欠けていた記憶
次の日。マテリアの目覚めは、いつになく爽快だった。
目の周りが少々腫れた感じはするが、気分は雲のように軽い。
ベッドから体を起こし、背伸びしながら窓際へ向かう。
「今日もいい天気だぞ、ビクター」
マテリアは勢いよく、水色の空を透かした窓を開放した。
ほのかに暖かい風と、いつもより賑やかな街の喧噪が部屋に入りこむ。
「た、頼む……寝させてくれ」
朝から元気なマテリアに対し、ビクターは未だベッドに横たわり、枕から頭を離そうとはしなかった。
「昨日マテリアが俺の腕の中で眠った後、オレの服をつかんで離さねぇし……その間ずーっと抱えてたから腕がダルいし、オレは眠れないし……大変だったんだからな」
ビクターは、頭まで布団を被って寝ようとする。
そんなの知ったことか。
マテリアは無骨にふくらんだ布団ごと、ビクターを激しく揺さぶった。
が、ビクターは動かない。そっちがその気ならばと、マテリアは布団に埋まったビクターの上へ乗り、勢いよく布団をはぎ取った。
「おはよう、ビクター」
「ったく何なんだ、その無駄な元気は? どうせ上に乗るなら、そんなガキ大将みたいじゃなくて、もっとこう悩ましげに色気出しながら――」
マテリアの背筋に悪寒が走り、はぎ取った布団をビクターの顔に押しつける。
「寝ぼけたこと言うな。そんなに寝たいなら、一生寝てろ!」
「わ、わかった、起きる。起きるから手をどけてくれ! く、苦しい……」
マテリアが軽やかにベッドから降りると、ビクターは目を閉じたまま、のっそり体を起こした。
「どうせ働いてないんだから、もっとゆっくり寝ればいいだろ。元農民だから早起きってか? ……うん? 外が騒がしいな」
外の賑わいに気づき、ビクターは目をこすりながら窓を見る。
「そうなんだ。祭りでもあるのかな?」
マテリアは窓から身を乗り出して外を眺める。
宿の前の通りでは、両脇に多くの人が集まり、間近にいる者と談笑していた。
真下の声を拾おうと、マテリアは耳をすます。野太い中年の声と、しゃがれた老婆の声が聞こえてきた。
『どうしたんだ、この騒ぎ?』
『あんた知らないのかい? 教会がこの間、百年前の教皇様を生き返らせたんだよ。その方を見せるために、これからパレードをするんだよ。ありがたや、ありがたや』
『百年前の教皇様だって?』
『ああ、そうだよ。教会で復活の儀式を見た者たちが、あの方を街の者に見てもらいたいと言い出してなあ。ま、アタシもそのうちの一人なんだけどねぇ』
『その教皇様がここを通るのか。そりゃ楽しみだ』
百年前の教皇……その言葉に、マテリアの鼓動が大きく脈打つ。
(私が小さい頃の教皇は、ヨボヨボの爺さんだったな。その次は……あれ、誰だっけ?)
まったく馴染みもない老教皇は思い出せるのに、自分が大きくなってからの教皇は思い出せない。
マテリアが何度も首をかしげていると、後ろからビクターに肩を叩かれた。
「どうしたんだ?」
「教会で百年前の教皇が生き返ったらしい。これからパレードで、ここを通るみたいなんだ。でも、どんな人だったか思い出せなくて……」
「ふーん。これから前を通るなら、ちょうどいいじゃねぇか。顔を拝めば思い出せるだろ」
「それもそうか」
素っ気ない口ぶりとは裏腹に、マテリアは窓枠に腰かけ、食い入るように通りを見つめる。
人々の歓声が、左手から聞こえてきた。
「あ、来たみたいだな」
早く顔を見たくて、マテリアは首を伸ばし、片手を窓枠に引っかけて体をギリギリまで外へ出す。
「馬鹿! そんなに出るな、落ちるだろうが」
ビクターがあわててマテリアの腰を引き寄せ、しっかり体を固定してきた。
ムッとマテリアが目をすわらせると、ビクターは呆れ顔でこちらをのぞきこむ。
「マテリア、そんなにヨボヨボ白髭じいさんに会いたいか?」
「いやいや、それはさらに前の教皇。じいさんではなかったよ」
これでもかとマテリアは首を振る。ビクターは「はいはい」と気のない相づちを打ち、マテリアと一緒に通りを眺めた。
しばらくして、通りの向こうから馬車が現れる。人々の声が一段と大きくなった。
マテリアは目を細めて、通りの真ん中を進んでくる馬車を見る。
「ん? あれは……」
まだ遠くでよく見えないが、天蓋の外された馬車に二人乗っているのがわかる。
一人は銀色の長髪の青年。宿とは反対側の通りを向き、手を振っている。
もう一人は小柄で髪の短い少年……うつむいて顔は見えなくとも、あれがロンドだとわかる。
ビクターもロンドに気づき、気の毒そうな声を出した。
「ロンドの奴、かわいそうになあ。緊張して真っ赤になってやがる」
「こういうの苦手そうだもんな、ロンドは……うーっ、さっきから百年前の教皇が、向こう側ばっかり見て、こっちに顔を見せないな」
馬車はもう少しで宿屋の前を通りすぎる。まだ百年前の教皇は、マテリアに頭しか見せていない。
「おーい、こっちにも顔を向けてくれよ!」
これだけの人だ、自分の声なんか届かないだろう。期待せずにマテリアは声を張り上げる。
手を振っていた長髪の教皇の動きが止まり、素早い動きでこちらを振り向く。
マテリアと目が合う。
彼の澄んだ蒼の瞳が丸くなっていた。
絵空事のように美しい教皇。そんな彼の姿を見ても、感嘆のため息は出てこない。
馴染みがありすぎて、その姿を見るのが当然だったから。
(どうして忘れていたんだ?)
マテリアの手が震える。
ふざけて遊ぶ自分を、いつも彼はにこやかに微笑んで見守っていた。
アスタロと、彼と、自分と。いつも三人で遊んでいた。
大好きで、大切な人。
左の獣傷がうずき、マテリアは手を添える。
(この傷だって、アイツをかばって作った傷なのに!)
今まであった胸の空白が、嘘のように満たされていく。
ずっと足らなかったのは、彼の記憶。
「ハミル!」
マテリアは窓枠から降り、踵を返す。
「どこに行くんだ、マテリア!」
驚いたビクターの声を聞きながら、マテリアは立ち止まらずに部屋から出ていった。