秘密の小部屋
「では、佐々木先生。このあとはよろしくお願いしますよ。なんせ、神谷のやつは我々に対しては敵対的でして……」
「ええ、わかりました。いつものことですが、迷惑をおかけしてすみません。副担任として謝罪させていただきます」
「そんな、佐々木先生は新任としてはよくやっていらっしゃいますよ。だからこそ南先生も生徒指導補佐としてあなたを使われているのですから」
「そうだといいんですが……。あ、そろそろ行きますね。ありがとうございました、日野先生」
すべての授業が終わり、教師たちが集まる職員室。その一角、新任として母校である高校に着任したまだ年若い青年佐々木望は体育の教科を受け持っている中年の男性教師、日野悟からある報告を受けていた。
それは、今年に入ってもう何度目になるかわからない報告であり、彼にとって関わりの深い生徒が起こしている問題であった。
日野が佐々木の元を去ったあと、彼は誰にも気づかれないようこっそりと深い溜息を吐き、愚痴を漏らした。
「はぁ。まったく、これで何回目だよ由利……」
普段は形式上名字で呼んでいる問題児の名前を口にし、今彼女が待っているであろう生徒指導室へと重い足取りで彼は向かうのだった。
職員室を出て、長い廊下を歩いていると幾人もの生徒とすれ違う。まだ自分とさほど年齢の変わらない新任教師である佐々木には彼らも接しやすいのか気軽に声をかけてくれる。その度に佐々木は挨拶を返したり、軽く雑談をした。
そうこうしているうちに反対側の校舎にある生徒指導室へと辿りつく。シンと静まり返ったそこには一人の少女がいるはずだ。
ガラガラと、もうだいぶ老朽化した木製の扉を開き、佐々木は中に入った。
「あっ! ささ兄!」
生徒指導室の中へと入った佐々木を待っていたのは開口一番、教師に対してするものではなく、まるで近所に住む親しいものに対する言葉だった。実際、それはあながち間違いでもないのだが、ここはまだ学校であるため、職務中である佐々木は少女の言葉を注意した。
「こら、いつも言ってるだろうが。ここでは佐々木先生だろ、神谷」
これも何度目になるかわからない指摘であるため、若干呆れながら佐々木は少女、神谷由利にそう告げた。
「え~。だってさ、私から見ればささ兄が教師なんて言われてもピンとこないんだもん」
「そうだとしても、そこはちゃんと公私を分けるのが普通なの。まあ、それはまた今度でいいや。それで、今回はどうした?」
生徒指導室に置かれた椅子に座っている由利の対面へと佐々木は移動し、彼女と同じように座った。
「えっと、実はね……」
そう言って由利はポツリポツリと今回の話を話しだした。そして、それは教師からしてみればあまり取るに足らないことであり、逆に生徒である彼女からしてみれば重要だともいえることだった。
ようは彼女たちは本来許可を得てから使用する体育館での球技を勝手にボールを倉庫から持ち出して行っていたらしい。しかも、注意だけで済むところを他の子達を庇ってやけに由利が反抗したため、このように生徒指導室に呼ばれるということになったのだ。
教師に対してどこか反抗的。でも、それは自分以外の誰かを思っての行動のため生徒からは人気が高い。そんな生徒が神谷由利という少女だった。
「全く、そんなことなら直ぐに謝ればよかったのに。そういうとこお前は圭佑に似てるよな」
そう言って佐々木が苦笑する。彼が今思い浮かべたのは由利の兄であり佳祐の親友でもある神谷圭佑だ。今目の前にいる由利と同じ様に圭佑が高校生の頃は同じように問題を起こしており、佐々木もそれに巻き込まれるようにして問題児として扱われたりもした。
「え~圭佑と一緒とかないない。ささ兄、それはひどいよ~」
心底嫌そうに兄と同一視されるのを拒否する由利。兄である圭佑はこんなふうに嫌われていると知っていても彼女のことを溺愛しているのだ。思春期とは言えこれだけ嫌われるのはかわいそうだなと親友に対して佐々木は同情した。
