリダカなどのラリーレイド。そして二輪では、GP80(モトミニモの前身)とサイドカークラスに絞られた。

 

 ソ連の四輪への挑戦は失策に終わったが、GPへのソ連の参戦は、二輪レース界に衝撃を与えた。

 

 

 自国開発とされた80ccGPマシン、『スミホーイsu‐03』は前評判を覆す性能を示した。

 当時経営難にあった西ドイツのメーカーをまるごと買い取ったとも噂され、実際何人かの技術者はドイツ人と思われたが、パーツなどの一部には、当時西側ですら一般に入手困難な航空機やロケット用に開発された、高価で最先端の材質と技術が使われており、日本製やドイツ製より先をいっている部分も数多く見受けられた。

 

 なにより話題をさらったのは、ライダーが全員十代の少女たちだった事だ。

 

 レースに於ける競技力は、車重量とエンジン出力の比率が大きく関わっている。二輪の場合、それにライダーの体重も大きく加味される。当然、車重量が軽くパワーの小さなクラスほど、ライダーの占める割合は大きくなる。

 小排気量のマシンでは、体の小さな若い女性の方が筋骨逞しい男性より優位なのは容易に想像出来た。勿論小柄な男性もいるが、体重45キロ以下でアスリートとして優れた運動能力をを持っている者を捜そうとすれば、必然的に若い女性の方が候補者は多くなる。


 誰もが以前から気づいてはいたが、実際にはそれを活かせる逸材もなく、なかなか立証されなかった。

 だが赤いスポーツ大国は既成概念にとらわれない合理性と国家権力をもって、この仮説を実証した。

 

 彼女たちは、国家スポーツ省からの優先すべき方針として、主にスピード、バランス感覚が重要とされるスポーツ種目を中心に、連邦全土から集められた。

 全員が各競技の将来のオリンピック代表を期待され、英才教育を授けていたスポーツエリートたちである。

 

 集められた運動神経の申し子たちは、徹底した管理下で厳しいトレーニングと選抜テストをくぐり抜け、最終的に選ばれたのは、8人の少女たちだった。

 

 

 さらに彼女たちの登場は、これまでのレースの常識を一変させた。現在ほど洗練されてはいなかったが、モーターサイクルレースに、チームレースと言う概念を持ち込んできたのだ。

 

 自転車レースのようにチームで集団を形成し、チームメイト同士で風を避け合い、他のライダーを寄せ付けない作戦。

 

 出力が小さい小排気量マシンにとって、重量同様に空気抵抗の影響は大きい。

 

「高速での風避け役に特化したセッティングのライダーがいる」とすら言われ、自らが下位に沈むのも厭わずチームの勝利を優先する戦い方に、既存のベテランライダー達すら翻弄された。

 

 勿論、彼女たち個々の実力が本物であるのは紛れない事実であった。チームメンバーが揃ってスターティンググリッド上位に並んでこそ、有効運用出来る作戦なのだから。

 

 

 反感の声もあったが、意外にも多くのファンは好意的だった。自転車のロードレースが盛んなヨーロッパでは、チームレースの戦い方をすんなり受け入れる土壌があった。

 これまでのモータースポーツにないチーム戦術、軽量なマシンによる最高峰クラスを上回る中低速のコーナーリングスピード。スリップストリームをフルに活用し、目まぐるしくポジションを入れ替える立ち上がりからの加速。落ち目だったこのクラスに、新たな魅力を示した。

 

 西側社会が、当時の連邦指導者の打ち出したペレストロイカとグラスノスチ政策により、冷戦雪解けムードになりつつあった時代でもある。ロシアの少女たちを敵視するファンは少数派だった。むしろ、北の国からやってきた透き通るような白い肌の美少女たちに、多くの人は魅かれた。

 

 

 各地を転戦するに従い、人気はヨーロッパ中に広まり、いつしか8人の少女たちは、当時冷戦下のソ連の秘密兵器を描いた映画に辿らえ『レッドオクトーバー』と呼ばれるようになっていた。(ソ連のGP初制覇と上位独占を、十月革命(レッドオクトーバー)に例えたのが由来とも言われている)

