蘇った記憶
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拝観できる時間がすぎた夕暮れどきの教会に、人はまばらにしかおらず、静かなものだった。
マテリアは教会の表から入らず、教会の裏にある警護隊の詰め所へ行った。
ハミルから伝言を聞いているおかげか、待機していた隊員に快く中へ通してもらえた。
大抵の僧侶は、刻限がすぎれば近隣の宿舎に行くが、ロンドや現教皇など立場ある人間は教会内に寝床を構えている。
百年前の教皇ということで、ハミルは特別に教会の裏庭にある、来客用の離れを与えられていた。
早くハミルに会いたい。その一心で、マテリアは庭の隅に建つ、乳白色の壁の小さな家に駆けこむ。
「ハミル、こんばんは!」
「早かったね、マテリア」
扉を開けると、ハミルは重厚感のある木のテーブルに、花の絵が描かれたティーセットを並べている最中だった。
こちらへ気づくなり、彼は嬉しそうに表情をほころばせる。
外観よりは大きく感じる、広い居間。
来客用のためか、テーブルの脚や戸棚に、木や鳥の文様が施され、気品を演出している。
「まあ座って。今、お茶を淹れるよ」
言われるままに椅子へ座ると、マテリアはお茶の準備を進めたハミルを見上げる。
絶え間なく浮かべている、花もかすむような微笑が間近にある。
それが嬉しくて、マテリアの顔もつられて笑顔になった。
準備を終えて、ハミルがティーカップに茶を注ぐ。
湯気と一緒に甘みのある香りが、マテリアの鼻をくすぐる。
「熱いから気をつけて。よくマテリアは舌を火傷させていたからね」
「だってハミルの淹れてくれるお茶が好きだから、早く飲みたいんだ」
ハミルからカップを受け取ると、マテリアは口をすぼめて息を吹きかける。
湯気を何度か息で払うと、ゆっくり口に入れた。
香りと同じように柔らかな甘さが、飲んだ後から口の中に広がっていく。
「相変わらず飲みやすくて美味しいな。小さい頃はお茶なんて不味いと思ってたけれど、ハミルのお茶を飲んで、初めてお茶が美味しいって思えたんだよな。まさか百年後の世界で、また飲めると思わなかった」
「君にそう言ってもらえると、私も嬉しいよ」
半分飲み干したマテリアのカップへお茶をつぎ足すと、ハミルは自分のカップにも注いで向かい側に座った。
「すごく懐かしいな、こうやってマテリアと一緒にいられるのが……私が教皇になってからは会えなかったから、寂しかったよ」
「そんなに頻繁じゃなかったけど、ハミルが大きな行事で外に出てくるとき、見に来てたんだぞ。人が多すぎて近づけなかったけど」
今は違うみたいだが、昔は教皇が人前に出るというだけで、国中から人が集まっていた。
近くに行きたいのに、人の壁が厚すぎて近づけず……住む世界が違うことを、否応なしに押しつけられた。
思い出すだけで、マテリアの胸に刺すような痛みが走った。
また会えなくなったらどうしよう。
そんな不安を急に思い出し、マテリアは恐る恐る尋ねる。
「なあ……ハミルはこれからどうするんだ?」
少し考えてから、ハミルは寂しそうに苦笑した。
「実はロンドの後見人になってほしいと、教会から請われているんだ」
やっぱり、また一緒にいられなくなるのか。そう思うと悲しくて、マテリアは目を伏せる。
こちらの気持ちに気づいてか、「大丈夫だよ」とハミルが言い切った。
「三年ぐらいは教会から離れられないけれど、その後はマテリアと一緒にいられる。ロンドが約束してくれたんだ」
一瞬にしてマテリアの目の前が明るくなる。
三年我慢すれば、ハミルと一緒にいられる。
昔と違って、一緒にいる道が閉ざされていないなら、十分に待てる時間だ。
マテリアは破顔してハミルを見つめる。
「やった! ハミルと一緒に旅ができればいいと思ってたんだ。そうだ、三年も待ってるだけだと時間がもったいないから、ビクターに色々と教えてもらおう」
「……ビクターに?」
ふっと、ハミルから笑みが消える。
しかし、すぐに微笑んで「それは心強いな」とうなずいてくれた。
「ああ。ビクターはたくさんの国を旅していて、すごく物知りなんだ。私たちだけじゃあ、百年後の世界は知らないことだらけだし」
熱さにも慣れ、マテリアはお茶を多めに口へふくんで喉を潤してから、声を弾ませた。
「考えるだけでワクワクしてくる。だって、昔ハミルに旅行記を読んでもらってから、自分で世界を旅したいと思ってたからさ。それで……」
突然、マテリアの記憶が脳裏によぎる。
ずっと国から出たいと思っていた。
だから十八歳になって一人前になったら、旅に出ようとしていた。
そのことをハミルに伝えようとして、一度教会に忍びこんで――。
(何だこの記憶? 嫌だ、思い出したくない!)
マテリアは動揺を落ちつけようと、お茶を飲もうとする。
ハミルが淹れたお茶。
体が強張り、カップへ口をつけることができなかった。
「どうしたんだい、マテリア? 顔色が悪いよ」
昔と変わらない顔で、ハミルはきれいに笑う。その顔が、今は怖い。
ハミルの蒼い瞳が、冷たく見えた。
「あ、いや、何でもない。生き返ってから、たまに調子が悪くなるんだ」
「本当に大丈夫?」
心配そうにしながら、ハミルの手がマテリアに伸びてくる。
思わずマテリアは身を引いた。
伸ばした手を止め、ハミルは椅子に座り直し、マテリアを見すえる。
「……何か、思い出した?」
「ち、違う。ちょっと疲れて――」
くすり、とハミルが笑った。
「相変わらずマテリアは嘘が下手だな。思い出したから、私の淹れたお茶が飲めなくなった。私が君に触れるのを恐れた……違うかい?」
清廉な教皇の顔が消える。
目を細めてこちらを見る視線が艶めかしく、マテリアの背筋に寒気を走らせた。
こんなハミル、知らない。
「私のことなど、忘れたかった? 生き返った後も、私は君のことを覚えていたのに」
違う、と言い返したい。
なのに体の感覚がなくなり、マテリアの口は動かなかった。
「つい昨日のことのように思い出せるよ。君に殺された日のことは――」
呆然となるだけのマテリアへ、ハミルが笑いかける。
今まで見てきた顔なのに、その顔を優しいと思うことはできなくなっていた。