けれども、他人の妹とは言え手間のかかる子ほどかわいいという。しかも由利は佐々木がこの学校に着任する前からの付き合いであるため、どうしてもほかの生徒より贔屓目に見てしまうことがある。
「まっ、問題を起こすのは程ほどにな。さすがにあまりにひどいと僕も庇ってやれないから」
「うんっ! ありがと、ささ兄!」
そうして今回の問題はこうして終わりを告げ、佐々木はその場で事の成り行きについてノートに纏めていた。だが、もう要は済んだのにも関わらず由利は部屋から出ていかない。部屋の外からは既に部活動に向かう生徒たちの声が響き、古い校舎の窓を揺らす風の音が聞こえてくる。
そんな中、シャープペンの音だけが響き渡る生徒指導室。佐々木はノートを書くのに集中しており、由利はそんな彼の前で両手で頬杖をついて楽しそうに彼を見つめていた。
「えへへ~」
実に幸せそうな緩みきった笑顔。他の誰でもない佐々木だけの前で見せる彼女の表情。そして、それに気がついた佐々木は無視するわけにも行かず手を止めて由利に注意する。
「こらっ、学校じゃ公私をしっかり分けろって言ったばっかりだろ」
「だってさ、だってさ。この部屋私たち二人しかいないんだよ? それならこうしていてもいいでしょ?」
「駄目、駄目。いつ他の人が来るかもわからないんだから……」
「む~っ。じゃあ窓締めればいいでしょ! 入口は磨硝子だから外からは人影があるくらいしかわかんないんだから」
そう言って由利は外窓の前にあるカーテンを引き、窓を全て覆った。そして今度は作業を止めた佐々木の隣に座り彼の服の裾をキュッと握り締めた。
「ねえ、こないだ宮下先生といい雰囲気だったって本当? なんか二人で食事に行ってたって聞いたんだけど」
「おいおい。そんなことどこで聞いたんだよ。まあ、事実だけどさ」
佐々木より二つ年上の先輩教師である宮下加奈子と以前食事に行ったことを話に持ち出された佐々木は女子高生たちの情報ネットワークの広さに心底驚いた。
「そんなことは今どうでもいいの! その、なんで一緒に食事になんて言っちゃったの……。私だって一緒にご飯食べに行きたいのに……」
シュンと肩を落とし、明らかに落ち込んだ様子を見せる由利。年上の女性に対する嫉妬の入り混じったその様子を見て佐々木は可愛らしいと感じた。
「いや、仕事の話をする上で仕方なかったんだよ。それに、宮下先生は彼氏いるぞ。だから、あまり心配するな」
そう言って佐々木は由利の頭を優しく撫でた。くすぐったそうにしながらも、由利はデレデレと頬を緩めて為すがままにされていた。
「ほんとッ!? ならよかった~……」
心底安心した様子の由利はとうとう佐々木に抱きついた。さすがにこれは佐々木もマズイと思い、彼女を引き離そうとするのだが、満面の笑みを浮かべる彼女を無理やり自分から離した時の反応を想像して、結局行動に移すことはできなかった。
「もう、少しだけだからな……」
そうして、いつもの決まり文句を言う佐々木。そんな彼の言葉に甘えながら今日も由利は幸せそうに微笑む。
「ささ兄、ささ兄!」
「ん? どうした……」
もうすぐ報告を書き終わりそうな佐々木を由利は呼びかける。そして、キョロキョロと周りを見渡し、誰もこの部屋に来る気配がないのを確認すると瞼を閉じ唇を彼に向かって突き出した。
「はぁ……。全く、お前は本当に問題児だな……」
公私共々手の焼ける生徒兼彼女に呆れながら佐々木は自分にとってのお姫様の機嫌をよくするため彼女の要望に応えた。
そっと触れ合うような優しいキス。数秒にも満たないそれでも、その行為をしてくれたのが嬉しいのか由利は終始笑顔のままだった。
問題を起こした生徒を指導するために教師が訪れる生徒指導室。だが今は、彼氏と彼女という秘密の関係を表に出せる学校唯一の聖域として二人は活用するのだった。