 やがて彼女たちの話題は、社会現象とも言える過熱ぶりに発展し、レースファン以外をも巻き込んでいく。

  

 ずば抜けた身体能力を誇る華奢な美少女たちが、颯爽とバイクに跨る姿に世の男たちは歓喜し、それまでモーターサイクルに興味のなかった女の子たちまでをも魅了した。

 

 当時の若い女の子たちは、アイドルグループに憧れるように『レッドオクトーバー』の真似をし、街中に小型バイクに跨った若い女性が溢れるようになっていった。それに付随する形で少年たちもバイクに乗る。二輪業界は活気づいた。

 

 廃止すら検討されていた最小排気量クラスは、ファンの人気と売れ行きを見越した二輪メーカーの後押しで忽ち盛り返し、既存ライダー達の抗議は尽く却下された。

 

  間もなく既存ライダーの中から対抗手段として、協力関係を結んだライダーのグループが出来るようになっていく。 

 その後、いくつもの組織的チームが登場するが『レッドオクトーバー』の優勢は変わらず、三年連続チャンピオンを獲得している。

 同じように女性ライダーだけの俄か仕立てのチームも登場したが、レベル的にはスポンサーの話題作りにしかならなかった。

 

 暫くは『レッドオクトーバー』の独壇場が続くと思われたが、ソ連邦の崩壊が再び流れを変えた。

 

 国家の後ろ盾を失った『レッドオクトーバー』は、フランスの化粧品会社がメインスポンサーとなり、チームごとフランスに移ったが、他チームによる個別ライダーの引き抜きにより、メンバーは徐々に分散していき、圧倒的な強さを失なっていく。

 

 『レッドオクトーバー』の弱体化と他チームの台頭に従い、各チームのレベルは拮抗するようになり、より高度なチーム戦術が繰り広げられるようになっていった。

 

 一方で、独特に進化したマシンとレース戦術は、将来的に大きな排気量クラスを目指そうとする成長途上の若い男子ライダーを遠ざけるようになっていく。

 

 チームとしての総合力が勝敗の大きなカギとなり、他クラスとは違うレース運びは、もう別の競技となりつつあった。

 

 加えて元々ピーキーなエンジン特性、軽量化の進んだ車体と自転車のような極細タイヤのマシンは、更に進化し、極端にコントロールが難しく独自の感覚と技術が要求されるようになっていった。

 

 

 主催団体は、人気の重要なカギであり、主役となる女性ライダーの育成と確保に迫られた。女性ライダーの層はまだまだ薄い。参加者と観客の両方を狙ったレディースクラスも設立されたが、すぐに失敗に終わった。

 何れロシアからきた少女たちが引退すれば、一時のブームに終わってしまう事が危惧された。


 子供の頃からバイクレースを始めるには、本人の意志や才能より環境による影響が大きい。 

『経済的に余裕があり、物好きの親』が必須条件で、特に女の子の場合は顕著で、限られた人材の上、年頃になると多くが辞めていく。

 逆に自分の意思で始めたいと思っても、環境面、特に経済力に乏しい少女ではなかなか本格的にレースに打ち込むのは困難だった。


 危機感を抱いた主催者は業界に協力を呼びかけ、レーシングライダーを育成する機関を設立した。現在のGPアカデミーの前身である。

 

 若い才能を発掘する育成プロジェクトは、二輪業界とスペインの石油企業の資金協力によりスタートした。

 社会主義時代のレッドオクトーバーのトレーニングシステムを参考に、オーディションはバイク未経験であっても、運動能力のみで選考される枠が設けられた。

 

 この育成プロジェクトは、見事レベルの高い女性ライダー育成に成功し、今ではGPアカデミーとして、女子のみでなく、あらゆるクラスに男女問わず優秀な人材をGPに送り込むようになっていった。

 

 


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