百年前の教皇
◆ ◆ ◆
日の傾きで朱色に染まった大礼拝堂は、僧侶と、厳格に教会への信仰を教えこまれた世代である、年配の信者に埋めつくされていた。普段の静けさからは想像もつかない熱気がこもっている。
人々が取り囲む中心には、光る水が入ったガラスの小瓶――死人還りの秘薬を手にしたロンドがいた。
そして数歩進んだ先には、石の棺が開かれていた。
ロンドのところから、棺の中に群青色の法衣を着せられたミイラが見える。
(……結局、止められなかった)
どれだけロンドが訴えても、教皇ヴィバレイは話を聞かず、側近のシムを始めとするほかの僧侶たちも「教会のためです」の一点張り。ついに儀式までこぎつけられてしまった。
この場にいる人々の視線がロンドを突き刺す。
恥ずかしさで頬がほてり、思わずうつむく。
(やっぱり僕は秘薬を使いたくない。どうすれば……そうだ、わざと秘薬を落としてしまおう。予備の秘薬も使わせないように、法術で結界を張ろう。ハミル様の魂を僕たちの都合で、好き勝手にしていいわけがないもの!)
でも、もしかすると秘薬を台なしにしたせいで、教会から追い出されるかもしれない。思わずロンドの小瓶を持つ手に力が入る。
「ロンド様、そろそろお願いします」
横に控えていたシムが、そっとロンドへ耳打ちした。
「は、ははは、はい」
ロンドの声が大きく揺れる。自分の思いと、人々の期待を裏切ることの板ばさみで、次第に体も小刻みに震え出す。
「ロンド様、ただ棺に秘薬を注げばいいのです。それぐらい、できましょう」
「も、もちろんです。さ、さ、下がっていてください」
冷や汗を額へにじませながら、ロンドはやっとの思いで返事をする。
どこか不自然な様子に、シムは貧相な眉をひそめる。
「こ、こんなに多くの人がいるので、き、緊張して……」
早くシムに離れてもらおうと、ロンドは震えながら彼に微笑みかけた。
いつものことかと言わんばかりに、シムはため息をついて後ろに下がった。
(よ、よし。やるぞ)
決意を固めて、ロンドは一歩棺に近づき、ガラスの小瓶を高々と上げ――。
(人の命を勝手にあやつるくらいなら)
――勢いよく腕を振り下ろした。
(僕が非難されたほうがマシだ!)
小瓶が汗ですべり、ロンドの手から離れる。
人々の息が引いていくのが聞こえた。
(これでいいんだ。これで……)
小瓶は体をひねらせながら、床で弾ける。
ガラスが割れる音はなかった。
音の代わりに光が爆ぜた。
光は棺の下に広がる太陽の文様の隅にこぼれ、白光の柱が立つ。
光は次第に強くなり、閃光となる。
その場にいた者すべてが、あまりのまぶしさに驚き、大礼拝堂が騒がしくなった。
光から目をかばいながら、ロンドは棺の中のミイラを見つめる。
一番まばゆい光は、ミイラに宿っていた。
(……え?)
ロンドは我が目を疑う。秘薬がミイラにかからないよう、床へ叩き落したはずなのに……ミイラは光に包まれ、朽ちた肉体を隠していく。
(そんな! 近くに亡骸があるだけで、効果があるなんて)
動揺するロンドに構わず、光は弱まっていく。
ぼんやりと棺の中が見えてくる。
すでに乾いたミイラの姿はなく、瑞々しい肌が現れていた。
辺りは淡い光で満たされ、清々しい空気が流れると――棺から一人の青年が体を起こした。
鼻筋の通った秀麗な顔は男性のものだとわかるのに、見目のよい女性よりも整っていた。
銀糸の長髪は光に照らされて輝き、神々しさを強めている。しかし虚ろで深い蒼の瞳が、どこか妖艶さを感じさせた。
ロンドが小走りに棺に近づくと、青年はゆるやかな動きでこちらを見上げる。
(これが百年前の教皇、ハミル様)
間近でハミルを見ると、ミイラだったとは思えない肌の透明さや、薄い紅に染まった唇に目を奪われる。
(僕と同じ人間とは思えない。本当は天上の神様なんじゃあ……)
ロンドの動悸は早まっていく。
次第にハミルの目に力が戻っていく。
焦点が合い、彼はロンドの姿を捕える。
「手を……貸してくれませんか?」
青年にしては柔らかな、耳に心地よい声。
あわててロンドが腰を屈めて手を差し出すと、ハミルは手を乗せてきた。
華奢だが大きな手。温かな重みは、彼が生きているという実感を与えてくれる。
ハミルが立ち上がると、それだけで存在感は強まる。
この世のすべてを受け止めてくれるのでは、とさえ感じさせる包容力。そのせいか体躯は中背だが、大きいように思える。
それは現教皇のヴィバレイも、ロンドも持たない資質だった。
光が徐々に薄れ、呆然となっていた人々がハミルの姿に気づいていく。
「き、奇跡だ!」
「何と神々しいお方じゃ、ありがたや」
「あれがハミル様……」
人々の声に気づき、ハミルは辺りを見渡しながら、にこやかに手を振る。
周囲の動揺は、歓喜のざわつきに変わった。
ひと通り周囲に笑顔を振りまくと、ハミルはロンドを見つめる。
間近で見つめられると、その神々しさにロンドは思わずひざまずきたい衝動に駆られる。
「貴方の名は?」
ハミルに尋ねられ、ロンドの声が上ずった。
「あの、ロンドと申します」
「そうですか。ではロンド、参りましょうか」
ぎくしゃくしたロンドの声に何も言わず、ハミルは長く繊細な手を差し出した。
「はいっ」
きっと人ごみから離れたいのだろう。甦ったばかりの体は疲れきっている。
マテリアが生き返ってすぐ眠ったように、ハミルも同じような状態のはずだ。
まずは早く休ませなければ。
ロンドはハミルの手を引き、厳かに並んで廊下への扉に歩いていった。
二人が廊下へ入ると、気づかうように僧侶たちが扉を閉めてくれた。
人の目がなくなった途端、ロンドの体から力が抜けて、絨毯に足先をとられて前のめりになる。
「大丈夫ですか?」
倒れそうになったところを、ハミルがとっさにロンドの腕をつかんで止めた。
「ありがとうございます、ハミル様」
ホッと息を吐き出すと、ロンドは体勢を直してハミルを見上げる。
目の前の現実に、ロンドの血の気が引いた。
「す、す、すみません! 安らかに眠っておられたというのに、叩き起こすようなマネをして……何とか止めようとしたのですが、僕が未熟なばかりに……」
疲れを忘れ、ロンドは必死に頭を下げる。ハミルは何も言わない。
扉の向こうから聞こえてくる、人々の嬉々とした声だけが廊下に流れる。
しばらくして、ハミルは小さなため息をついた。
「ロンド、これは一体どういう状況なのですか?」
「ここはハミル様が亡くなられてから、百年経ったライラム教の教会です。ハミル様のお力を借りたくて、教会に伝わる死人還りの秘薬を使いました」
ロンドの話を聞いて、ハミルが訝しげに目を細める。
自分がハミルと同じ状況になれば、急にこんなことを言われても困るだけだ。
ハミルが返事を待っている。ちゃんと説明したいのに、言葉がなかなか出てこない。
ロンドは沈黙に耐えかね、再び謝った。
「その、本当に申し訳ありません」
もう一度頭を下げようとしたロンドを、ハミルは首を振って制する。
「……謝らないでください。理由があって私を甦らせたのでしょう? 私の力が必要ならば、喜んで力になりますよ」
きっと勝手に生き返らせたという困惑や、憤りもあるだろう。
それを呑みこんで、すべてを受け入れる慈悲の心。
思わずロンドの目頭が熱くなり、涙がこみ上がりそうになる。
(ああ、この方は文献に書かれている通り、徳の高い教皇様なんだ。悪しき心どころか、こんなにもお優しい)
マテリアといい、ハミルといい、秘薬の副作用が働いているようには思えない。
彼らの人柄と、光の精霊のご加護があったのだろうと、ロンドは心の中で感謝の祈りを捧げた。
「顔を上げてください、ロンド」
言われるままにロンドは頭を上げる。そこには優雅に微笑むハミルの顔があった。
「ロンド、貴方が今の教皇なのですか?」
「いえ、僕は……まだ未熟者ですが、次期の教皇として精進している最中です。今の教皇様はヴィバレイ様と言って、この奥のお部屋にいらっしゃいます」
ロンドが廊下の奥を指差すと、ハミルは小さくうなずいた。
「そうですか。では、ヴィバレイ様にお話をうかがいに参りますね」
「わかりました。こちらへどうぞ」
案内しようとしたロンドを、ハミルがそっと肩に手を置いて引き止める。
「私一人で行かせてください。今の教皇がどのようなお人なのか、しっかり見定めたいので……きっと話も長引くでしょう。疲れている貴方に、無理はさせたくありません。どうか、ゆるりと休んでください」
自らも疲れているだろうに、気づかってくれるなんて。
ここで首を横に振れば、ハミルの心づかいを無駄にしてしまう。
ライラム教の経典には、『人の好意を素直に受け取ることも、また徳を高める道』だと記されている。
少々後ろ髪を引かれる思いだったが、ロンドは「ありがとうございます」とうなずいた。